青年ベートーヴェンが1789年5月にボン大学に入学し、シュナイダー教授をはじめとした過激なまでの革新派教授陣の講義に胸躍らせているさなか、隣国では7月にフランス革命が勃発しました。
自由と平等を求める思想がいよいよ具現化を始めたのです。
そのような激動の中、翌年の1790年2月20日、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世が48歳の若さで崩御しました。
ヨーゼフ2世はモーツァルトを熱心に応援したことで、映画『アマデウス』にも登場し、これまでも何度も取り上げた音楽と縁の深い皇帝です。
一方、啓蒙思想を信奉し、旧弊な社会を自由主義で改革しようとしましたが、〝上からの改革〟はなかなかうまくいかず、挫折の連続でした。
それでも民衆からの人気は高く、〝人民皇帝〟〝民衆王〟〝皇帝革命家〟などともてはやされました。
後に1848年にオーストリアで革命が起き、当時の皇帝が退位した後、即位したフランツ大公は、自由主義者から支持を得るために〝ヨーゼフ〟の名を加え、フランツ・ヨーゼフ1世を名乗ったほどです。
ベートーヴェンの主君、ケルン選帝侯マクシミリアン・フランツは、ヨーゼフ2世の末弟であり、尊敬する兄帝の近代化政策を新しい自分の領国でも実現すべく取り組んできたのは、前回まで取り上げたとおりです。
当然、この訃報は選帝侯のみならず、ボンに集まった革新派知識人たちを大いに悲しませました。
ベートーヴェンの師ネーフェも主宰者のひとりで、リースやワルトシュタイン伯爵などもメンバーだった『読書クラブ(レーゼゲゼルシャフト』では、追悼式をボンで催そうということになりましたが、そこで追悼演説を求められたシュナイダー教授は、この偉大な皇帝を悼むには音楽も必要だ、と訴えたのです。
これにはみな賛成し、聖職者で詩人のセヴェリン・アントン・アヴェルドンクに歌詞が委嘱され、音楽はなんと19歳のベートーヴェンに任されたのです。
人民皇帝を讃えよ!
この追悼式は、知識人たちの自発的なものであり、単なる権力者への儀礼的、追従的なものではありませんでした。
ボンの知識人たちにとって、玉座の改革者ヨーゼフ2世を讃えることは、それ自体に政治的なアピールがあったのです。
ベートーヴェンに委嘱されたのは、単にその若き才能が認められた、というだけではなく、彼の思想、信条が、ヨーゼフ2世を讃えるという役割にふさわしいと評価されたのではないかと考えられます。
その歴史的意義は計り知れません。
ベートーヴェンにとっては、これほどの規模の曲の作曲は、もちろん初めてのことでした。
4部の独唱に混声合唱、フルオーケストラで、独唱曲と合唱曲を交えたカンタータです。
もちろん、数々の教会音楽に親しみ、モーツァルトを始めとした劇音楽の演奏にも携わってきましたので、知見は十分積んでいましたが、完成したものは、初期の作品とは思えない充実したものとなりました。
では、さっそく聴いてみましょう。
Ludwig Van Beethoven:Kantate auf den Tod Kaiser Josephs II. WoO 87
演奏:レイフ・セーゲルスタム(指揮)トゥルク・フィルハーモニー管弦楽団、アボエンシス大聖堂聖歌隊
第1曲 四重唱と混声合唱『死が、不毛な夜を通してうめく』
(合唱)
死が、不毛な夜を通してうめく
絶壁は泣き叫ぶ
そして海の波は
その深みから唸りを上げる
偉大なヨーゼフが死んだ!
ヨーゼフ、不滅の業績の父が死んだ
嗚呼哀しい哉!
