あっという間の挫折、私のピアノレッスン
バッハの『2声のインヴェンションと3声のシンフォニア』は、難しいバッハの曲の中でも比較的初心者向けということで、ピアノを習っている人が必ず挑戦する曲です。
私は小学生のとき、自分は手先が不器用なのは知っていましたし、性分的に〝地道な努力〟というのができないので、ピアノを習うつもりは毛頭なかったのですが、レコードで聴いた名曲を人差し指でなぞったりはしていました。
そんな様子を親が、妹が通っていた近所のピアノの先生に話したところ、『あの息子さんの目は光が違うと思っていた。ぜひ私に預けてほしい』などと言ってきたのです。
当時の自分がどんな野心的な目をしていたのか分かりませんが(笑)、そう言われては悪い気はしないのでとりあえず入門したものの、案の定、半年ももちませんでした。
先生がどのくらい失望したのか覚えていませんが、しょせん生徒を増やすためのセールストークですから、舌打ちされた程度でしょうね。
ともあれそれ以来、他人様が血の出るような努力をした結果の演奏を、ただ聴くだけのラクな道を選んだのですが、自分で弾く悦びは何倍であろうかと思いつつ、『インヴェンション、3声に入ったよ!』『えー私、2声でもう挫けそうなんだけど…』などという会話を、指をくわえて聞いているのです。
息子のための練習曲
さてバッハは、今も初心者の練習に使われるこの曲を、息子の教育のために作りました。1720年、長男フリーデマンが9歳になった頃から、5、6年かけて1冊の楽譜帳を編んでいったのですが、それが『フリーデマンのためのクラヴィーア小曲集』です。
この楽譜帳には、まず記譜法の説明や装飾音の一覧表、指使いの練習法などが書いてあり、これは今もバッハ演奏法の基本として重要です。まさにバッハ音楽の教科書といってよいでしょう。
フリーデマンはバッハが最も目をかけ、評価した息子でしたが、晩年身を持ち崩した悲劇は以前ご紹介しました。
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そして、その後に実践編として、バッハだけでなく、同時代の作曲家の作品も含めた小品の楽譜が続いていくのですが、そこにはこの『インヴェンションとシンフォニア』、そして『平均律クラヴィーア曲集 第1巻』の一部があるのです。
なんだ、〝練習曲〟なのか、となめてはいけません。
バッハのクラヴィーア曲の代表作『ゴールトベルク変奏曲』や『平均律』、また人気の『イタリア協奏曲』も、いずれもバッハは〝練習曲〟として出版しているのです。
バッハの〝練習〟とは、はるかに高みを目指したものでした。
この曲が出版された際の、バッハによる序文を引用します。
クラヴィーアの愛好家、とりわけ学習希望者が、まず2声部をきれいに弾き分けるだけでなく、さらに上達したならば、オブリガートの3声部を正しくそして上手に処理し、それと同時に、優れた楽想(インヴェンション)を得るだけでなく、それらを巧みに展開すること、そしてとりわけ、カンタービレの奏法を身につけ、それとともに作曲の予備知識を得るための、はっきりした方法を示す正しい手引き
このように、バッハの要求はものすごく多く、そして高いのです。
まずは、異なる旋律(声部)を同時に組み合わせるポリフォニー演奏の上達。ひとつひとつの声部が独立して響き、それでいてハーモニーにならなければならないのですから、相当な難度です。
そして、3声では、もうひとつの声部がオブリガート(伴奏)の役目で加わりますが、これも半分即興で行う通奏低音の域ではなく、楽譜通り、主役のひとつとして演奏できるようになることを要求しています。
さらに大事なのが〝カンタービレ奏法〟。〝のだめカンタービレ〟で有名になりましたが、意味は〝歌うように演奏する〟ということ。
この奏法は、人間の歌声のように演奏するということですから、ヴァイオリンのような弦楽器が得意とするもので、音がとぎれとぎれのチェンバロでは不可能といわれていました。
鍵盤楽器では、レガート奏法ができるピアノで可能となったのですが、実は、チェンバロ以前に、ヴィブラートまで可能な鍵盤楽器がありました。
