正統なフランス・オペラとは
オペラの改革者として名高い、オーストリアの作曲家、クリストフ・ヴィリバルト・グルック(1714-1787)は、1774年にパリに乗り込んできて、オペラ『オーリードのイフィジェニー』を上演しました。
パリの社交界やオーケストラからは猛反発を喰らいましたが、自分がかつてピアノ教師を務めていた王妃マリー・アントワネットの絶大な庇護により、グルックの改革オペラは上演され、大成功を収めました。
グルックの「改革」は、ドラマ要素が薄く、歌手の技巧の方がもてはやされる「イタリア・ナポリ派のオペラ」が一世を風靡していることに対する挑戦でした。
そもそも、素晴らしい古代ギリシャの音楽劇を現代に復活させたのがオペラなのに、次第に心や精神に訴えるドラマではなくなり、装飾的に華やかであるものの、軽薄な〝歌番組〟に堕してしまったのを、本来の姿に立ち返らそうとしたのです。
しかし、この試みは、フランスでは既にジャン=フィリップ・ラモー (1683-1764)が行っていたことでした。
その嚆矢は1734年の『イポリートとアリシー』 で、それ以降、続々と作品を発表し、真面目で感動的な悲劇、「トラジェディ・リリック(叙情悲劇)」のジャンルを確立します。
でも、このときも、イタリア・ナポリの作曲家ペルゴレージの軽快な喜劇(オペラ・ブッファ)、『奥様女中』がフランスでも大人気となり、観衆の好みは二分し、ラモー派とオペラ・ブッファ派に分かれて、「ブフォン論争」という大激論となりました。
王と政界を握っていた実力者、ポンパドゥール夫人がラモーを支持したこともあり、ラモーのオペラの方が優勢となりましたが、1764年にラモーが死去してからは、その後継者が出なかったこともあって、しばらくフランスで悲劇は下火となってしまいました。
グルックはここに目をつけて、王妃マリー・アントワネットの庇護を求めて、パリでオペラ改革に取り組んだのです。
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5回もパリに乗り込んだグルック
1774年4月、パリの王立音楽アカデミー(オペラ座)で上演された『オーリードのイフィジェニー』は、まさに〝ラモーの復活〟でした。
グルックはさらに、旧作『オルフェオとエウリディーチェ』をフランス語版に改訂して、同年10月に上演。
これもマリー・アントワネットの後援のもと、大成功となりました。
いったんウィーンに戻り、翌1775年1月に再びパリにやってきて、いったんルイ15世の喪で中止になっていた『オーリードのイフィジェニー』を再演。
これも大成功。
同年3月にウィーンに戻ります。
グルックは、1776年2月、旧作のオペラ『アルチェステ』をフランス語版に改訳、『アルセスト』としてパリにやってきます。
パリは3度目です。
4月にオペラ座で上演しましたが、これはイマイチの評判に終わりました。
5月にウィーンに戻り、再挑戦すべく、オペラ『アルミード』を作曲し、1777年5月に再びパリにやってきて、9月にこれを上演します。
しかし、これもそれほど成功とはいえないうちに翌年2月にウィーンに戻ります。
グルックはこれにめげず、再々挑戦ということで、「イフィジェニーⅡ」ともいうべき、オペラ『トーリードのイフィジェニー』を新たに作曲。
1778年11月に、これを引っ提げてまたパリへの最後の旅に出ます。
翌1779年5月18日にオペラ座で初演された本作は、大成功を収め、グルックの最高傑作と謳われます。
やはり、マリー・アントワネットの好きな「イフィジェニー」シリーズが、パリではウケたのです。
しかし、同年9月に作った最後のオペラ『エコーとナルシス』は失敗に終わり、グルックは10月にウィーンに引き上げ、もうパリには姿をみせませんでした。