〝運命〟の調、ハ短調を採っており、後のベートーヴェンのハ短調の原点であるともいえます。追悼にふさわしく、絶望に満ちた音楽です。低弦のうめきとひらめく管は、絶壁で途方にくれる人々を表しています。ヨーゼフが死んだ!という悲痛な叫びは、ア・カペラで、悲壮感が胸を打ちます。重厚な響き、畳み掛ける情念は、まさに巨匠の作品といってよいでしょう。
(バス)
狂信という名の怪物が
地獄の深みから立ち現われ
天と地を引き離し
世を闇に陥れた
バスのレチタティーヴォとアリアです。劇的な吹きすさぶオーケストラの中で叫ぶバスのレチタティーヴォは、ハイドンのオラトリオを思わせますが、まだそれは作曲されていないのです。
第3曲 アリア『ヨーゼフは神の如き強さで』
(バス)
そこにヨーゼフは、神の如き強さでやってきた
荒れ狂う怪物を引き裂き
天と地の間から現れ
その頭を踏みにじった
ニ長調に移り、バスがドラマチックにヨーゼフ皇帝の英雄的な姿を描きますが、ベートーヴェンの生涯のテーマのひとつである〝ヒロイズム〟はここからスタートしたといえます。形式としては、イタリアのスタンダードなダ・カーポ・アリアになっていますが、これはベートーヴェンがまだ伝統の中にいた、というよりは、伝統をすでに自家薬籠中のものにした、ととらえるべきでしょう。
第4曲 アリアと合唱『人は光の中へ昇り』
(ソプラノと合唱)
かくして人は光の中に昇り
地球は太陽の周りを幸せそうに回り
太陽は神の光で世を温めた
オーボエ・ソロのオブリガードによる天国的な光に包まれ、ソプラノが皇帝の優しく思いやりに満ちた統治を、太陽に例えて歌い上げます。最後には合唱が加わり、人々の思いが共感の輪を作り上げていきます。
第5曲 レチタティーヴォ『彼は帝国の統治から解放されて』
(ソプラノ)
彼は眠る
自分の帝国の統治から解放されて
夜の間、震える風が
墓の息のように私の頬に触れる
不滅の魂を持つ者には誰であれ
そよ風が優しく吹く
ヨーゼフは墓の中に
審判のその日まで
安らかに眠る
祝福された墓よ
彼に永遠の王冠を与えたまえ
ソプラノが静かに、困難な帝国の統治に生涯を捧げた皇帝の労苦を偲び、思いを馳せます。実際、ヨーゼフ皇帝は、自分の墓碑に『よき意志を持ちながら、何事も果たさざる人ここに眠る』と刻むように命じました。理想がほとんど実現できなかった無念を自嘲しているのです。もちろん、この歌詞を書いた詩人はそれを知りませんでしたが。
第6曲 アリア『ここに安らかに眠る』
(ソプラノ)
ここに彼は安らかな平和に包まれて眠る
偉大なる殉教者
痛み無くしてはバラは摘み取れない
偉大なる殉教者
彼の心は常にいっぱいだった
生涯の終わりまでいっぱいだった
人民を思う心痛で
このカンタータの核心となるアリアです。人民のことを常に考え、悩み、試行錯誤をして統治に苦しんだ皇帝。その心労が命を縮めてしまった。事実ヨーゼフ2世は、啓蒙主義の理念のもと、教会や封建領主といった、人民を圧迫し搾取してきた旧勢力と闘い、農奴解放などの改革に取り組みましたが、急進的に過ぎ、また貴族の多くは面従腹背、試みのほとんどは頓挫します。また、保守層から権力を奪って自分に集中させるということは、絶対主義、専制主義を採ることとなりという、〝啓蒙専制君主〟という矛盾した存在の代表とされました。自由主義が民主主義とは限らないのです。しかし、若きベートーヴェンは、この皇帝をねぎらい、その霊を慰めるべく、管に彩られた美しいアリアを捧げています。
第7曲 四重唱と混声合唱『死が、不毛な夜を通してうめく』
(合唱)
死が、不毛な夜を通してうめく
絶壁は泣き叫ぶ
そして海の波は
その深みから唸りを上げる
偉大なヨーゼフが死んだ!
ヨーゼフ、不滅の業績の父が死んだ
嗚呼悲しいかな!
終曲は、冒頭の合唱曲のダ・カーポです。モーツァルトの『レクイエム』を思い起こしますが、この曲の方が古いのです。ミサ曲の伝統に従った構成と思われます。
なんと!演奏されずにお蔵入り
さて、この驚くべき感動的な大作、また歴史的にも意義の深いこの作品は、なんと肝心の追悼式には間に合わなかったのです。
発注から本番まで、あまりに時間が少なかったことが原因と言われています。
せっかくの作品なのに、残念なことです。当時の人々も惜しがったことでしょう。
特別な、唯一無二の機会のための作品ですから、その後の演奏のチャンスも無いまま、お蔵入りとなってしまいました。
出版もされず、再発見されたのはベートーヴェンの死後ずいぶん経ってから。
1884年に、写譜で出てきました。
現在に至っても、ほとんど演奏はされず、録音も非常に少ない曲です。
しかし、ベートーヴェン個人にとっては、大きなチャンスをもたらす出世作となったのです。
1792年7月初旬、1回目のロンドン訪問を終えたハイドンがボンに立ち寄り、宮廷楽団たちによる盛大な歓迎会が開かれました。
その場で、当地で若き天才と言われていたベートーヴェンが正式に紹介され、ハイドンに作品を見てもらえることになりました。
その際、提出したのがこのカンタータだったのです。
ハイドンはその出来栄えに驚き、ベートーヴェンの非凡な才能を瞬時に見抜きました。
そして、選帝侯に対し、ぜひウィーンに留学させるべきと進言し、自分の弟子とすることを申し出たのです。
ヨーロッパ一の巨匠ハイドンからの推挙とあって、選帝侯は22歳のベートーヴェンを給費留学生として1年間ウィーンに留学させることを決定します。
この曲は、演奏こそされませんでしたが、ドイツの地方都市の宮廷楽師で終わるかもしれなかったベートーヴェンに、国際的、世界的な音楽家となるチャンスをもたらしたのです。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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