トルコ趣味の音楽、その背景
モーツァルトの結婚にまつわる曲として、オペラ『後宮からの誘拐』を取り上げましたが、これはトルコのハーレムを舞台にした作品でした。
これは当時のヨーロッパ人のトルコ趣味に合わせたものですが、トルコはヨーロッパのクラシック音楽にも大きな影響を与えましたので、そのお話をしていきたいと思います。
オスマン・トルコ帝国は、1453年にコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を陥落させ、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を滅ぼしてから、ハンガリーにも侵攻し、ヨーロッパ諸国を震え上がらせました。
その攻撃の矢面に立ったのは、神聖ローマ皇帝位を独占していたオーストリアのハプスブルク家です。
1529年にはスレイマン大帝率いるトルコ軍に2ヵ月にわたってウィーンを包囲され、陥落は免れましたが、 実に危ういところでした。この第1回ウィーン包囲を行ったスレイマン大帝の皇后は、実はヨーロッパ女性だった、というお話はこちらでご紹介しました。
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第2回ウィーン包囲
最盛期を築いたスレイマン大帝の死後、オスマン帝国はじわじわと衰退の途をたどっていきますが、17世紀になってもまだまだヨーロッパにとっては脅威であり続け、オーストリアとハンガリーをめぐって小競り合いを繰り広げていました。
その陰には、ヨーロッパにおけるオーストリア・ハプスブルク家の最大のライバル、フランスのブルボン家がいました。
フランス絶頂期の君主、太陽王ルイ14世は〝敵の敵は味方〟ということで、なんと異教徒であるオスマン帝国と手を結び、オーストリアを背後から圧迫させたのです。
そして、1683年。オスマン・トルコはついにふたたび、大軍でウィーンを包囲したのです。
皇帝であるスルタンは政治の実権を失っており、率いたのは大宰相カラ・ムスタファ・パシャでした。
ハプスブルク家の皇帝レオポルト1世はウィーンを脱出し、諸侯に救援を求めました。
これに真っ先に応えたのが、ポーランド国王ヤン3世ソビエスキ(1629-1696)。
ポーランド・リトアニア共和国の精鋭騎兵「フサリア」3万を率いて救援にかけつけ、集まったドイツ諸侯とともに、油断していたトルコの包囲軍に速攻をかけ、これを散々に打ち破りました。
第1回ウィーン包囲は、トルコ軍の兵糧不足などによる撤退で終わりましたが、追撃はできず、かならずしも勝ったとはいえません。
しかし、第2回ウィーン包囲はヨーロッパ側の完勝でした。
以後、トルコはもはやヨーロッパの脅威ではなくなり、恐怖の対象から、エキゾチックなオリエントの国として、異国趣味の対象になっていったのです。
クロワッサン、ベーグル、そしてコーヒー
この劇的な勝利は、いくつかの〝伝説〟を生みました。
まずは、クロワッサン。
トルコ軍の勝利の記念として、トルコの旗にある三日月を食べてまえ!ということで作られたパン、という説があります。
しかし、残っているクロワッサンのレシピで最も古いものは20世紀初めのもので、それまで何もクロワッサンの記録はないため、これは創作された話とされています。
そもそもクロワッサンはフランスのパンであり、当時フランスはトルコの味方、オーストリアの敵だったのですから、歴史の背景から見てもおかしな話です。
また、同じパンのベーグルも、ウィーンのユダヤ人パン屋たちが、ヤン3世への感謝の印として、馬のあぶみの形をしたパンを献上したのが始まり、という話があります。
しかし、これも確かな証拠はなく、伝説の域を出ていません。
やや信ぴょう性があるのはコーヒーです。
敗走したトルコ軍の陣地から、大量のコーヒー豆が見つかり、これをポーランド・リトアニア共和国軍のイェジ・フランチチェク・クルチツキが払い下げを受け、彼は軍を辞めて1686年にウィーンでカフェ『青いボトルの下の家』を開き、ここからウィーンにコーヒー文化が広がった、というものです。
これは事実のようで、コーヒーは既にヨーロッパに入ってきていましたが、普及したきっかけはウィーン包囲以後です。
いずれにしても、トルコとの戦争が、ヨーロッパの文化、芸術にも大きな影響を与えたのです。
強烈なトルコの軍楽
音楽に与えた影響は、トルコの軍楽隊でした。
トルコ軍は士気を高めるため、軍楽隊を伴っていました。
ウィーンへの遠征でも軍楽隊が同行し、その迫力はヨーロッパ人を大いに驚かせたのです。