晩年はウィーンで過ごし、ザルツブルクからウィーンにやってきたモーツァルトの才能を賞賛して可愛がったりしつつ、1787年11月15日に73歳の生涯を閉じます。
このように、グルックはマリー・アントワネットのつてを頼りつつ、パリでの成功に執着しました。
パリでも、グルックには賛否両論が渦巻きました。
グルックを賞賛する人々に反対し、従来のイタリア・オペラを支持する人々は、ナポリから本場のオペラ作曲家、ニコロ・ピッチンニ(1728 - 1800)をパリに招聘、グルックと対決させたのです。
これが音楽史で有名な「グルック=ピッチンニ論争」です。
「ブフォン論争」の再燃といえます。
グルック派のリーダーは、アベ・アルノー、J・B・シュアール、ピッチンニ派のリーダーはド・ラ・アルプ、J・F・マルモンテルでした。
グルック派は、リュリに始まり、グルックが継承したフランス・オペラこそが、フランス音楽の取るべき唯一の進路、と主張。
ピッチンニ派は、グルックのオペラの古典的厳しさを批判、イタリア・オペラこそが停滞したフランスの音楽界を活性化するのだ、と主張。
思想家ジャン=ジャック・ルソーは、「ブフォン論争」の際はイタリア・オペラを賞賛し、自らオペラ『村の占い師』を作曲。
このオペラは国王ルイ15世をも夢中にさせ、このオペラの作曲者に会いたい、と熱望しましたが、ルソーは辞退。
後にフランス王家を破滅に導くことになる思想家に国王が会いたがったのは面白いことです。
しかし、ルソーは今回はグルックを支持したということです。
グルックの、虚飾を廃し、人間感情や葛藤をストレートに表現した音楽が、ルソーの〝自然に帰れ〟という思想に近かったのでしょうか。
論争は白熱し、紳士が初対面の挨拶をしたときに、『ところで、貴殿はグルック派なりや、それともピッチンニ派なりや?』と確認し合うのが習慣となったほどでした。
ピッチンニ派は、グルックを後援するオーストリア出身の王妃マリー・アントワネットへの反対派、という陰の側面もありました。
グルック派すなわち王妃派、ピッチンニ派すなわち国王派、という一面もありましたが、国王ルイ16世は音楽にはほとんど興味はなく、蚊帳の外でした。
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音楽論争にあきれた、アメリカ大使
折しも1775年、アメリカ独立戦争が勃発。
英国の北アメリカ植民地13州が、本国の圧政に耐えかねて、独立のため立ち上がりました。
1776年7月4日にはアメリカ独立宣言が採択されますが、その起草委員のひとりで、避雷針の発明でも有名なベンジャミン・フランクリン(1706-1790)が、フランスを味方につけるべく、大使としてパリにやってきました。
フランスは英国の宿敵でしたから、英国への大きな打撃となる独立に支援してくれるのではないか、と踏んだのです。
彼は、あえて、貴族社会の当時の常識である鬘をつけず、田舎の毛皮の帽子で社交界に現れ、ロビー活動を行いました。
これは、アメリカの「古い文明に毒されない素朴な人々」というイメージでアピールする作戦でしたが、これが見事に当たり、フランクリンのチャーミングな性格もあいまって、特に上流階級の女性たちに大人気となりました。
そしてついに、フランスはアメリカ独立戦争に参戦することになったのです。
しかし、国王ルイ16世はひとり最後まで躊躇していました。
王政を否定し、共和国を作ろうとしている人々を支援するのは、国王として自己否定、自殺行為になりはしないか?
すでに18世紀に幾度となく戦争を行い、国家財政は破綻しているのに、さらにわざわざ新たに戦争など起こしたら、致命的になるのではないか?