それが『クラヴィコード』です。
この曲は、バッハが息子の一緒に弾いていたクラヴィコードを想定して書かれたのは間違いないでしょうが、しかし、バッハは〝チェンバロでもカンタービレ奏法はできる〟と言いたかったと思われます。
以前の稿で、バッハが『2台のヴァイオリンのためのコンチェルト』をチェンバロ・コンチェルトに編曲して、後年の評論家を怒らせたのをご紹介しましたが、あのカンタービレの極致である色っぽい第2楽章も、うまくやればチェンバロで可能、とバッハは考えていたのでしょう。
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そして、バッハの最後の要求は〝作曲〟
当時の職業音楽家は、演奏しかできない、あるいは作曲しかできない、では食っていけませんでした。
現代のシンガーソングライターのように、両方こなすのが当然だったのです。
バッハの〝練習曲〟は、演奏と作曲、両方こなすためのトレーニング用だったわけです。
そして、音楽家の力量を示す究極の技が〝即興演奏〟でした。
父バッハの即興演奏は、当時の証言では、楽譜になっているどの曲よりも素晴らしい、ということでしたし、放蕩息子になってしまったフリーデマンも即興演奏の大家として有名でした。
息子のために、気合を入れて専用の教科書まで作った父の教育の目的は、音楽的には達成したといえるでしょう。
グレン・グールドのこの『インヴェンションとシンフォニア』の演奏も、このバッハの作曲事情を大きく反映したものなのです。
私は、作曲された当時の楽器を使った古楽器演奏にこだわってきましたので、〝バッハはピアノで演奏するべきではない〟と思っていました。
グレン・グールドに出会うまでは。
結論から言いますと、グレン・グールドは、クラシック界でも現代的な、前衛的な演奏家と思われている向きもありますが、実は古楽器の表現を、ピアノで再現することにこだわっていたのです。
特に、この曲では、バッハが想定していた楽器、チェンバロ以前の古い『クラヴィコード』を強く意識していました。
グールドは終生、自分に合ったピアノを探し求めていたのですが、その原点というべき楽器は、彼がデビュー前から愛用していた1895年製の『チッカリング』だったそうです。
このピアノは『ハープシコード(チェンバロ)に限りなく近い触感の即時性』を持っていて、キーに軽く触れただけで硬質の音が出るという、ピアノよりチェンバロに近い音質でした。
グールドはデビュー後も、ピアノにチェンバロの触感、音感を求め、楽器に改造までしました。
ある時には、ピアノのハンマーからフェルトを取り去り、代わりに金属板をつけて弦を叩くという、〝自分がハープシコードだと思い込んでいるピアノ〟通称〝ハープシピアノ〟まで発明しました。
『インヴェンションとシンフォニア』の録音に際しては、スタンウェイのCD318という楽器が使われたのですが、整調が気に入らず、半年もの間、何度も録音を試みたものの中止、延期され、その間グールドは自ら改造(本人は〝手術〟と言っています)を行って、ようやく理想の触感と響きを得て、たった2日間で全30曲を録音しました。
しかし、この録音では、ピアノが時々つぶれたような音(グールドは〝しゃっくり音〟と表現)を出し、一般的には整備不良といわれるような状態だったので、レコード会社CBSとスタンウェイ社は自社の品質、信用にかかわると大いに不満でした。
そこで、レコードのライナーノートにグールド自身が〝弁明〟を書くことになったのです。
このピアノ(CD318)のアクションに関して、かなり徹底的な実験を開始することができました。つまり、バロック音楽のレパートリー用の楽器の設計です。現代のピアノの申し分のない資質に、ハープシコードのもつ透明感や、触感の慶びといったものを加えることのできる楽器を考えたのです。
