焦りでトルコに攻め込んだ皇帝
1788年2月9日。
ヨーゼフ2世はオスマン・トルコ帝国に宣戦布告し、兵員24万5千、騎馬3万7千、大砲900門という大軍を発しました。
ロシアのエカチェリーナ女帝とオスマン・トルコ帝国との戦争が始まり、戦果をロシアに独り占めされるのを恐れての大規模参戦でした。
〝王座にいる革命家〟と言われるほど、啓蒙君主の代表として、人民を幸せにすることが自分の第一の責務、と自認していたヨーゼフ2世が、こんなに人民を苦しめる戦争を性懲りもなく何度も繰り返すなんて、その自己矛盾に戸惑わざるを得ません。
また、こよなく音楽を愛し、音楽家を後援し、ウィーンを音楽の都として確立させた皇帝なのに。
全ては、プロイセンのフリードリヒ大王への憧れと対抗心が元だと言われています。
ただ、大王のプロイセンは新興国であり、列強にのし上げるために無理な領土拡張戦争を繰り返しましたが、旧大国オーストリアは、今の領土を守るだけで精一杯のはず。
次世紀の帝国主義時代が近づいていた足音を感じたのかもしれませんが、国力に対して無理な戦争でした。
そしてそれは、自分の命も縮めてしまったのです。
初動から踏み外した戦争
戦争はいきなり誤算から始まりました。
開戦後、一気に素早く攻撃し、有利な状況にもっていくべきなのに、初動から、オーストリア軍はロシア軍を頼りにしていました。
そのロシア軍が予想に反して、動きが鈍かったために、オスマン・トルコ軍がベオグラード(現セルビアの首都)に終結するのを許してしまい、攻撃しようにもできなくなってしまいました。
そうこうするうち、7月にはオスマン軍はドナウ川を越え、オーストリア領だったバナト地方(今のハンガリー、ルーマニア、セルビアにまたがる地域)に攻め込んできました。
5万人ものセルビア難民が押し寄せ、戦いを妨げます。
戦下手を露呈した皇帝
ヨーゼフ2世は自ら出陣、前線に出て指揮を執ります。
軍事的天才と讃えられるフリードリヒ大王は、「常に君主は戦場で兵士とともにあるべし」というモットーで、常に自ら戦闘の指揮を執っていました。
ヨーゼフ2世はその姿に憧れ、自分も実践したのですが、悲しいかな、彼には軍事の才能はありませんでした。
副官のラシ元帥もお世辞にも戦上手とはいえず、勝機を何度もむざむざ逃しました。
皇帝も誰にも相談せず、自分であれこれ考えて一方的に指図するので、将軍たちも進言しにくい状況でした。
これで戦争がうまくいくはずがありません。
挙句の果て、1788年9月、ティミショアラに近いカラーンシェベシュで、オーストリア軍はなんと同士討ちを演じてしまいます。
オーストリア軍は多民族の混成部隊ですから、もともと情報共有、意思疎通に問題があったのですが、さらに皇帝のもと指揮系統が混乱し、味方を敵の来襲と勘違いしてしまったのです。
フリードリヒ大王だったらあり得ない事態です。
さすがのヨーゼフ2世も、自分の失敗に落ち込んだと言われています。
さらに、オーストリア軍を災禍が襲います。
前年の凶作による飢餓と、マラリアの蔓延です。
マラリアは「エピデミック」の様相となり、28万の軍勢のうち、17万2千人が病気になり、3万3千人が死亡しました。
ヨーゼフ2世自身も戦場で持病の肺疾患を悪化させ、弟レオポルトに『乾いた咳が出て息苦しく、やせ衰え、夜も眠れず、微熱が出る。』と手紙で嘆いています。
そして、健康の悪化と、自らの指揮に自信をなくした皇帝は、1788年11月18日にベオグラード郊外のゼムンをあとにして、ウィーンに帰還したのです。
事態を好転させた、老将の出陣
戦争はその後もしばらく膠着状態が続きましたが、翌1789年の夏以降、事態は好転します。
7月31日、コーブルク将軍率いるオーストリア軍と、名将スヴォーロフ将軍率いるロシア軍は、フォクシャニの戦いでオスマン軍に勝利しました。
