玉座を捨て、信仰を貫いた侯妃
前回、前々回と、バッハが音楽監督をしていたライプツィヒが属するザクセンの選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世(ポーランド国王アウグスト3世)(1696-1763)を讃えるための世俗カンタータを聴いてきました。
そして、プロテスタントのザクセン選帝侯がカトリックのポーランド王位を兼ねるという、当時の複雑な政治状況にも触れてきました。
その陰で、ひとりの気丈な、悲劇の女性がいました。
アウグスト3世の父で、これまでも登場した、強王アウグスト2世(選帝侯としてはフリードリヒ・アウグスト1世)の王妃、クリスティアーネ・エーベルハルディーネ(1671-1727)です。
彼女は、ザクセンの隣国で、同じドイツの領邦の君主であるブランデンブルク=バイロイト辺境伯クリスティアン・エルンストの長女として生まれ、22歳のときに、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世と結婚し、侯妃となりました。
しかし、前述のように、フリードリヒ・アウグスト1世は強健王と呼ばれるほど極度の好色家で、結婚時にすでに多数の愛人がおり、生涯の私生児は365人から382人といわれるほどで、ほとんど認知もしませんでした。
結婚3年目には夫妻唯一の嫡子として、後のフリードリヒ・アウグスト2世が生まれました。
しかし、まったくの政略結婚で、しかもそんな旦那ですから、結婚生活が幸せになろうはずもないですが、さらにふたりの間に決定的な亀裂が入ります。
それは、夫が、ポーランド王に立候補する資格を得るだけのために、カトリックに改宗したのです。
これも前述したように、ザクセン選帝侯といえば、宗教改革の折にルターを保護して以来、ドイツ・プロテスタントの盟主でした。
ザクセンの領民も、ほとんどがプロテスタントでした。
フリードリヒ・アウグスト1世は、周囲には形だけ、と言い訳しつつ改宗しましたが、敬虔なプロテスタントである侯妃クリスティアーネは、改宗を断固として拒否しました。
そして、夫のポーランド王の戴冠式にも出席せず、私領のプレッチュと、トルガウのハルテンフェルス城に引きこもってしまいました。
王妃の座より、信仰を取ったのです。
そして、静かな祈りの生活の中で、文化の保護や孤児への支援活動にいそしみました。
領民たちからは、彼女の筋の通った行動を称賛され、〝ザクセン人の柱〟とその徳を慕われました。
女に溺れ、権力のためになりふり構わない夫王とは対照的でした。
そして、1727年9月4日、夫王や王子とほとんど没交渉のまま、55歳の生涯を閉じました。
葬儀には夫も息子も参列しなかったということです。
われらのお妃さまを悼もうではないか
彼女はライプツィヒでも深く敬愛されており、訃報が伝わると、ハンス・カール・フォン・ヒルヒバッハという、貴族でライプツィヒ大学の学生が自費で追悼式を企画しました。
そして、追悼音楽の作詞を、同大学の教授で、ドイツ文学史にも名を残しているヨハン・クリストフ・ゴチェートに、作曲をバッハに依頼しました。
大学の音楽担当はゲルナーという人物だったので、バッハに依頼することには異論も出ましたが、ヒルヒバッハはバッハにこだわり、強い希望で実現させたのです。
敬虔なプロテスタントであったバッハはこの志に応え、一世一代の音楽を、侯妃追悼のために作曲しました。
それが名高いカンタータ『侯妃よ、さらに一条の光を』です。
教会の典礼用ではないため、世俗カンタータに分類されていますが、木管と弦の通常のオーケストラ編成に、2つのヴィオラ・ダ・ガンバとリュートが加わった大規模な作品です。
音楽はバッハの好んだロ短調で書かれ、そのしめやかな情感と旋律美は、バッハのカンタータの中でも特に美しいといわれています。
王を讃える曲と違い、王侯貴族へのごますりや儀礼的なものではなく、バッハ自身の心からの哀悼と敬愛の念を、その人に捧げた音楽だからかもしれません。
そのうち5曲を、バッハは後に『マルコ受難曲』に転用したことが分かっていますが、惜しくもその曲は残っていません。
追悼式は、1727年10月17日に、ライプツィヒ大学付属の聖パウロ教会で行われました。
ちなみに第1曲の合唱は、2013年の映画『ダイアナ』の冒頭で使われました。
不幸な結婚、そして後半生を地雷除去活動など慈善活動に捧げ、非業の死を遂げた悲劇のプリンセスの物語にふさわしい音楽だといえます。
バッハ:カンタータ 第198番 追悼頌歌『侯妃よ、さらに一条の光を』BWV198
Johann Sebastian Bach:Cantata, BWV198 “Lass, Fürstin, lass noch einen Strahl”
演奏:ジョン・エリオット・ガーディナー指揮 イングリッシュ・バロック・ソロイスツ、モンテヴェルディ合唱団
John Eliot Gardiner & The English Baroque Soloists, The Monteverdi Choir
第1部
第1曲 合唱
侯妃よ、さらに一条の光を
サレムの星空より放ちたまえ
そして見たまえ
われらが涙しつつ
侯妃の墓碑のまわりに集っているのを
付点リズムの繰り返されるモチーフは、哀悼の行列を表わしています。そして、ホモフォニックな合唱が、ライプツィヒの人々の悲嘆をストレートに表現しています。〝サレム〟はエルサレムの古名のひとつで、イエス受難の地の空に輝く星のように、信仰の危ういこの世に、希望の光を差し込ませてください、と妃の霊に呼びかけているのです。
