孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

フランスに取られた、亡き父の故郷を訪ねて。~マリー・アントワネットの生涯6。ハイドン:交響曲 第86番 ニ長調

群衆に囲まれるマリー・アントワネットの馬車

マリー・アントワネットのフランスへのお輿入れの旅の続きです。

17日目、5月7日。ストラスブール入城

マリー・アントワネットストラスブール入城

ライン川の中洲に設けられた「引き渡しの館」で、オーストリアから正式にフランス側に引き渡され、神聖ローマ帝国皇女マリア・アントニアは、フランス王太子マリー・アントワネットとなりました。

そして午前11時、西側のドアから出てフランス人となったマリー・アントワネットは、フランス最初の大都市ストラスブールに入城します。

市では、長く語り継がれることになるほどの大祝祭で王太子妃を迎えました。

大聖堂の鐘が打ち鳴らされ、スイス衛兵の放つ祝砲が轟く中、白い衣装を着た何百人もの子供たちが花を撒きながら花嫁の行列を先導します。

楽隊が音楽を奏でる中、王太子妃の行列は、このために作られた凱旋門ブーシェ門から市内に入ります。

王太子妃のガラス張りの馬車が見えると、群衆は地も揺らぐばかりの歓喜の声を挙げます。

家々は花々で飾られ、広場の噴水からはワインが流れ、牛が1頭丸焼きにされ、籠に入ったパンが貧しい人々に配られました。

羊飼いの服装を身に着けた少年、少女が王太子妃に花かごを贈り、アルザス風の衣装の男女が彼女の足元に花を撒きます。

王太子妃はこの上なく優雅な身のこなしで挨拶し、男女に一人ひとり名前を訊き、返礼にロココ調の優雅な扇を下賜します。

因縁の地、アルザス・ロレーヌ

今宵の宿舎は、ストラスブール司教ロアンの館。

ロアン司教の歓迎の挨拶のあと、市長が歓迎の言葉をドイツ語で述べようとすると、マリー・アントワネットはそれを遮り、『フランス語でどうぞ。紳士の皆様、これからはドイツ語ではなくフランス語でお願いします。今日から、私もフランス人なのですから。』としっかりと発言します。

このやり取りには、事前のお膳立てがあったのかどうか。

とっさの機転であれば、14歳にしてさすが皇女、と言わざるを得ません。

ここストラスブールのあるアルザス、そして隣のロレーヌは、長年ドイツとフランスの係争の地でした。

フランス語でアルザス・ロレーヌといいますが、ドイツ語ではエルザス・ロートリンゲン

ストラスブールはフランス語で、ドイツ語ではシュトラスブルク

マリー・アントワネットの父、フランツ1世はもともと、この地を支配するロレーヌ公でした。

ロレーヌの歴史は、はるか昔の中世、ゲルマン民族の一部族であるフランク王国が、カール大帝のもと、西ローマ帝国を復興したときに遡ります。

カール大帝は西ヨーロッパを統一しますが、フランク族の伝統では、その所領は長子が相続するのではなく、男子の兄弟で分割することになっていました。

そのため、カール大帝と、その息子ルートヴィヒの死後、3人の孫によって帝国は3分割されました。

843年、ヴェルダン条約によって長子ロタールは真ん中、東側は次男ルートヴィヒ、西側は三男シャルルが領有することになり、さらにロタールの死後、870年のメルセン条約によって、ロタールの国、中部フランクのうち、今のアルザス・ロレーヌのあたりが東フランクと西フランクに分割されます。

そして、東フランク王国はドイツ西フランク王国はフランス中部フランク王国はイタリアの原型となっていきます。

ロレーヌ、あるいはロートリンゲンは、ロタールの国、を意味するロタリンギアからきています。

この地方はそもそも、成立当時から東西の係争の地だったわけです。

時代は下って17世紀、ロレーヌ公国三十年戦争でフランスに占領されますが、ウェストファリア条約でドイツに返還。

ルイ14世は再びロレーヌを侵略。

父が泣く泣く手放した土地で

マリー・アントワネットの父皇帝フランツ1世(元ロレーヌ公フランツ・シュテファン)