ルイ16世の心配は当たってしまいます。
フランスの支援によってアメリカは独立を達成しますが、その成果はブーメランのようにフランス革命として返ってきて、ルイ王朝を直撃することになります。
王妃マリー・アントワネットの浪費がフランス革命の直接的原因のようなイメージですが、世の中で一番金がかかるのが戦争です。
原因は、アメリカ独立戦争といっても過言ではないのです。
しかし、フランクリンの人気と、流行の啓蒙主義に基づいて、アメリカを応援しよう!という世論の高まりに、孤独な国王ルイ16世は勝てませんでした。
さて、フランクリンがパリにやってきたときは、まさに「グルック=ピッチンニ論争」の真っ只中でした。
大国英国からの独立を賭けて、生きるか死ぬか、死に物狂いで戦っていたフランクリンは、パリの上流階級たちが音楽論争にかまけているのを見て、あきれました。
彼は次のように書き残しています。
両派は、片やクーザン(蚊)、片やモシェット(小銃)というふたりの外人音楽家の優秀さについて激しく言い争っていた。彼らはまるで、これから先一ヵ月生きることを確信するかのように、時間の短いことには無関心で、この論争に没頭していた。〝幸せな人々だ!諸君はたしかに、賢明で正当で穏やかな政府のもとに暮らしている。諸君らは訴えるべき苦情もなく、外国音楽の完全さと不完全さ以外には論争する問題もない〟と私は考えた。*1
グルックとピッチンニは、個人的には対立していたわけではありません。
論争の間でも、ふたりの友好関係は維持していました。
しかし、グルックが依頼されて作曲していたオペラ『ロラン』が、ピッチンニにも依頼され、両者を比べる企画が進んでいることを知ると、途中でこのオペラの作曲を放棄してしまいました。
後にピッチンニ派は、グルックの『トーリードのイフィジェニー』と同じ台本に曲をつけるよう委嘱し、ピッチンニは同作を完成させました。
そして、グルックの初演の2年後に初演されましたが、評判は芳しくなく、一応、〝グルックの勝利〟というのが一般的な評価となりました。
しかし、熱烈なピッチンニ・ファンは依然として彼の音楽を愛好し続け、ピッチンニはパリ音楽院(のちのコンセルヴァトワール)の教授となり、フランス革命までパリに滞在し続けたのです。
結局のところ、ふたりは得意の土俵が異なり、「悲劇」と「喜劇」のどちらが優れているか、という論争となれば、結論など出るわけもありません。
シリアスなドラマとコミカルなドラマのどちらが優れているか、など、意味のない議論です。
ピッチンニの作品は、現在ほとんど演奏されず、録音も少ないですが、ご参考に1曲だけ掲げておきます。
グルックとまるで曲調が違うのが分かると思います。
これぞイタリア!っという感じです。
ピッチンニ:オペラ『復讐された女たち』序曲
『トーリードのイフィジェニー(タウリスのイピゲネイア)』
さて、それでは今回から、グルックの最高傑作といわれるオペラ『トーリードのイフィジェニー(タウリスのイピゲネイア)』を聴いていきます。
これは前回まで取り上げた『オーリードのイフィジェニー(アウリスのイピゲネイア)』の後日談となります。
日本語にすると、オーリードとトーリード(タウリスとアウリス)が1字しか違わないので紛らわしいですが、両方とも地名になります。
前作のあらすじは、トロイア戦争勃発の初期、絶世の美女といわれたスパルタ王妃ヘレネが、トロイアの王子パリスに略奪されたのを、全ギリシャへの侮辱として、ギリシャ諸国の軍勢がアウリス(オーリード)の地に集結したところから始まります。
ギリシャ軍総大将に選ばれたミケーネ王、アガメムノンが、狩りの際に、『狩りの女神アルテミスより俺の方が狩りの腕が上』などと神を侮辱する発言をしたため、女神の怒りを買い、愛娘イピゲネイアを生けにえに捧げるべし、さもなければ風を一切止め、ギリシャの軍船を一歩たりとも出発できないようにする、という神託を下します。
英雄アキレウスとの結婚のため、母である王妃クリュタイムネストラとともに、いそいそとアウリスの地にやってきたイピゲネイア。
父アガメムノンも、婚約者アキレウスも、なんとかして娘の命を救おうとしますが、戦に逸り、早く生けにえを捧げよ、と、ギリシャ軍の将兵たちは暴発寸前。
事情を知ったイピゲネイアは、公的義務と神への従順な気持ちから、自ら生けにえとなることを決意します。
