ハイドンの第二の故郷、アイゼンシュタット
ハイドンが副楽長として採用され、勤務し始めたアイゼンシュタットの街は、エステルハージ侯爵家の本拠地で、第一次世界大戦の結果オーストリア領となりましたが、当時はハンガリーでした。
ウィーンからわずか60Kmほどの距離で、ローマ帝国の東の防衛拠点だったウィーンが、いかに東のはずれにあるかが分かります。
後に、次の君主ニコラウス侯が、さらに50Kmほど離れた、ノイジードル湖のほとりに、ヴェルサイユ宮殿を模した壮麗なエステルハーザ宮殿を建設します。
この宮殿は夏の離宮として建てられましたが、侯爵はここが気に入り、アイゼンシュタットに戻るのは冬だけで、ハイドンたち宮廷楽団も同じ生活パターンとなります。
「エステルハーザ」がまだ建設中で、家族の宿舎がなく、妻を帯同できない時期に、侯爵が長期滞在するため、帰りたがった単身赴任の楽団員たちのために作曲したのが、有名なシンフォニー 第45番《告別》です。
以前の記事ですが、アントニーニ&ジャルディーノ・アルモニコの演奏動画も貼り付けておきました。
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エステルハーザは、あくまでも〝離宮〟であって、本拠の宮殿がある都市アイゼンシュタットとの関係は、フランスでいえばパリとヴェルサイユ、オーストリアでいえばウィーンとシェーンブルン、プロイセンでいえばベルリンとサンスーシ(ポツダム)、スウェーデンでいえばストックホルムとドロットニングホルム…とキリがありませんが、ルイ14世が創始した、当時の絶対君主たちの理想のライフスタイルだったわけです。
ハイドンが就任したときはまだエステルハーザはありませんので、アイゼンシュタットのみの勤務です。
小鳥さえずる、素敵な町
彼が働き始めた頃のアイゼンシュタットについて、 19世紀のハイドン研究家、カール・フェルディナンド・ポールは次のように伝えています。
アイゼンシュタットは、低部ハンガリーにあり、ウィーンから6マイル、エーデンブルクから1マイル半、ウィーナー・ノイシュタットからも同じだけ隔たっている。町は、3つの区画から成って、500戸、5000人以上の住民をもっており、ライタ連山のほうにむかって、あまり急でない上昇斜面を望むことができるが、町は、平野にかかってゆるやかな傾斜地にあった。この平野のむこうには、ノイジードル湖の方角へ大きな半円を描いて、連山に囲まれた一幅の絵のような遠景をみはるかすことができる。また、その反対側では、魅力的な森の高まりがつづいており、その一部が豊かなブドウ畑になっている。ウィーンの方角からくる道には、村落の大小さまざまな屋敷がひさしをならべ、古い栗の並木が道に影をおとしている。
この道をとおって、教区の教会とその隣にある広大な「天使館」を通りすぎるとすぐに、ユダヤ人が多く住んでいるベルクシュタットにつく。その街には1760年にパウル・アントン侯によって建てられた僧院と慈悲の友会病院があった。このベルクシュタットに隣接して、城の敷地がある。その広大な鉄柵をとおり、ほぼ規則正しい四辺形を形作っている城前の広場に足を踏み入れると、左側は侯爵の城に接し、その反対側は家畜小屋と、当時ここで分列行進をした侯爵の近衛部隊の本部だった円柱のあるふたつの建物がならんでいる。広場の四方は。2、3の建物によって遮られ、ここから、ほとんど並行して走っている3つの大通りをとおって、下の町までゆくことができる。
この町のはずれについ最近まであった最後の城門の近くには、教区の教会が建っている。そして最後に、ここにのこる城壁の外側には、火事場と呼ばれた街区がひろがっている。ここに述べている時期のあと間もなく、1768年と1776年の二度にわたって、大火がアイゼンシュタットを襲った。このために、以前からあった古い建物や城堡などが、そういった古い眺めにふさわしくないような新しい装いの街区と混在することになった。