ロレーヌ公フランツ・シュテファンは、母がルイ14世の弟オルレアン公の娘で、母方にブルボン家の血を引いていましたが、父方の曽祖父はハプスブルク家の皇帝フェルディナント3世でしたので、両家の血を引いており、まさに地政学的にも血縁でも両家の狭間にありました。

ですが、神聖ローマ皇帝カール6世の長女マリア・テレジアを妻にしたことになり、ハプスブルク家寄り、というよりその一員になりました。

カール6世が跡継ぎの男子のないまま崩御すると、長女マリア・テレジアが広大なハプスブルク家領を相続しますが、フランク族以来のサリカ法の規定で女性は皇帝になれません。

そのためオーストリア継承戦争が起こりますが、その結果、マリア・テレジアの相続と、帝位をその夫フランツ・シュテファンが継ぐのを認める代わりに、ロレーヌ公領は、ルイ15世の舅で、ポーランド王位を失ったスタニスワフ・レシチニスキに与えられ、彼が亡くなるとフランス領に併合されたのです。

フランツ・シュテファンは、帝位の代わりとはいえ、先祖代々受け継いできたロレーヌ公領とトスカーナ大公領を取り替える条約に、どうしてもサインできず、三度もペンを投げだしたということです。

マリー・アントワネットを含むマリア・テレジアの子孫たちから、ハプスブルク家の血は女系となったため、家名もハプスブルク=ロートリンゲン家に変わりました。

すなわち、今マリー・アントワネットが滞在しているアルザス・ロレーヌは、父が泣く泣く手放した先祖代々の故地なのです。

そして、この地を巡った両家の因縁の争いに終止符を打つべく実現したのが、マリー・アントワネットの結婚。

オーストリアとして、もはやこの地に執着はない、ということを示すため、私はもうフランス語しか話さないフランス人です、とこの地で声明したわけです。

母帝の入れ知恵でないとすれば、14歳にして見事な政治感覚です。

ちなみに、アルザス・ロレーヌ地方は、1871年普仏戦争の結果、再びドイツ領となり、第一次世界大戦でフランス領、第二次世界大戦で前半またナチス・ドイツに占領されますが、戦後フランス領になって現在に至ります。

まさにヨーロッパの戦争の火種になってきた土地なので、現在では不戦の誓いのもと「ヨーロッパの歴史を象徴する都市」として欧州議会が置かれています。

因縁のロアン司教館に宿泊

マリー・アントワネットが宿泊したロアン宮殿

さて、ストラスブール大学に留学していた若きゲーテは、群衆の中で王太子妃の馬車を見て、次のように書き記しています。

『ガラス窓から中の様子がよく見えた。花嫁はお付きの女官達と打ち解けたように話しており、野次馬達が馬車になだれよるとからかったり、ふざけて、見せたりした。』

『あの美しく高貴で、溌剌とした若い女性のことを私は今でもはっきり思い出す。』

この日はロアン司教の館、ロアン宮殿に宿泊。

ロアン司教の出身、ロアン=ゲメネ公家はこの地の大富豪で、18世紀初頭からストラスブール司教職を世襲していました。

その館は、宮殿といっていいほど豪奢なものでした。

祝祭は夕食会、劇場での観劇と続き、夜の12時のシンデレラタイムになっても舞踏会が開かれました。

町はイルミネーションで飾られ、ライン川にはたくさんの色とりどりの灯火を灯した無数の船が浮かび、王太子王太子妃のイニシャルを絡ませた形の花火が打ち上げられました。

18日目、5月8日。

マリー・アントワネットに謁見するストラスブールの名士たち

翌朝、王太子妃は地元の名士たちの謁見があったあと、大聖堂に向かいます。

ストラスブール大聖堂では、ロアン司教の甥が司教補佐として出迎えます。

司教は、次の地で王太子妃を出迎えるため、先に出立したのです。

この司教補佐はミサのあとの説教で、次のように述べます。

『久しい以前からヨーロッパの賛嘆の的であり、後世までもそうであろう、あの敬愛すべき女帝の生き写しであられる妃殿下。あなたはいま私達の国の人となられるのでございます。ブルボン魂と結び合おうとしているのは、マリア・テレジア魂にほかなりません。』