そして、祭壇に登り、あわや祭司のナイフが胸に突き立てられるところ、女神アルテミスが降臨し、全てを許し、彼女の命を救います。
オペラでは、彼女はアキレウスと結婚してめでたし、めでたし、となりますが、オリジナルのギリシャ悲劇では結末は違っていて、彼女はあわやというところで生けにえの牝鹿に差し替えられ、女神に連れ去られます。
家族や人々は、彼女の姿が牝鹿に変わったのを見ただけで、どうなったか知る由もありません。
クリミアの女祭司となったイピゲネイア
オペラ『トーリードのイフィジェニー』は、その前提での後日談となります。
その神への従順、誠意を認められたイピゲネイアは、女神によって遠く黒海の果て、タウリスに連れていかれ、当地のアルテミス神殿の女祭司長となります。
「タウリス」は、現在ウクライナ戦争の戦場となっているクリミア半島に他なりません。
そこは、古代では未開の地であり、遊牧民族スキタイ人の支配地でした。
イピゲネイアは、家族と引き離されたものの、もともと死ぬ運命で助けられた命ですから、後半生をこの地でアルテミス女神に仕えることに捧げています。
そして、トロイア戦争がどうなったのか、実家のミケーネ王家がどうなったのかも知ることなく、10余年が過ぎます。
トロイア戦争は、実に10年もかかっていたのです。
知将オデュッセウス(オデッセイ、ユリシーズ)の知略により、「トロイの木馬」の計略によってトロイアは陥落し、戦争は終わります。
ギリシャの諸将は故郷に帰りますが、それぞれにさらに数奇な運命にさらされます。
オデュッセウスは、トロイア贔屓だった海の神ポセイドンに憎まれ、その船は風に翻弄され、地中海をさまよい、故郷イタカに変えるのにさらに10年もかかります。
その間、20年もの間、言い寄る男たちを退け、夫の帰りを待っていたペネロペイア(ペネロペ)は、貞節な妻の代表とされており、モンテヴェルディの素晴らしいオペラ『ウリッセの帰還』で取り上げられています。
一方、帰還したアガメムノンとその一家には、悲惨な運命が待ち受けていました。
実家の悲劇を知る由もないイピゲネイア。
しかし、ひどい嵐の晩、父母の恐ろしい夢をみます。
不吉な予感にさいなまれるところから、オペラは始まります。
それでは、開幕!
『トーリードのイフィジェニー』登場人物
※ギリシャ語表記、()内はフランス語読み
イピゲネイア(イフィジェニー):アルテミス神殿の女祭司長、ミケーネ王アガメムノンと王妃クリュタイムネストラの娘
オレステス(オレスト):イピゲネイアの弟、アルゴスとミケーネの王
ピュラデス(ピラド):オレステスの親友
トアス:タウリス(トーリード)の王
アルテミス(ディアーヌ):狩りと月の女神
グルック:オペラ『トーリードのイフィジェニー(タウリスのイピゲネイア)』(全4幕)第1幕前半
Christoph Willibald Gluck:Iphigénie en Tauride, Wq.46, Act 1
演奏:マルク・ミンコフス(指揮)ミレイユ・ドランシュア(ソプラノ:イピゲネイア)、サイモン・キーンリーサイド(オレステス:バリトン)、ヤン・ブーロン(ピュラデス:テノール)、ロラン・ナウリ(トアス:テノール)、レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル(オーケストラと合唱団)【1999年録音】
注)音楽はハイライトのみの抜粋です。
第1曲 前奏曲と独唱、合唱
舞台はアルテミス(ディアーヌ)神殿の入口。前景には神殿をめぐる神聖な森。遠景に海。嵐が起こり、次第に激しさを増し、とうとう猛り狂うほどになる。
イピゲネイア
神々よ!
わたしたちをお救いください
復讐の雷の矛先を変え、
罪ある者の頭上に轟かせてください
わたしたちの心は無実です
女祭司たちの合唱
神々よ!
わたしたちをお救いください
(繰り返し)
イピゲネイア
もしこの残酷で不吉な岸辺が、
お怒りの対象であるならば、
あなたがたのか弱きしもべたちに、
もっと心地よい住処を与えてください
女祭司たちの合唱
神々よ!
わたしたちをお救いください
(繰り返し)
イピゲネイア
聖人のように無垢なわたしたちの手が、
これ以上、
あなた方の祭壇を血塗られたものにしませんように
この地の人々が、
不幸な死によって流される血を、
これ以上望まないでください
女祭司たちの合唱
神々よ!