その後、この町にも、さまざまな点で多くの変化がもたらされたが、町を取り巻く永遠に豊かな自然の魅力は、いまなお遺っている。当時も、穀物の豊かに実る平野をとおり、樹木の生い茂った街路に沿って、恵まれたブドウ畑へと散歩を楽しんだり、あるいは山頂にのぼって魔法のような森の涼しさに身も心も生気のよみがえる思いをしたのだった。そのうえ、のちにハイドンもそうだったが、僧院の通りに家を持つ者には、隣りの庭に巣を造っている無数の小鳥どもが大声で喜ばしい朝の挨拶を仕事部屋へ運ぶのであった。*1
小鳥のさえずりを聴きながら、仕事部屋で楽想を練るハイドンの姿が目に浮かびます。
この描写を読むだけでも、平野に囲まれた、それほど大きくない、のどかな宮殿の町の美しさが伝わってきます。
エステルハージ侯爵の宮殿も、ハイドンの家も、今も残っています。
ハイドンの家はハイドン博物館になっていますが、上記に出てくる「僧院の通り」は今では「ヨーゼフ・ハイドン通り」と名付られています。
ハイドンが晩年住み、『天地創造』と『四季』を作曲し、生涯を終えたウィーンの家も今では博物館となっており、私も訪ねたことがありますが、ウィーンから離れたアイゼンシュタットにはまだ行ったことがありません。
Google Mapのストリートビューで、ヨーゼフ・ハイドン通りを辿ってみましたが、今でも、実に美しい町のようです。
前半生の名作が生まれたこの町に、死ぬ前にはぜひ訪ねたいものです。
アイゼンシュタットに移された、ハイドンの墓
ハイドンは、ナポレオンの第2回ウィーン攻囲の砲声を聞きながら、1809年5月31日、77歳で大往生を遂げます。
遺骸は、ウィーンのフントシュトルム墓地に葬られますが、ハイドンは生前、人生の壮年期の大半を過ごしたアイゼンシュタットに眠ることを希望していました。
ナポレオン戦争が続いていて、その願いは果たせなかったのですが、戦争の終わった11年後、1820年にエステルハージ家の尽力によって、アイゼンシュタットに改葬されることになりました。
ウィーンの古い墓のあった墓地は、都市計画のため1874年に埋葬が禁じられ、1926年にはハイドンの墓石以外は撤去され、「ハイドン公園」として今も残されています。
ハイドンの新しい墓は、アイゼンシュタットのベルク教会に設けられ、戦後の1954年にさらに大きく改築、改葬され、独立した霊廟となっており、今ではベルク教会も「ハイドン教会」と呼ばれています。
訪ねたことはありませんが、写真で見る限り、主君の侯爵たちをしのぐ、皇帝や英雄並みの立派なお墓のようです。
棺は、オラトリオ『四季』にちなんだ4つの彫像が囲まれているとのことです。
アイゼンシュタットは、まさにハイドンの第2の故郷なのです。
十女マリア・カロリーナの生涯(後編)
さて、女帝マリア・テレジアの娘たちの生涯を引き続き追っていきます。
今回は、十女マリア・カロリーナ(1752-1814)の後半生です。
マリア・テレジアは、自分の娘たちの中で、一番自分に似ている、と評していた優秀な皇女でした。
ところが、政治にまるで興味のない、暗愚なナポリ・シチリア王フェルディナンド4世(1759-1816)に嫁ぐことになってしまいました。
彼女はショックを受けますが、ダメな夫王を手なづけながら尻に敷くことにし、ナポリ・シチリア王国の政治的実権を握って、実質的な女王となります。
フェルディナンド4世は、ハプスブルク家から王位を奪ったブルボン家のスペイン王カルロス3世の息子でした。
ナポリ・シチリア王国をスペインの影響下から脱却させ、オーストリア寄りの国にしていくのが、母帝マリア・テレジアから与えられたマリア・カロリーナのミッションですが、彼女は確実にその使命を果たしていきます。
男女平等政策を実現!