さらに、宰相カウニッツ侯爵の進言を容れて、総指揮官をラシ元帥から、母帝マリア・テレジア時代の老練な将軍、ラウドン元帥に代えました。
72歳の老将の出陣です。
ラウドン将軍は、またたく間にセルビアでオスマン軍を撃退、10月初めにはベオグラードの占領に成功したのです。
ハイドンが、自ら作曲したシンフォニー(第69番)に出版社が『ラウドン将軍』と名付けたのを知り、『そりゃ売れる』と太鼓判を押しただけのことはあります。
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しかし、戦いの推移はそこまででした。
戦線は再び膠着状態に陥ります。
それでは、ハイドンのシンフォニーを聴いていきましょう。
出版用に作曲された第79番、第80番、第81番のセットから、第80番です。
Joseph Haydn:Symphony no.80 in D minor, Hob.I:80
演奏:ジョヴァンニ・アントニーニ指揮 カンマーオーケストラ・バーゼル(古楽器使用)
第1楽章 アレグロ・スピリトーゾ
冒頭、いきなり暗く激しい、ただならぬ雰囲気で始まります。これから悲壮な音楽が続くかと思いきや、明るいヘ長調に転調し、颯爽としてかっこ良い調子になります。どこかはぐらかされる感じを受けますが、この曲は基本明るく輝かしい音楽であり、それを引き立てるために短調が使われているのだ、ということが分かります。第2主題はさらにのどかな、ワルツのようなスコッチ・スナップで、さらに明るさが強まります。展開部はそのスコッチ・スナップが変ニ長調に転調されて始まり、不思議な感じを受けます。第1主題が対位法的に処理され、迫力ある悲壮感と、のどかな平和さの対比がこのシンフォニーのテーマなのだな、と感じます。これまでの短調のシンフォニーの楽章は、短調に始まって短調で終わるのですが、この曲では長調で終わるのです。人によっては中途半端と感じるかもしれませんが、こうした対比の妙もハイドンの魅力なのです。
実に美しい楽章です。変ロ長調ののびやかで叙情的な第1主題が、ヘ長調の第2主題と絡み合い、変幻自在に展開していきます。さわやかな空気を胸いっぱいに吸うような心地がします。フルートがずっと長く伸ばす部分も素敵です。中間部では、短調に揺らぎ、哀感が胸に迫ります。ソロ・ヴァイオリンがモノローグをつぶやいたかと思うと、さらにオーケストラが嘆きを増幅させますが、それもひとときで、また穏やかな光の中に戻ってゆきます。
ニ短調の哀感と緊張感を帯びたメヌエットですが、どこか明るさもはらんでいます。印象的なのはヘ長調のトリオで、これは、シンフォニー第26番『ラメンタチオーネ』に取り入れられたグレゴリオ聖歌に基づく旋律です。
第4楽章 フィナーレ:プレスト
フィナーレも短調ではなくニ長調ですから、後の第95番 ハ短調と同様、短調はアクセントとして使ったシンフォニーであることが明白です。モーツァルトの短調シンフォニーとは性格が異なるといえます。
シンコペーションの多用が特徴的な楽章です。さっそく第1ヴァイオリンがシンコペーションに満ちた第1主題を歌いますが、何かをつぶやくような、癖になる旋律です。第2主題は2本のオーボエが3度の平行で奏でます。展開部のシンコペーションは、大胆な半音階的転調もはらみ、当時の批評家からは〝やりすぎ〟と批判されましたが、これもハイドンの実験といえます。再現部は、まるでサーカスのように盛り上がり、曲を閉じます。
動画は同じく、アントニーニ指揮のカンマーオーケストラ・バーゼルです。
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