あなたのザクセン、悲嘆に暮れるマイセンは
あなたの墓のもとに立ちつくしています
目は涙におおわれ、舌は叫んでいます
わたしたちの悲しみは筆舌に尽くし難いと
ここにアウグスト侯と王子と国は嘆き
貴族は悲嘆に暮れ、市民は喪に服しています
民衆はどうしてあなたを悼まずにいられましょうか
あなたが倒れられたそのとき
ヴァイオリンとヴィオラが千々に乱れる悲しみの心を表し、その上にソプラノがむせび泣くように歌います。
第3曲 アリア(ソプラノ)
鳴るのをやめよ、優しき弦の響きよ
いかなる楽の音も
いとしい母の死に臨んで
国の心痛を、おお、悲しみの言葉よ
言い表すことはできない
レチタティーヴォに続き、弦が、歌詞にあるような優しい響きを奏でますが、それを否定するソプラノがいっそう悲しみを募らせます。
うち震える鐘の音は
その青銅の響きにより
われらの悲しむ魂に恐れを呼び起こし
骨の髄と血管を通ってわれらを貫こうとする
おお、不安な鐘の音よ
耳に日々鳴り響いて
全ヨーロッパの人々に
われらの悲しみを伝えてほしい
音型は弔鐘を表わしており、バッハの音楽の中でも特に見事な描写とされています。アルトが、自分たちの悲しみが世界に広がっていくよう願って歌います。
第5曲 アリア(アルト)
侯妃は、どんなにか満ち足りて世を去られたことか
その霊は、どんなにか勇気をもって戦われたことか
死がその胸を打ち負かす前に
侯妃は死の腕をねじ伏せられたのだ
いったん悲嘆の情は去り、特別に加えられた、当時としても古くなってきた楽器、ヴィオラ・ダ・ガンバ とリュートの古雅な伴奏に支えられ、アルトが、信念を貫いて困難に立ち向かい、そして全うした、妃のおそらく悔いなき人生に思いを馳せます。この曲の核心ともいうべき、天上的な音楽です。
侯妃の生きざまは、死にゆく術を
たゆみなき行いによって示された
さもなければ、死を前にして
顔色を失ってしまう
ああ幸いなことだ!
その偉大なる霊は
自然にも打ち勝ったのだ
墓と棺に恐れおののくことはない
造物主が霊との別れを命じたときに
2つのオーボエ・ダモーレを伴奏に、テノールが妃の安らかな死を讃えます。
第7曲 合唱
あなたこそ、偉大なる女性の鑑
あなたこそ、気高き王妃
あなたこそ、信仰を育てた侯妃
これこそ高潔の鑑
第1部を締めくくる壮麗な合唱で、フーガのポリフォニックな部分と、フルートの活躍するホモフォニックな部分が交互に現れ、妃を〝女性の鑑〟と讃えます。
第2部
第8曲 アリア(テノール)
永遠のサファイア色の住まいは
侯妃よ、あなたの晴れやかな眼差しを
われらを卑しさから引き戻し
地上の汚れた姿を贖われた
百の太陽にも似た強い輝きは
真夜中のような昼を
われらの闇のような太陽を
あなたの光輝く頭で包んだのだ
追悼式の式次第では、最初に第1部が演奏され、弔辞を挟んで、第2部に移りました。この第2部の最初のアリアでは、天上での妃の新しい生活、そして「永遠の命」が歌われます。妃はサファイア色に輝く家に住み、それは地上の穢れからは無縁の清らかさな光に満ち、地上を照らしているのです。ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、リュートと通奏低音がそれぞれの音型を固執して長々と繰り返すことによって、「永遠」を表わしています。フルートのオブリガートも限りなく続きます。
驚くべき奇跡
あなたこそ、それにふさわしい
あなたは全ての妃の鑑
いまや、あなたの頭を照らすべき
全ての飾りをあなたは得た
いまや、あなたは神の子羊の御座の前に
虚栄の緋の衣を脱ぎ捨てて
真珠のように清い無垢の衣をまとい
地上に残した王冠をあざ笑っている
豊かなヴィスワ川の岸辺
ニースター川とヴァルテ川が流れる限り
エルベ川とムルデ川の注ぐ限り
町も村もあなたを崇めよう
あなたのトルガウは喪服に身を包み
あなたのプレッチュは力もなく
目もうつろに立ちすくむ
あなたを失って
その目を楽しませるものを失ったためである
テノールが、まず通奏低音のみのレチタティーヴォで、世俗の王冠などに比すべくもない妃の天国での栄誉を称え、途中でアリオーソとなって、妃にゆかりのある川たちの流れを歌い、最後にレチタティーヴォに戻りますが、オーボエの悲痛な音色を伴い、王妃の住んだトルガウとプレッチェの領民たちの絶望と嘆きを伝えます。
第10曲 合唱
されど侯妃よ、あなたは死なれたわけではない
人々は、あなたが持っているものを知っている
後世も、あなたを忘れることはないだろう
この世が滅ぶまで
詩人たちよ、書き記すのだ、われらは読もう
侯妃こそ徳の化身
臣下たちの喜びと誉れ
妃の中の妃である、と
田園舞曲風のリズムに乗り、コラールのようなホモフォニックな合唱で、妃の生きざまを偲び、あなたを永遠に忘れません、後世までその徳はずっと語り継がれるでしょう、と、追悼式を感動的に締めくくります。
ちょうどこの記事を書いているとき、偶然にも妻の祖母が102歳で逝去したという訃報に接しました。遠方の在住であまり会えませんでしたが、非常に気丈で立派な人で、訓えられることが多かったので、この曲が一層心に沁みました。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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