孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

歴史は繰り返す。250年越しのウクライナへの野望。ハイドン:交響曲 第78番 ハ短調

ロシア女帝エカチェリーナ2世

自分の野望で命を縮めた皇帝

皇帝ヨーゼフ2世の音楽論議を取り上げてきましたが、いよいよヨーゼフ2世の最後について見ていきましょう。

彼は、先進的で民主的な啓蒙君主でしたが、対外的には驚くほど好戦的で、領土拡大に執心した皇帝でした。

〝戦争は他国に任せておけ。幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ〟といわれ、血を流すことなく、政略結婚によって領土を増やしてきたハプスブルク家の皇帝としては、珍しい存在です。

母帝マリア・テレジアは、そんな息子の危なっかしい政策を危ぶみながら世を去りましたが、その心配は現実のものとなってしまいました。

ヨーゼフ2世は、まさに戦争によって命を縮めてしまったのです。

ポーランド分割バイエルン継承戦争と、母帝が存命のうちから領土拡大を図っていたヨーゼフ2世ですが、母の崩御後に手を出したのが、東方でした。

そこには、オーストリアの長年の宿敵、オスマン・トルコ帝国があります。

かつては、2度にわたって帝都ウィーンが包囲されたほどの強敵ですが、今は往時の勢いはなく、だんだんと弱体化の一途をたどっていました。

最初にこれに付け込んだのが、ロシア帝国です。

女帝が始めたウクライナ侵略

グリゴリー・ポチョムキン(1739-1791)

ロシア女帝エカチェリーナ2世は、ウクライナで起こった反乱を陰で支援し、反乱軍がトルコ領に攻め入るように仕向けました。

今のウクライナの首都キーウがある、ドニエプル川右岸地方は当時はポーランド領であり、諸国の思惑が交錯して複雑な様相を呈していました。

1768年に、ロシアの挑発に乗ったオスマン・トルコはロシアに宣戦布告し、第一次露土戦争が勃発。

1773年にキュチュク・カイナルジ条約によってロシア優位のまま戦争は終結しますが、ロシアは大きな権益を得ました。

これまで、チンギス・ハーンの後裔が治めていた黒海沿岸のクリミア・ハン国は、トルコの保護国になっていましたが、これをトルコの宗主権から切り離すことに成功。

ロシアはこの地域に大量の植民を送り込み、「ノヴォ・ロシア(新ロシア)」と呼びます。

現在、ウクライナ国内にいる「親ロシア派」というのは、この時期の植民者にルーツがあります。

ウクライナは肥沃な地でしたが、人口は少なく、「荒野」と呼ばれていました。

ロシアは、ここに、貴族の収奪に耐えかねた逃亡農民や、各国の移民を送り込みました。

エカチェリーナ女帝は、自分の愛人グリゴリー・ポチョムキン公爵を、ノヴォ・ロシアの総督に任命して、さらなるロシア化を推進。

土地をロシア貴族に分配し、ウクライナ農民をその農奴としました。

最初のクリミア併合

女帝エカテリーナ2世のクリミア行幸

1783年には条約を破って、クリミア・ハン国を強引にロシア帝国に併合してしまいます。

1787年には、新領土を視察するため、エカチェリーナ女帝はクリミアに行幸します。

ポチョムキンは、まだ開拓が進まず、荒れていたウクライナを豊かな地に見せるため、女帝の船が下るドニエプル川の両岸に、豊かな農村風景を描いた張りぼてを立てて、船が通り過ぎると、さらに下流に持っていって立てた、という伝説があります。