この司教補佐、ルイ=ルネ=エドゥアール・ド・ロアン=ゲメネー(1734-1803)は、2年後、マリー・アントワネットの兄帝ヨーゼフ2世が企てたポーランド分割の情勢を把握するため、ウィーン駐在のフランス大使となりますが、聖職者にあるまじき放蕩ぶりで、マリア・テレジアの不興を買うのです。

追い払われるようにフランスに帰任したあと、枢機卿にまで出世し、さらにフランス王国で要職に就こうと画策。

その中で、「首飾り事件」を巻き起こして、王妃となったマリー・アントワネットの評判を致命的なまでに落とすのに一役買うのです。

まさに彼女にとって因縁の疫病神でした。

フランスの神前で最初に受けた祝福が、この人物からだったことは、前日のタペストリーの一件よりも不吉な悪縁だったといえます。

午後、ストラスブールを後にした王太子妃は、サヴェルヌにあるロアン司教の別荘に到着。

ここで、先回りしていた司教の出迎えを受けます。

すぐに舞踏会が始まり、晩餐会には200名が出席。

夜は花火です。

ストラスブール大聖堂

19日目、5月9日。

ナンシーのスタニスラス広場(左から二番目の建物がマリー・アントワネットが宿泊したグラン・ホテル・ド・ラ・レーヌ)

サヴェルヌからリュネヴィルを経由し、ナンシーを目指します。

ナンシーはまさに、父の故郷、ロレーヌの都。

到着は夜になり、サン・ニコラ門にて知事のショワズール・ラ・ボーム侯爵の出迎えを受けました。

宿泊は、父からロレーヌ公位を受け継いだスタニスワフ・レシチニスキの彫像の建つ、スタニスワフ広場に面した知事公邸。

この館は、今では、マリー・アントワネットが宿泊したことを記念して、「グラン・オテル・ド・ラ・レーヌ」というホテルになっています。

20日目、5月10日。

父方の先祖が眠る、コルドリエ教会のロレーヌ公廟(ナンシー)

衆人環視の昼食後、父方の先祖たちが眠るロレーヌ家の廟所、コルドリエ教会に礼拝。

その後ナンシーを出発し、夜にパール・ル・デュックに到着。

「オテル・ド・フロランヴィル」に宿泊。

ここでも祝祭の花火が上がります。

21日目、5月11日。ついに退屈さが…

マリー・アントワネットのために建てられたサント・クロア門(王太子妃の門)

サン・ディジエを経由してシャロンに到着。

このあたりは、シャンパンで有名なシャンパーニュ地方です。

ここでもこの日のために凱旋門が築かれ、これはサント・クロア門と名付けられていますが、別名は王太子妃の門〟と呼ばれます。

パリから劇団が招かれていて、王太子妃のために劇が演じられましたが、これが実に長く、退屈な代物。

さすがに長旅の疲れが出ていたマリー・アントワネットは、あからさまに退屈そうな様子を隠さず、周囲を困惑させます。

オーストリアからお付き、シュターレンベルク伯爵は、これは外交上まずい、と焦って、その様子をマリア・テレジアにチクっています。

王太子妃はところどころで楽しんでいらっしゃったようですが、私が想像もしなかったような行動をなさいました。観劇のほとんどの間渋面をなさり、また唇を噛んだり、指をつまんだり、ハンカチを鼻の中に当てたり、何度も頭を掻いたり、椅子の背もたれに背中を打ちつけたりと。しまいには全く落ち着きを無くされていました。』

逆に、ようやく14歳の少女らしい面が出た、という感じです。

この日はシャロンの知事公邸に宿泊しますが、後の1791年、ヴァレンヌ逃亡事件の折にも、マリー・アントワネットは夫ルイ16世とともにここに泊まることになります。

22日目、5月12日。

歴代フランス王の戴冠式が行われるランスを抜け、ソワソンへ。

カトリック司教の館、という意味の『パレ・エピスコパル』に宿泊。

23日目、5月13日。

明日は、いよいよフランス国王ルイ15世と、夫となる王太子ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世とのご対面です。

体調万全を期すため、この日は1日休養ということになりました。

マリー・アントワネットは、お付きのヴェルモン神父に、自分の花婿が、少々気難しくて、あまりにも控えめな性格、という噂に対して、不安を打ち明けたということです。

まったく無理もありません。

しかし、翌日の対面の儀は、さすが女帝の娘、といった風格で乗り切るのです。

 

