19世紀に突入させた一撃
1804年12月。
ベートーヴェンは、パトロンのひとり、ロプコヴィッツ侯爵の館にて、新しいシンフォニーの試演(リハーサル)を行います。
この館は今では演劇博物館になっており、試演された部屋は〝エロイカ・ザール〟と呼ばれています。
この部屋で初めて世に鳴り響いた音こそ、歴史を変える音楽でした。
その曲は、交響曲 第3番 変ホ長調 Op.55《エロイカ(英雄)》。
ショーンバーグの評論を引用します。
1805年に初演された『エロイカ』は、音楽史上の転換点の一つになっている。この交響曲の完成するまでは、ベートーヴェンは18世紀に根を下ろした作曲家であった。たしかに彼の音楽はハイドンやモーツァルトの作品よりも、ずっと野性的であった。作品18の6つの弦楽四重奏曲は新世界を示唆した(しかし、ただ示唆しただけであった)力強さを持っていた。第1、第2交響曲は実際の演奏時間とオーケストラの規模において、古典派の交響曲を新たな次元に引き上げた。初期のピアノ・ソナタ、特に『悲愴』『月光』(ベートーヴェンの命名ではない)、それに『ニ短調ソナタ』は、音量、ロマン的表現、形式の斬新さ、新種の技巧のいずれの点においても、モーツァルトやハイドンのピアノ音楽より遥かに前進していた。しかし全体として見た場合、『エロイカ』以前の音楽は、ベートーヴェンの偉大な先輩たちの言語で書かれている。ところが、『エロイカ』が出現するや、音楽の様相は一変した。スパナの激しい一振りによって、音楽は19世紀に突入したのである。*1
〝世紀〟は単なる時間の経過の物差しであって、時代の変革を測ったものではありません。
しかし、18世紀と19世紀の変わり目は、偶然、世界史の大きな転換点に当たっています。
世界史上に線を1本引くとすれば、間違いなくこの時点です。
産業革命とフランス革命。
このふたつの革命によって、〝前近代〟が、今の時代に直接つながる〝近代〟に変わりました。
そして、時期を同じくして、音楽界の革命が、1804年に試演、1805年に公開初演された、ベートーヴェンの《シンフォニア・エロイカ(英雄交響曲)》によって起こされたのです。
しかも、この革命的な曲は、フランス革命の成果を引き継いだナポレオン・ボナパルト(1769~1821)に捧げることを目的として構想され、作曲されました。
歴史には、時々このような、必然ともいうべき偶然が発生するのです。
破かれていない表紙
このシンフォニーの成立については、愛弟子リースが、ベートーヴェンの親友ヴェーゲラーと30年後に共同出版した『ベートーヴェンの生涯に関する覚書』に記載した、次の回想で知られています。
このシンフォニーの場合ベートーヴェンはボナパルトのことを心に描いてはいたが、それはまだ彼が第一執政だったときのことである。ベートーヴェンは当時彼をきわめて高く評価しており、彼を最も偉大なローマの執政官になぞらえていた。私も、ベートーヴェンの近しい友人たちも、このシンフォニーがすでにスコア譜に書き写され、彼の机の上にあるのを見たが、その表紙にはずっと上の方に〝ボナパルト〟という語が、そしてぐっと下の方には〝ルイジ・ヴァン・ベートーヴェン〟とあり、しかしそれ以外に言葉はなかった。余白が埋められるのか、何によってか、私は知らない。私は、ボナパルトが自ら皇帝であると宣言したというニュースを彼にもたらした最初の人で、彼はそのことに激怒して、叫んだ。「彼もふつうの人間と変わりない!これからもあらゆる人権を足で踏みにじり、自らの野望のとりことなっていくだろう。つまり彼はこれから自らを他のすべての人たちより高いところに位置させ、専制君主となるだろう!」ベートーヴェンは机に近寄り、表紙を上につかんでビリっと裂き、床に投げ捨てた。最初のページが新たに書かれ、そしてようやくこのシンフォニーは《シンフォニア・エロイカ》という表題を持ったのである。*2
ナポレオンの皇帝即位を語るとき、必ず引き合いに出される、世界史の1ページといっても過言ではないエピソードです。