まず、母帝にならって、王国の富国強兵を図り、士官学校を設立し、海軍の拡大と軍隊の再編を行いました。
また、彼女はふたりの兄、ヨーゼフ2世、レオポルト2世と同じく、進歩的な啓蒙思想を信奉していました。
王国内で男女平等を推進し、女性に男性と同じ教育を受ける機会を与え、報酬も性別で差をつけてはならないこととしました。
相続、財産、親権も男女平等とし、女性が結婚相手を選択する権利も保障したのです。
日本でも戦後になってようやく確立したような先進的な政策を、早くも実現したのです。
彼女が妹マリー・アントワネットの代わりにフランス王妃になっていたら、フランス革命は起こらなかったかもしれない…といわれるゆえんです。
そのフランス革命が勃発したとき、当初は彼女はその精神に理解を示していました。
それまで、自由、平等、博愛といった革命の理念を育んでいたフリーメイソンを支援し、ナポリには女性の加入できる支部(ロッジ)さえあったほどです。
革命が変えた運命
しかし、革命が激化し、最愛の妹、マリー・アントワネットが断頭台の露と消えるに及んで、彼女は、兄レオポルト2世とともに、フランスに敵対する道を選びました。
そして、英国との同盟を強化し、ナポリ駐在英国大使ウィリアム・ハミルトンと密に連携し、英国地中海艦隊を率いていたネルソン提督にも最大の便宜を図りました。
大使夫人エマ・ハミルトンとは、特に意気投合しますが、エマは後にネルソン提督の愛人になります。
ヨーロッパ諸国はフランス革命が自国に波及するのを恐れ、戦争を仕掛けるとともに、フランス内での反革命派、王党派を支援しました。
そのような中、地中海のフランスの軍港ツーロンが、王党派となり、革命政府に反旗を翻します。
英国海軍はそれを全面的に支援し、ツーロン港を封鎖しますが、フランス革命軍の陸からの攻撃を防がなければなりません。
当時、まだ艦長だったネルソンは、艦隊の特使としてハミルトン大使を通じ、マリア・カロリーナにナポリ軍の参戦を要請しました。
王妃は、エマからの助言もあり、派兵を決定します。
これで、ツーロン港は鉄壁の防御体制となり、強襲をかけてきたフランス革命軍は大損害を蒙ります。
しかし、情勢ににわかに変化が訪れます。
港を囲む山の裏側から、フランス革命軍の砲兵が、封鎖する英国艦隊に向けて、正確な砲撃を加えてきたのです。
これは、前任の司令官の負傷を受けて、新たに代役として少佐となった、無名の若者ナポレオン・ボナパルトの指揮によるものでした。
英国艦隊は撤退せざるを得ず、残されたナポリ軍はフランス革命軍によって皆殺しになってしまいました。
ナポレオンはツーロンで名声を得て、ここから出世の階段を登りはじめますが、マリア・カロリーナとネルソンにとって、彼は不俱戴天の敵となります。
英国最大の英雄と組んだ王妃
1798年、ナポレオンはエジプト遠征を計画し、ツーロン港に大艦隊と大部隊を集結させますが、ネルソン提督の英国艦隊に港を封鎖されていました。
しかし、嵐でネルソンの艦隊が退避している隙を衝いて出港します。
ネルソンはナポレオンの行き先も分からず、追跡に躍起となりますが、彼に補給港と情報を提供したのはマリア・カロリーナでした。
その結果、ネルソン提督は、ついにナイル河口アブキール湾に停泊していたフランス艦隊を発見し、これに大胆に襲い掛かり、撃滅します。
名高いナイルの海戦です。
ナポレオンはエジプトの陸戦では勝利したものの、故国に帰れなくなり、遠征は失敗に終わります。
ヨーロッパ中が勝利に歓喜し、ハイドンがその頃書いた勇壮なミサ曲は『ネルソン・ミサ』と呼ばれることになります。
マリア・カロリーナは、他国の軍人であるネルソンに領地を与え、ブロンテ公爵に叙します。
しかし、ナポリ軍は、マリア・カロリーナが再編したものの、やはり呑気な気風の南イタリア。
王が『どんなに立派な軍服を着せても、彼らが敵前逃亡するのを防ぐことはできない。』と嘆くほど、ヨーロッパ最弱軍。