それでは、ハイドンの『パリ・セット』の5曲目で、作曲順でいうとおそらく最後、ハイドンの指定した順番でも5曲目となるニ長調のシンフォニーを聴きましょう。

ハイドン交響曲 第86番 ニ長調

Joseph Haydn:Symphony no.86 in D major, Hob.I:86

演奏:ジュリアン・ショーヴァン指揮 ル・コンセール・ド・ラ・ロージュ(古楽器使用)

第1楽章 アダージョアレグロ・スピリトーソ

自筆譜によって、1786年に書かれたことが確認されています。第82番 ハ長調《熊》と同じく、トランペットとティンパニを伴った最大編成で書かれ、元気溌剌とした中に精緻な工夫が凝らされた傑作です。

アダージョの序奏はピアノで静かに始まりますが、やがて全楽器のフォルテが高らかに鳴り響き、祝典的な、賑々しくも輝かしい雰囲気を醸し出します。

アレグロ・スピリトーソの主部は、スタッカートな弦の刻みに乗って滑らかに始まりますが、やがて単純な短いモチーフが畳み掛けてきます。メロディアスな歌ではなく、リズムに重きが置かれています。第2主題は脇役という感じで、やがて壮大な展開の前に埋もれていきます。

展開部では、第1主題が精緻な転調を重ね、イ短調から嬰ヘ短調に至ります。第2主題はロ短調で歌われ、やがて第1主題に受け継がれます。このあたりの盛り上がり方は実にパワフルで、聴く人を圧倒します。弦の動きがメインですが、時折顔を出す管楽器が彩りを豊かにしています。

再現部は特に突拍子のないものはなく、安心の定石で音楽を結びます。

第2楽章 カプリッチョ:ラルゴ

突拍子もないのはこの第2楽章かもしれません。気まぐれを意味するカプリッチョの名の通り、訥々としたテーマが、ソナタ形式なのか、ロンド形式なのか、はっきりせず、混ぜこぜに構成されていきます。基本はソナタ形式に近いのですが、第1主題が何度も反復して出てくるのはロンド風です。さらに、変奏っぽい箇所もあり、まさに気まぐれです。形式を整えた功績で讃えられるハイドンですが、形式を壊す魅力もまた生み出しているのです。短調に転ずるところは実に印象的です。

第3楽章 メヌエット:アレグレット&トリオ

このシンフォニーで特に充実しているのがこのメヌエットです。三部に分かれ、第1部は提示部、第2部は展開部、第3部は再現部とコーダともいえ、ソナタ形式の特徴を示しています。第2部は第1部の装飾に、ニ短調の影も加え、第3部では手の込んだ再現をしており、この演奏のようにヴァイオリンソロの即興まで入れる余地まであります。

トリオはワルツ風の優雅なもので、低弦のピチカートに乗り、ファゴットとヴァイオリン、オーボエとヴァイオリン、フルートとヴァイオリン、といった組み合わせで音色の違いを多彩に楽しませてくれます。

第4楽章 フィナーレ:アレグロ・コン・スピーリト

チチチチチ、とヴァイオリンが小さく刻んだ楽想が、やがて第1楽章と同じような圧倒的な畳み掛けで、盛り上げていきます。走り出したら止まらない、といった風情ですが、フェルマータで時々立ち止まり、また走り出す、といった変化が聴く人を引き込んでいきます。第1主題と第2主題が入れ代わり立ち代わり、目もくらむばかりです。展開部ではホ短調で緊張感を生み出し、フェルマータで立ち止まり、やがて第1主題がカノン風に展開して再現部につなぎます。通にしか分からないような細かい技巧が盛り込まれているのに、そうとは気づかせず、どこまでも楽しく、親しみやすいハイドンのシンフォニー。この活力に、沈滞していたパリは大いに元気づけられ、次の時代へのパワーをため込むことになったのかもしれません。

動画は、現代楽器ですが、ウィーン・アンサンブルの少人数の活気ある演奏です。


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こちらは、ソプラノ歌手で指揮者でもあるバーバラ・ハンニガンの第86番の演奏ダイジェストとインタビューです。


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今回もお読みいただき、ありがとうございました。

 

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