〝トルコ行進曲〟は、前回取り上げた、モーツァルトのほか、ベートーヴェン作曲のものもあります。
モーツァルトに比べると一般的なポピュラー度は少し低いかもしれませんが、ピアノを練習している人にはよく弾かれ、親しまれている曲です。
でもこちらはもともとはピアノ曲ではなく、ベートーヴェンが1811年に作曲した劇の付随音楽『アテネの廃墟』作品113の第6曲で、オーケストラ曲です。
今回はこの曲ができたエピソードのご紹介です。
昔は「ブダ」と「ペスト」だった
1812年、ハンガリーのペスト市に「ドイツ劇場」が新築されました。
ベートーヴェンの『アテネの廃墟』は、この劇場のこけら落とし公演の演目のひとつだったのです。
〝ドナウの真珠〟と讃えられ、ヨーロッパ有数の美しい都市といわれる、今のハンガリーの首都ブダペストですが、もともとは、ドナウ川を挟んで西岸は「ブダ」、東岸は「ペスト」という違う街でした。
「ブダ」はハンガリー王の王宮があり、政治の中心地。「ペスト」は商業の盛んな街でした。ちょうど「福岡」と「博多」に似ています。
くさり橋を作った人
このふたつの街は近くにありながら、ドナウ川があって行き来は不便。
舟橋がかかっていましたが、不安定ですし、冬は流れてくる氷に壊されてしまうので解体されました。
冬季は川が凍って渡ることができましたが、1820年の12月、まだ川が凍っていないのに、冬の準備で舟橋は解体されていた時期、父の訃報を聞いて対岸に駆けつけようとしたある伯爵が、渡るに渡れず、渡し舟を手配するのに大変時間がかかってしまいました。
その伯爵は、自分の体験から、絶対不可能といわれていた、大河ドナウへの架橋を決意しました。
そして、30年もの間、大変な苦労と努力を重ねた末、1849年に完成したのが、ブダペストの象徴となっているくさり橋です。
今では、橋の建造に尽力した伯爵の名を讃えて、セーチェーニ橋と呼ばれることも多くなっています。
この恒常的な橋の完成によってふたつの街は有機的に結ばれ、1873年に「ブダ」と「ペスト」は合併して「ブダペスト」となったのです。
これは19世紀も後半のことですから、ベートーヴェンの時代には、まだ街は分かれていました。
歴史的には、ハンガリーはオスマン・トルコと神聖ローマ帝国との係争の地であり、スレイマン大帝による第1回ウィーン包囲(1529年)につながる侵略で、1526年のモハーチの戦いで敗れて以来、140年もの間オスマン・トルコ領ハンガリーと、ハプスブルク領ハンガリーに分割されました。
前回取り上げた1683年の第2回ウィーン包囲にオスマン・トルコが失敗したのち、ヨーロッパ側は攻勢を強め、1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーはハプスブルク家の帰属となり、ようやくオスマン帝国の勢力をハンガリーから駆逐することができました。
以後、ハンガリー王位はハプスブルク家の皇帝が兼ねることになり、ベートーヴェンの時代もその状態が続いていたのです。
ちなみに、ハイドンが仕えたハンガリーの大貴族、エステルハージ侯爵家は、対トルコ戦で代々ハプスブルク家に忠誠を尽くし、多大の功績を上げてきました。
その結果、皇帝から多くの当主が「帝国軍元帥」に任命され、多くの領地を得て、ハンガリー国内での所領はハプスブルク家のものを凌駕したといわれています。
さて、そんなペスト市に新しく「ドイツ劇場」が完成し、そのこけら落としに際して上演されたのが、祝祭劇「アテネの廃墟」です。
戯曲を書いたのはアウグスト・フォン・コッツェブー(1761-1819)という劇作家でしたが、内容的には文学的に深いものではなく、皇帝を讃えるものでした。
時の皇帝はフランツ2世(1768-1835)。モーツァルトを贔屓にしたヨーゼフ2世の甥にあたりますが、ナポレオンに敗れて「神聖ローマ皇帝」は退位し、1804年からは「オーストリア皇帝」となっていました。
劇に使われる曲をベートーヴェンが作曲し、序曲と付随音楽8曲を書いています。
トルコ行進曲はその1曲です。
〝アテネの廃墟〟とは、世界遺産のシンボルとなっている、ギリシャ・アテネのアクロポリスの丘にそびえるパルテノン神殿のことを指します。