トルコの軍楽は「メフテル」といい、確かに、独特のリズムと、哀愁を帯びた旋律は一度聴いたら忘れられません。
有名なものはこちらで、かつて「世界ふしぎ発見!」で紹介されて話題になりました。
これは20世紀に入ってから作曲された曲ですが、雰囲気は昔と同じです。
このトルコの軍楽マーチを模したのが、「トルコ行進曲」です。
第1拍に強烈なアクセントを置いたリズムが〝トルコ風〟ととらえられていたようです。
有名なものはモーツァルトと、ベートーヴェンのものですが、まずはポピュラーなモーツァルトのものから聴きましょう。
モーツァルトの曲は、ピアノ・ソナタ 第11番の第3楽章です。
この曲は1783年にウィーンで作曲されたと考えられていますが、それは第2次ウィーン包囲の勝利からちょうど100周年にあたります。
『後宮からの誘拐』が前年の1782年初演ですから、ウィーンが〝祝・トルコ戦勝100周年〟で湧いていたのが伝わってきます。
W.A.Mozart : Piano Sonata no.11 in A major, K.331(300i)〝Alla Turca〟
演奏:ロバート・レヴィン(フォルテピアノ)Robert D. Levin
第1楽章 アンダンテ・グラティオーソ
このピアノ・ソナタは、モーツァルトのソナタでも最も有名なものですが、全く異例な構成で、いわば異端児です。
そもそも、第1楽章がソナタ形式をとっておらず〝ソナタなのにソナタじゃない〟のです。
第1楽章は変奏曲で、テーマと6つの変奏からなっています。
テーマはゆったりとした子守歌風で、私はなぜか古い歌〝〽なーつがくーれば思い出すー、はるかな尾瀬、遠い空〟を思い出してしまうのです、
思わず心地よい眠りに誘われそうですが、そこはモーツァルト、聴く人を引き付けてやまない魅力的な変奏が続きます。
華やかで技巧的な第2変奏に続き、第3変奏は短調で哀愁が漂います。
第4変奏は夢の中のまどろみのように、美しく、不思議な世界にいざなわれます。
第5変奏はアダージョで、情感はさらに深くなり、あふれる思いがおさえきれないようなやるせなささえ感じます。この曲のクライマックスといえます。
第6変奏はアレグロで、元気に、そして華やかに曲を締めくくります。
モーツァルトは、コンサートのメイン種目のひとつとして、変奏曲を数多く書いていますが、なぜこの曲はソナタに組み込まれ、単独ではないのか、どうして第1楽章なのか、謎は尽きません。
メヌエットも、ピアノ・ソナタには普通入ってこないので、異例といえますが、全く前例がないわけではありません。
曲調も、ふつうの典雅なメヌエットとは一線を画していて、長調ですが、トリオでは短調に転じて、強いリズムになります。これももしかしたら〝トルコ風〟なのかもしれません。
かなり工夫の凝らされた曲です。
第3楽章 アラ・トゥルカ:アレグレット(トルコ行進曲)
いよいよ有名なトルコ行進曲ですが、題は〝トルコ風〟ですので、どこにも行進曲とは書いてありません。
しかし、前述したように、トルコ音楽は軍隊の行進曲なので、そう呼ばれるようになったのでしょう。
モーツァルトといえば、まずこの曲が頭に浮かぶ人は多いでしょうが、どこが〝トルコ〟なのかはあまり知られていないかもしれません。
でも先ほどの「メフテル」を聴けば、モーツァルトの狙った効果が分かりやすいのではないでしょうか。
この曲の個人的な思い出ですが、1980年代、高校生の頃、伊豆七島の三宅島に行った際、帰りの船中で大学生たちがコンパをしており、船客を相手に様々な芸をしていました。
その〝演目〟の中に〝トルコ行進曲〟があり、一列に並んだ学生の頬を、この曲を先輩がビンタで奏でていくという、今だったら問題になりそうなネタですが、抱腹絶倒し、大学生ってすごいな、と、大学に行くのが楽しみでもあり、不安にもなったものです。
実際に大学生になっても、その芸をやらされることはありませんでしたが。
飲み会のネタになるほど、モーツァルトの曲でここまで親しまれているものはないでしょう。
ただ、モーツァルトの世界を、この曲からぜひ広げて行ってもらいたいものです。
動画は、家庭にはピアノは普及していなかったため、当時実際に使われることが多かったクラヴィコードでの演奏です。
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次回は、ベートーヴェンのトルコ行進曲です。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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