ここ数年のバッハを録音するセッションのたびにCD318は事前の大手術を受けてきたのです。弦からハンマーまでの距離や、〝アフタータッチ〟のメカニズムといった、根本的な機構の整調が、私の確たる信念に基づいて、本格的に再検討されました。その信念とは、いつもピアノらしく響かなくては、とピアノは思う必要はない、というものです。もしも318君が、ピアノらしく響こうという生来の傾向から解放されたならば、彼を説き伏せ、即時性と透明感をもった響きを出してもらうのも、おそらく可能でしょう。バッハに絶対不可欠なノンレガートの性質がおもしろいほど実現する響きです。
私の考えでは、本盤はこの目的を十分達成していると言えます。《インヴェンション》のセッションの直前に施した手術は大成功だったので、通常与えるべき術後の健康回復の時間を318君に与えないまま、われわれは嬉々として録音にとりかかりました。その結果、彼の蒙った小さな後遺症を最小限に抑えることができました。中音域にある、かすれた神経性の痙攣がそれで、ゆっくりとしたパッセージで、しゃっくりのように聞こえます。かくして、われわれはセッションを続行し、この欠陥を改善するための中断はしませんでした。正直に申し上げますが、かなり耳になじんでしまった今の私には、この魅力的な奇癖が、この驚異の楽器にふさわしいものに思えるのです。クラヴィコードが一音一音にヴィブラートをかける属性にたとえることで、この事実の正当化だってやるかもしれません。しかし、あらゆる面で最善を望むのであれば、われわれは、今ある響きを保持しつつ、このしゃっくり効果を減らしたい所存です。というわけで、次のように申し上げましょう。ちょうどテレビで音声と映像がばらばらになってしまったときに画面に出る文のように――〝そのままお待ちください。調整中です〟*1
1964年に発売されたLPにはこの言葉がジャケットに印刷されました。
調整中、ということですが、グールドはこのしゃっくり音がむしろ気に入っていたと感じられます。
それを、バッハがこの曲で想定した楽器、クラヴィコードの特性に結びつけているのですから。
クラヴィコードについては次回ご紹介したいと思います。
2声のインヴェンションと3声のシンフォニア
この曲は、15の調性で、それぞれ2声と3声の曲があります。
〝インヴェンション〟という呼び名は、最初はバッハは〝プレアンブルム〟と表記していましたし、3声の方は〝シンフォニア〟といわれたこともあるので、バッハ生前から一定しておらず、今では『2声と3声のインヴェンション』または『2声のインヴェンションと3声のシンフォニア』のどちらかで呼ばれます。
また、曲の配列も当時から、2声と3声を別々に並べる場合と、このグールドのアルバムのように、1曲ずつ、2声の次に3声を置く、というやり方の両方があります。
グールドはさらに曲の配列も自分の考えで並べ変えていますが。
ここではそれぞれの第1番だけ掲げます。
2-part Inventions & 3-part Sinfonias BWV772-801
演奏:グレン・グールド(ピアノ) Glenn Gould
インヴェンション 第1番 ハ長調 BWV772
インヴェンションは、ひとつのテーマ以外のものは一切使用しないで展開する、というコンセプトですが、2声の第1番ハ長調で一番それがよく分かります。同じハ長調のシンフォニアでは、続いて聴くと、バッハの言う〝オブリガート〟がどうからんでくるか、これも分かりやすいです。
2声の第2番ハ短調はこの曲での唯一のカノンですが、心に沁みる切なさです。
そのほか、元気さには顔がほころぶ曲や、この上なく優雅な曲などが続き、ひとつひとつ宝箱を開けるような楽しみがある曲集ですが、第9番の2声、3声ヘ短調のように、宗教的厳粛な雰囲気をもった深い曲もあり、バッハがこの曲での練習によって到達すべき高みを示しています。
また、比較のため、チェンバロでの演奏も掲げます。
演奏:エディット・ピヒト=アクセンフェルト(チェンバロ)
Edith Picht-Axenfeld
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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