しかし、この証言にはいくつか疑わしい点もあります。
まず、リースが〝破り捨てられた〟と証言している浄書譜の表紙は、ウィーン楽友協会に現存するのです。
それを見ると、『ボナパルトと題された』と書かれた文字の〝ボナパルト〟が、ナイフのようなもので乱暴に削り取られています。
ナポレオンへの献呈が取り消された証拠ではありますが、リースの話とは食い違います。
他に、細かいところでは、ベートーヴェンの署名はイタリア語の〝ルイジ・ヴァン・ベートーヴェン〟ではなく、フランス語の〝ルイ・ヴァン・ベートーヴェン〟となっています。
また、大きく〝シンフォニア・グランデ(大シンフォニー)〟とイタリア語で書かれているのですが、リースの証言では、他には何も書かれていなかった、とあります。
こんなに大きいタイトルを見逃すはずはありません。
ではなぜ、こんなに食い違っているのでしょうか。
この『覚書』は、ナポレオンもベートーヴェンも死去した後の出版で、ナポレオンが皇帝即位後、ヨーロッパ征服の野望のとりことなった歴史が終わったあとですから、〝偉大なベートーヴェンには先見の明があった〟という文脈で書かれています。
ナポレオンのことをなぞらえていたという〝最も偉大なローマの執政官〟は、おそらく、ポエニ戦争でカルタゴの英雄ハンニバルを破り、祖国ローマを救った大スキピオ(スキピオ・アフリカヌス)(BC236~BC183年頃)のことではないかと思われます。
同時に、革命フランスを共和政ローマに比していたのでしょう。
1789年に始まったフランス革命は、自由・平等・博愛を理念とし、若いベートーヴェンも熱狂しましたが、諸国が寄ってたかって潰そうとしました。
ナポレオンが、将軍として、やがて執政として、その干渉をはねのけ、祖国を守り、また革命が権力闘争、恐怖政治に陥った泥沼から救い、安定と平和をもたらした姿は、まさしく古代の英雄でした。
しかし、ローマの共和政は、乱世を平定したオクタヴィアヌス(アウグストゥス)の皇帝即位で帝政に移行します。
でもアウグストゥスはいきなり専制君主になったわけではなく、あくまでも〝第一の市民(プリンケプス)〟として振る舞いました。
古代に憧れた古典主義時代、ナポレオンはこの歴史を利用して皇帝に即位しました。
〝フランス皇帝〟ではなく、〝フランス人民の皇帝〟と称したのです。
ナポレオンが自らをなぞらえたのは、スキピオではなく、アウグストゥスだったわけですが、ベートーヴェンが戴冠の時点で、彼が自分の野心を満たすだけの独裁者になると見抜いていた、というのは、確かにちょっと〝盛りすぎ〟かもしれません。
〝ある偉大な人物〟とは
ではなぜ献呈を取り消したかというと、ナポレオンとオーストリアとの戦争が、すぐに再開されたから、という理由が妥当かもしれません。
これによって、ベートーヴェンが計画していたパリ行きも取りやめになりました。
そして、作品の献呈先は、ナポレオンから、自分に多額の資金援助をしてくれた、ボヘミア貴族のロプコヴィッツ侯爵に変更になりました。
表紙を削り取ったのは、この急な変更によるものだったかもしれません。
ベートーヴェンが激しく表紙を破り捨てた、というのは劇的なシーンですが、フィクションの可能性もあるのです。
出版は、初演からさらに2年半延び、1806年10月になってからでした。
出版社はウィーンの美術工芸社です。
オーストリアがナポレオンに大敗して講和した後ですので、その初版譜には、ボナパルトの文字はなく、イタリア語で《シンフォニア・エロイカ》と題されました。
ここで初めて〝エロイカ〟の言葉が出ます。
そして、さらにイタリア語で『ある偉大な人物の思い出を祝うために作曲され、ロプコヴィッツ侯爵閣下に献げられた。』と付記されています。
ここの〝ある偉大な人物〟とは誰か、ということにも諸説ありますが、やはりナポレオンのことを指すと考えるのが妥当でしょう。
