モーツァルトは、前作第25番ハ長調を書いてしばらく、ピアノ・コンチェルトから遠ざかっていました。次のこの作品ができたのは1年3ヵ月も後のことです。
プラハからの注文『ドン・ジョヴァンニ』の作曲、上演で忙しかったというのもあるでしょうが、予約演奏会の人気がなくなり、予約名簿を回しても数名の予約しか入らなかった、という状況もあります。
しかし、そんな苦境を打開するため、巻き返しを図って作ったのがこの曲です。
それでも、なかなか演奏するチャンスに恵まれず、初演は1789年にベルリン旅行の際に立ち寄ったドレスデンだったようです。
あてがはずれた戴冠式
この曲には〝戴冠式〟という立派な愛称がついていますが、それは、1790年に、モーツァルトを可愛がった(しかし仕事とお金はあまりくれなかった)皇帝ヨーゼフ2世が崩御し、新帝レオポルト2世がフランクフルトで戴冠式を行うことになり、そのイベントでの集客を当て込んで、自費でフランクフルトに押しかけ、そこで開いたコンサートで演奏したことによるものです。
第19番ヘ長調も同時に演奏したので、そちらにも〝第2戴冠式〟という愛称がついています。
クラシックの曲名はお堅いので、愛称がつくと親しみやすくなり、人気が出ます。
特に日本人は愛称が好きで、ベートーヴェンの第5シンフォニーを〝運命〟と呼んでいるのは日本だけだ、というのは有名な話です。
逆に、モーツァルトのシンフォニー40番ト短調などは、誰もが知っている曲なのに、曲名を言えない人も多いのではないでしょうか。〝悲愴〟とか〝悲劇的〟とか、タイトルがあれば覚えやすいのですが。
そんなわけで、モーツァルトのピアノ・コンチェルトと言えば、〝戴冠式〟が出てくることは多いです。
自分で自分をマネている?
ところがこの曲は、専門家からの評価がすこぶる低いのです。
世界的なモーツァルト弾きの内田光子も『モーツァルトのピアノ・コンチェルトというと、たいてい〝戴冠式〟を弾いてくれと言われるが、全曲の中で一番弾きたくない曲だ。』と言っているそうです。
他の批評家も総じて、〝これまでの作品より劣る〟とし、それは、これまでのコンチェルトに比べて深みがなく、単純平明につとめ、特筆すべき工夫が感じられない、ということのようです。
音楽研究家のアインシュタイン(相対性理論の物理学者とは別人)は、次のように批評しています。『モーツァルトは自分の作品の中で自分を模倣している。それは彼にとって大してむずかしいことではなかったろう、と言えるほどに、この作品は〝モーツァルト派式〟である。』
モーツァルトは、かつての売れていた時代のヒット作をまねて作った、というのです。
確かに、現代のアーティストでも売れなくなり始めたら、過去にブレイクした曲に似たテイストの曲を作る、ということがあるかもしれません。
しかし、この曲自体に十分魅力があるのですから、以前との優劣など論じても意味がないことだと思います。
前の曲より劣っているから、この曲は存在しなくてもよい、ということにはならないでしょうし、この時期のモーツァルトならもっとすごい曲を作れたはずだ、残念だ、などと言ってもせんないことです。
たしかに芸術鑑賞をしていると、なにかといろいろ比較したくなりますが、作曲家にしても、ハイドンはモーツァルトより劣る、ヘンデルはバッハより劣る、などという比較論は、うどんはソバより劣る、と論じるほど愚かしい議論です。(へんなたとえですが)
というわけで、何かとやかましく言われるこの曲ですが、とても魅力的な曲であるのは間違いありません。
Mozart:Concerto for Piano and Orchestra no.26 in D major , K.537
演奏:ジョン・エリオット・ガーディナー(指揮)
マルコム・ビルソン(フォルテピアノ)
イングリッシュ・バロック・ソロイスツ
John Eliot Gardiner, Malcolm Bilson & English Baroque Soloists
元気いっぱいの行進曲調の音楽です。この曲を作ったときは戴冠式のことは意識していなかったのですが、セレモニーにふさわしい、華やかな曲です。特にこの演奏では、木のマレット(ばち)で打つティンパニの響きが最高で、わくわくします。古楽器でこそ、この曲の魅力が最大限引き出せるのであって、現代楽器で重々しくやると空虚な感じになってしまうことがあり、批判の対象になるのかもしれません。
第2楽章 ラルゲット
昼下がりの別荘で、令嬢がピアノのレッスンをしているような情景が浮かぶ、愛らしい曲です。この曲は全楽章で左手のパートの省略が多いのですが、この楽章にいたっては全く存在しません。そんなことからもこの曲は〝やっつけで作った〟と言われてしまうのですが、モーツァルトはあくまでも自分で演奏するために作曲したのですから、お客の反応をみながら、即興で和音や装飾を補っていったのだと思います。
第3楽章 アレグレット
再び活発な終楽章。とても親しみやすい、ロンドのメロディです。〝元気〟がこの曲全体のテーマのように感じます。モーツァルトらしい変幻自在な転調も駆使しながら、華やかなフィナーレに向かいます。
満を持した戴冠式のコンサートも、残念ながら客入りは悪く、またモーツァルトはあてがはずれてしまったようです。
このコンサートを聴きに行った人の感想では、ヴァイオリンの人数が少なくて迫力がなかった、と嘆いていました。
やはり、定職につかず、興行収入だけで音楽家が生活していくのは、今も昔も厳しい世界だというのが思い知らされます。
モーツァルトが今日までの著作権収入を得るとしたら、国が買えるくらいの額でしょうが、お金になど換算できない価値を私たちにもたらしてくれたのですから、晩年のモーツァルトの経済的苦境をたどると、何ともやるせない思いになります。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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