わたしたちをお救いください
通常のオペラにある序曲ではなく、イントロダクションとなっています。音楽は静かに始まります。10余年の間、静かに神だけに仕えてきた巫女、イピゲネイアの清らかさとその敬虔で静謐な日々を表わしています。ところが、音楽の途中で静けさは遮られ、嵐が起こります。もはや、序曲、アリアといった区切りも無くし、形式ではなくドラマそのものを追求したグルックの真骨頂です。現代でも、その斬新さに圧倒されます。
嵐の描写は、実はラモーの得意分野で、彼のいくつかのオペラで「Orage オラージュ(雷雨)」と題され、取り入れられています。傑作オペラ=バレ『インドの優雅な国々』の第1幕も、嵐の中で主役の女性が叫ぶ場面から始まります。グルックは、フランス人が好み、馴染み深い描写を取り入れているのです。この音楽は、モーツァルトのオペラ『クレタの王イドメネオ』や、ベートーヴェンのシンフォニー《田園》にも影響を与えているように感じます。
嵐の中で、イピゲネイアが叫びます。神よ、誰に向かってお怒りなのですか、わたしたちは無実です、と。彼女に従う女祭司たちも怯えて、天に助けを求めます。収まる気配のない嵐に対し、イピゲネイアは、生けにえを捧げるという自分の役目にお怒りなら、この役目を取り上げてください、と願います。自分が生けにえになることを逃れたイピゲネイアは、逆にこの地で、人間を生けにえに捧げることを神に命じられていたのです。いくら敬虔なイピゲネイアでも、無実の人を殺すのには耐え難く、神の命令と自分の良心との葛藤に苦しみ続けていたのです。
嵐は収まりましたが、イピゲネイアの心の嵐は収まっていません。
女祭司たちは、彼女の様子がおかしいのに気づき、その理由を尋ねます。
イピゲネイアは、昨夜見た、禍々しい悪夢について語り始めます。
それは、自分が故郷ミケーネの王宮に、父王アガメムノンを訪ねた、という夢でした。ところが、懐かしさに浸る間もなく、王宮に雷が落ち、炎上します。その混乱の中で、父アガメムノンが亡霊に胸を刺され、血塗れになります。その亡霊はよく見ると、なんと母である王妃クリュタイムネストラでした。彼女はイピゲネイアを見ると姿を消し、代わりに弟オレステスを呼ぶ声が聞こえ、イピゲネイアはその幻影に手を差し伸べようとしますが、不吉な力でその人を刺そうとするところで目が覚めた、というのです。
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第3曲 合唱
女祭司たち
ああ、なんという恐ろしい夢!
ぞっとする夢!
ああ、苦しみ!
ああ、死の恐怖!
お怒りは収まらないのですか?
わたしたちの叫びを聞いてください、
ああ!
お怒りを鎮めてください!
あまりにリアルで恐ろしい夢に、イピゲネイアの話を聞いていた女祭司たちは震えあがってこの合唱を歌います。当時、夢は現実を反映したものとされていました。イピゲネイアは、実家ミケーネ王家をなんらかの不幸が襲った、ということを確信し、それが女祭司たちにも伝わったのです。
第5曲 エール(アリア)
イピゲネイア
ああ、わたしを生かしてくださる神よ、
そのお恵みはもういりません!
アルテミスよ、
お願いですから、
わたしの命を断ってください
さもなければ、イピゲネイアを、
かわいそうなオレステスに会わせてください
ああ、私は運命に弄ばれています!
死は私にとって必要なもの
神々、祖国、父が、
わたしを追い詰めているのです
イピゲネイアは、あまりの辛さに、自分の命を召し上げてくれるよう、アルテミス女神に祈ります。そうでなければ、幼い頃に生き別れた弟オレステスに会わせてほしい、と懇願します。絶望の中で、肉親に思いを馳せる、切々としたエールです。
第6曲 合唱
女祭司たち
いつになったら、
わたしたちの涙は乾くのでしょう?
この泉は尽きることはないのでしょうか?
ああ、苦しみの中に、
天はわたしたちの命の行く末を示すのです
イピゲネイアの祈りのエールに続き、女祭司たちがさらに助けを求めて祈ります。短いですが、非常に厳粛で、神秘的なまでに心を打つ合唱です。
そして、この物語の舞台は、クリミアの地。
いつになったら、戦争は終わるのか…。
この歌は、現代にも響いているように思えてなりません。
次回、不吉な予感にさいなまれるイピゲネイアに、野蛮な現地人たちが詰め寄ります。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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