紀元前438年に、ペルシア戦争の戦勝記念として建てられた、古代ギリシャ建築の最高傑作です。
現在、修復が進められていますが、かなりの瓦礫の山の上に立っています。
紀元前の建築ですから壊れているのも無理もありませんが、壊滅的な破壊は比較的近年の、1687年に起こっています。
ギリシャは15世紀からオスマン・トルコの支配下になっていましたが、トルコ軍はこの神殿をなんと火薬庫として使っていました。
そして、ヴェネツィア共和国との戦いの最中、砲弾が当たり火薬に引火、爆発炎上して、今のような瓦礫の山になってしまったのです。
17世紀末まで、2000年以上もかなりまともに残っていたと思われるのに、残念至極です。
この劇は、そんなギリシャ文明をテーマにし、ギリシャ神話の女神アテナを主人公にしています。
知略の女神アテナ
アテナは大神ゼウスの娘で、ラテン名ではミネルヴァと呼ばれ、知恵、芸術、工芸、知略をつかさどるアテネの街の守護神です。
神話によれば、アテネの街ができたとき、守護神の座をアテナと、海神ポセイドン(ラテン名:ネプチューン)が争いました。
市民は、街に役に立つものをプレゼントしてくれた方を守護神にする、と言いました。(神様に対してずいぶんと図々しい市民たちですが…)
ポセイドンは塩の泉(一説には馬)を、アテナはオリーブの樹を授け、市民はオリーブオイルの方が体にいい、ということでアテナを選んだということです。
街の名前も、アテナにちなんでつけられました。
パルテノン神殿には、名工フェイディアス作のアテナ女神立像が本尊として祀られていたといわれていますが、今は跡形もありません。
戯曲『アテネの廃墟』のあらすじ
劇のあらすじは次のようなものです。
女神アテナは、アテネの哲学者ソクラテスが裁判にかかったとき、これを見殺しにしたとしてゼウスの怒りを買い、2000年もの間眠らされていました。(神話にはそんな話はなく、創作です)
ようやく目覚めてアテネの街に帰ると、そこはオスマン・トルコの支配下。
古代の文物も破壊し尽され、荒廃しきっていました。
女神はかつての自分の街の惨状にあっけにとられて立ち尽くし、その側をトルコ兵が軍楽を派手に鳴らしながら闊歩していきます。
トルコ行進曲はこの場面の音楽なのです。
絶望したアテナのもとに、神の使いヘルメス(ラテン名:マーキュリー)が訪れ、ミューズ(芸術)の神はすでにギリシャを去って他国に移り、ハンガリーの都ペストに新たな芸術の殿堂が生まれた、と告げます。
その殿堂が、この新しい「ドイツ劇場」というわけです。
ヘルメスに伴われてペストを訪れたアテナは、古代からの芸術を保護した皇帝フランツの胸像に月桂冠を飾ってその功績を讃え、幕となります。
まさに、劇場の完成を祝い、そのパトロンである皇帝を讃えるために特別に創られた劇なのです。
ベートーヴェンといえば、権力者には反抗的なイメージがあります。
人民の英雄として尊敬していたナポレオンが、自ら皇帝になったと聞き、激怒して彼に献呈しようとして『ボナパルト』と名付けた第3シンフォニーの表紙を破り、『ある英雄の思い出のために』に変えた、といわれていますし、次のようなエピソードもあります。
文豪ゲーテと庭を散歩していたとき、向こうからオーストリアの皇族一行がやってきました。
ゲーテは帽子を取って道の脇に寄り、うやうやしくお辞儀をしました。
ベートーヴェンはむしろ帽子を深くかぶりなおし、ふんぞり返っているので、皇族の方から挨拶をしてきました。
皇族が去ると、ベートーヴェンはゲーテに『あなたと私という芸術家がいるのですから、そんなにへりくだる必要はないではありませんか。』と言ったということです。
ふたりはお互いに〝この人とはやっていけない〟と思い、交際は短く終わりました。
しかし、ベートーヴェンの作品リストを見ると、王侯貴族を讃えるための曲が意外にあります。
評論家のアーノルド・ショーンバーグは次のように述べています。
『モーツァルトが貴族世界の周辺を動き、ドアを一心に叩いても本当の意味で中に入れてもらえなかったのに対し、ベートーヴェンはドアを蹴り飛ばして押し入り、自分の住み家にした。*1』
こうした曲は、ベートーヴェンが貴族社会の一員として活動していたことを示しているのです。
ギリシャをヨーロッパに取り戻そう!