女帝の通る道筋の整備を命じたのが、このような都市伝説になってしまったのですが、「見せかけだけのもの」をポチョムキン村」と呼ばれることになりました。

現代でも平壌が、外国人の目に触れるところだけ近代的に見せかけているのは、これに当たるでしょう。

プーチンは執務室にピョートル大帝の肖像を飾り、敬愛しているそうですが、大帝が始めた黒海進出を大きく前進させたのは、エカチェリーナ女帝です。

いずれにしても、現代になってのウクライナ侵攻は、時代錯誤としか言いようがありません。

ロシアと組んだヨーゼフ2世

ヨーゼフ2世

さて、オスマン・トルコは当然激怒。

クリミア奪回の準備をはじめ、英国、フランス、プロイセンもこの動きを支持します。

エカチェリーナ女帝は、国際的な孤立を恐れ、クリミア行幸中の1787年に、ヨーゼフ2世に会見を申し入れます。

腰の軽いヨーゼフ2世は、これも領土拡大のチャンスとばかり、エカチェリーナ女帝に会いにいきます。

会見場所は、現在激戦の末にウクライナが奪回した、ドニエプル川の河口の街、ヘルソン

ポチョムキンが築いた街です。

そこで、両帝は、対トルコ、対プロイセンで共同戦線を張ることに同意。

なんだか、今のロシアが中国に秋波を送っているのに似ており、まさに歴史は繰り返す、といった感じを受けます。

しかし、会談の途中で、ハプスブルク家ネーデルラント(現ベルギー)で反乱が起きた知らせが入り、ヨーゼフ2世は急遽ウィーンに戻ります。

反乱の原因は、自らの性急な改革に対する反発でした。

広大な自国領をうまく治めることもできていないのに、さらに外に侵略しようとするヨーゼフ2世

もはや止める母帝もこの世にはいません。

再び、戦火が迫っていました。

 

それでは、ハイドンのシンフォニーを聴いていきましょう。

冒頭、不安な響きのする、久々の短調の曲です。

ハイドン交響曲 第78番 ハ短調

Joseph Haydn:Symphony no.78 in C minor, Hob.I:78

演奏:アダム・フィッシャー指揮 オーストリアハンガリーハイドン管弦楽団(現代楽器使用)

第1楽章 ヴィヴァーチェ

第76番 変ホ長調、第77番 変ロ長調とともに《イギリス交響曲》と呼ばれる3曲セットの最後の曲で、実現しなかった英国演奏旅行のために作曲されました。

短調のシンフォニーは、第45番『告別』(1772年)以来、10年ぶりの作曲です。悲劇的な調、ハ短調で、大きな身振りで悲壮感に満ちた第1主題が鳴らされます。しかしやがて、変ホ長調に転調し、明るい光をまといながら走ってゆきます。弦同士の掛け合いが颯爽として、さわやかです。展開部では、また短調の陰が差し、対位法的な処理による迫力で聴く人を圧倒します。時々、ハッと音楽は立ち止まるのがドラマチックな効果を生んでいます。最後は、長調に「陽転」することなく、悲壮な短調のまま終わります。ハイドンはこの後、短調のシンフォニーを3曲(第80番 ニ短調、第83番《めんどり》ト短調、第95番 ハ短調)書きますが、いずれも最後は陽転するので、短調で終わるのはこの曲が最後ということになります。

第2楽章 アダージョ

変ホ長調の穏やかな曲で、弦やホルンが刻む時計のようなリズムに癒されます。ただ、同音連打が重なり、畳みかけるような部分には、第1楽章にあるような緊張感を感じます。展開部でのホルンの連続和音は、この楽章のクライマックスといえます。最後はヴァイオリンのソロが軽いスパイスを利かせます。

第3楽章 メヌエット:アレグレット

ハ長調のスタンダードなメヌエットと思っていると、いきなり短調の切り込みがあり、アクセントとなっています。トリオではオーボエが活躍します。終わりは珍しく、管楽器だけとなります。

第4楽章 フィナーレ:プレスト

ハ短調ロンド形式です。ロンドのテーマは、まるで対話をするかのようなフレーズが印象的です。短調でもあり、何か論争でもしているようです。一転、ハ長調になり、オーボエがおどけたように奏でられます。再びロンドに戻ると、ここでも時々立ち止まり、再び動き出したと思うと、対位法的な処理で奥が深い響きとなります。最後は、またヴァイオリンのソロが出たかと思うと、また立ち止まり、十分じらした上で、祝祭的に曲を閉じます。短調とはいえ、全体としては悲壮感より、ハイドンの才気が感じられる音楽です。

 

今回もお読みいただき、ありがとうございました。

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