ふつう、献呈辞つきの印刷譜はフランス語で記されるのですが、あえて異例のイタリア語を使うことで、古代ローマを連想させ、真の献呈者をぼかす狙いがあったものと思われます。
なお《シンフォニア・エロイカ》は、〝英雄を表したシンフォニー〟ではなく、〝英雄的なシンフォニー〟というニュアンスですので、これもナポレオン=英雄とするのをごまかしてのことと思いますが、新しい時代を切り開いたこのシンフォニーの役割を言い得て妙です。
ベートーヴェンは、後に、オーストリアに何度も攻め寄せ、連戦連勝するナポレオンに対し、『自分が対位法と同じくらい兵法に通じていたら、奴を打ち破ってみせるのに』と悔しがっていますが、ヨーロッパ諸国の旧体制をぶち壊して回る姿に対しては、決して大きな失望はしていなかったのではないでしょうか。
それでは、第1楽章から聴いていきましょう。
Ludwig Van Beethoven:Symphony no. 3 in E flat major, Op.55
演奏:ホルディ・サヴァル指揮 ル・コンセール・ナシオン(古楽器使用)
Jordi Savall & Le Consert des Nations
第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ
第1、第2シンフォニーとは違い、序奏を置いていません。それどころか、3拍子の第1拍目から、主和音の総奏による強打で始まります。全く同じ小節が2つ連なるわけですから、全く異例の、度肝を抜く開始です。この和音はむしろ、曲の終わりにふさわしいですから、何かの終わりから、新たなる創造が始まる、という意図を強く感じます。まさにこの和音の一撃によって、19世紀が始まったのです。第2ヴァイオリンとヴィオラのトレモロに乗って、コントラバスを伴わないチェロが第1主題を奏で始めます。このテーマは、モーツァルトが11歳のときに書いた牧歌劇『バスティアンとバスティエンヌ』K.50(46b)のシンフォニアに酷似しています。ベートーヴェンが、このマイナーな曲を知っていたかどうかは不明ですが、一見のどかなフレーズが、何と力強い姿になっていることでしょうか。まさに気宇壮大、馬上の英雄の壮図を感じさせます。リズムは3拍子の中に、2拍子的な要素を盛り込み、障害をはらんで緊張を高めます。第2主題は定石通りの変ロ長調で、極めて柔らかく、クラリネットから始まり、他の木管を経てヴァイオリンに受け継がれます。
そして、驚くべき展開部に突入します。ハイドンやモーツァルトの場合、展開部は提示部の6割程度ですが、この曲では1.6倍の規模があります。この展開部へのこだわり、労作がまさに新時代の音楽なのです。構成でいえば、再現部も提示部と同じ長さがあり、さらに終結部まで同じ規模があります。展開部では、いくつもの素材と異なったリズムが組み合わされ、変幻自在を極めます。リースの証言によれば、ロプコヴィッツ侯爵邸での試演では、展開部のシンコペーションでオーケストラが完全に混乱し、最初からやり直さなければならなかった、と伝えています。弾く人も、聴く人も、この巨人の姿をつかめず、ただただ当惑するばかりでした。提示部の輝かしさに比べて、ここでの陰惨な暗さに、私は小学生の頃、同じ英雄でも〝乱世の姦雄〟曹操を連想したものでした。
再現部に入るところで、有名な第2ホルンソロの導入があります。これは今でも賛否両論があるところで、間違いではないかと思うほど衝撃的ですが、考え尽くされた結果です。
終結部は、新たな展開部と思われるくらいに長大ですが、複雑な構成とは感じさせないほど自然な流れです。最後は陽気にテーマを重ねつつ、クレッシェンドの末に大爆発して楽章を閉じます。胸がいっぱいになる瞬間です。
次回は第2楽章『葬送行進曲』です。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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