また、この劇のテーマが象徴しているのは、ギリシャがトルコの支配下にある現状に対するヨーロッパ人の思いです。
ヨーロッパの歴史で、教会の支配のもと人間性を抑圧されていた長い中世から、人間らしさに光を当てたルネサンス。
人類は、古代ギリシャ、そしてそれを受けついだ古代ローマにおいて、文化、芸術、学問、民主政治、哲学、科学、建築、社会など、あらゆる分野で一度発展の頂点に達しました。
その後、蛮族の侵入などによって、その輝かしい古代文明の成果は西ヨーロッパから失われてしまいましたが、オスマン・トルコによるコンスタンティノープルの陥落によって、ビザンツ帝国に細々と、連綿に受け継がれていた古代文明の遺産が西ヨーロッパに入ってきました。
それは、カトリック教会からすれば呪うべき異教徒の文物でしたが、ヨーロッパ人はかまうことなく、その素晴らしさに魅せられ、もっと古代のような人間らしさを取り戻そう、と文芸復興ののろしを上げました。
これがルネサンスです。
クラシックとは
さらに時代が進むと、もっと古代ギリシャ・ローマを模倣しよう、ということになります。
これは古典主義といわれます。
古代ギリシャ・ローマは、後世の見本となる完成された文化の時代として「古典古代」すなわちクラシック、と呼ばれます。
18世紀後半には、ナポリ近郊でベスビオ火山の噴火で埋もれたポンペイの街が発見され、タイムカプセルを開けるようなその発掘が盛んになり、憧れの古代がリアルに人々の目の前に現れた時期でした。
古代への憧れにさらに拍車をかけたのです。
オペラはまさに古代ギリシャ劇の再現を目指したものですし、芸術の世界は古代の復活がメインテーマとなりました。
音楽の世界では、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンらは「ウィーン古典派」とされていますが、そのような時代の風潮を表した呼び名です。
ただ、本人たちの作品は「古代」を積極的に手本にした、というわけではありません。
むしろ、音楽の世界では、自分たちが〝後世の手本〟になっています。
ですから〝クラシック〟の意味も、現代ではズレて使われています。
「クラシック音楽」は、古代ギリシャ・ローマの復興をめざした音楽、という本来の意味から、それ自体が、後世の見本となりうる普遍的価値をもった音楽、という意味合いに変わっているのです。
それはさておき、そんな古代に憧れている西ヨーロッパ人にとって、自らの精神のふるさとであるギリシャが、いまだにオスマン・トルコの支配下にあるのは残念なことでした。
この『アテネの廃墟』が作曲されてから10年後の1821年、ギリシャ人が独立を目指して蜂起し、ギリシャ独立戦争が始まります。
すると、ヨーロッパ列強諸国はこれに介入し、1832年に独立が承認されました。
英国貴族にして詩人のバイロン卿(1788-1824)は、ギリシャ独立戦争に参加するべく、ギリシャに上陸しましたが、戦闘を前に熱病で亡くなりました。
これも、当時の〝古代熱〟が伺えるエピソードです。
さながら、中世にキリストの聖地エルサレムを奪還しようとした十字軍の再来です。
古典主義時代にあっては、アテネは西洋文明の故郷、あらたな聖地となったのです。
戯曲『アテネの廃墟』の一見他愛ない内容にも、これらの歴史的背景が秘められているわけです。
今回は、付随音楽の中でも演奏機会の多い「序曲」と、「トルコ行進曲」の2曲を聴いてみます。
L.V.Beethoven : Musik zu “Die Ruine von Athen” Op.113
演奏:ジョス・ファン・インマゼール指揮 アニマ・エテルナ
Jos van Immerseel & Anima Eterna
序曲
ト短調のアンデンテ・コン・モートの不穏な序奏から始まり、祝祭らしくない不安な雰囲気になりますが、ほどなくト長調の明るい主部になります。
オーボエとファゴットが呼び交わす軽やかな旋律には癒されます。
最後には、ベートーヴェンらしく大いに盛り上げて終わります。
劇中で、失望した女神アテナの側を、トルコ軍楽隊が遠くからやってきて、やがて去っていく、という情景を描いた曲です。
モーツァルトにしてもハイドンにしても、トルコ風の音楽は短調で書いていますが、これは変ロ長調の明るい調子です。
オスマン帝国の恐ろしいイメージはなく、おもちゃの兵隊の行進のような愛らしささえあります。
今ではピアノ編曲で演奏される方が圧倒的に多いですが、原曲は実はベートーヴェン自身のピアノ変奏曲のテーマから取られています。
フルートの代わりにピッコロを使い、シンバル、大太鼓、トライアングルを加えているのは、モーツァルトの『後宮からの誘拐』と同じく、当時のトルコ風音楽の定石に従っています。
この曲はピアノ編曲版がポピュラーですが、ラフマニノフ自身による演奏です。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
にほんブログ村
クラシックランキング