敵を見たら逃げる有様です。
そのため、ナポレオン軍に対しては連戦連敗。
フランスに多額の賠償金を払って和を乞う羽目になり、それに勢い付いた共和派によって、ナポリで革命が起きてしまいます。
国民的英雄の汚点
王室一家は、危ういところでネルソン提督の艦隊に乗せられて、シチリア島に逃れます。
その後、英国の支援もあって革命は鎮圧され、国王一家はナポリに戻ることができましたが、革命派への報復は過酷を極めました。
中でも、海軍司令官だったカラッチョーロは、もともと王の側近だったのに革命に参加したため、マリア・カロリーナの憎悪が激しく、裁判も受けさせてもらえずに、また貴族にふさわしい銃殺刑にしてほしい、という懇願も却下され、ネルソンによって軍艦の帆桁で絞首されました。
これは、マリア・カロリーナの意を受けた愛人エマ・ハミルトンの言いなりになったとして、英国最大の国民的英雄ネルソンの汚点と言われています。
英雄と大作曲家との出会い
1800年、ネルソンは陸路、ハミルトン大使夫妻とともにナポリから英国に凱旋します。
夫妻と妻の愛人、という奇妙な3人組です。
ハミルトン大使はエマと結婚したときに既に老齢でしたから、妻と提督との関係は見て見ぬふりだったと言われています。
ウィーンまでは、実家に帰省する王妃マリア・カロリーナとも同道でした。
この4人は本当に仲良しだったのです。
その後、アイゼンシュタットに立ち寄り、エステルハージ侯爵から、ハンガリーの豪華な衣装に身を包んだ100人の長身擲弾兵部隊が食卓に伺候するという歓迎を受けます。
そしてハイドンにも面会し、エマ・ハミルトンはハイドンのカンタータ『ナクソス島のアリアンナ』を歌いました。
ネルソン提督はハイドンに自分の懐中時計を贈り、ハイドンは作曲用の万年筆をネルソンに贈ったということです。
息子に疎まれ、寂しい最後
マリア・カロリーナは、英国の英雄のスキャンダルもはらみながら、ナポレオンに立ち向かいましたが、ついに屈するときがきます。
1806年にナポリ王位はナポレオンに奪われ、その兄ジョゼフに与えられます。
フェルディナンドはシチリアだけの王となります。
マリア・カロリーナは、シチリアでも権力を握り続けますが、摂政となった王太子フランチェスコと仲違いし、1813年、息子によって実家ウィーンに追放されてしまいます。
息子ヨーゼフ2世と対立した晩年のマリア・テレジアとも似ています。
母帝はさすがに追放はされませんでしたが。
ウィーンに来て翌年、1814年にウィーン市内のヘッツェンドルフ城で、倒れているところを侍女に発見されました。
誰にも看取られず、62年の生涯を閉じたのです。
先進的、開明的、自由主義的な指導者も多かったハプスブルク家でしたが、本来であれば保守の本家本元の家柄。
ふたりの兄同様、彼女もせっかく進歩的な思想を持っていたのに、王家の立場上、反革命にならざるを得ませんでした。
ハプスブルク家のこの悲劇は、19世紀になっても続くのです。
それでは、ハイドンのエステルハージ侯爵家時代のシンフォニーを聴いていきます。
Joseph Haydn:Symphony no.41 in C major, Hob.I:41
演奏:トレヴァー・ピノック指揮 イングリッシュ・コンサート
第1楽章 アレグロ・コン・スピリート
トゥッティの強奏和音に、ゆったりと歌うような第1主題が続きます。その後、第2主題はトレモロの推進力に乗って、元気いっぱいに走っていきます。どこか落ち着いた雰囲気もあり、これまでのシンフォニーと比べて、ハイドンが円熟味を増しているのが分かります。この時期のシンフォニーは、劇音楽にかかわる序曲などに由来し、転用したりし立て直したりしたものも多いのですが、この曲ははじめからシンフォニーとして作曲されたと考えられる構成力をもっています。展開部が始まったところで、しばらくして第1主題が主音で奏され、あれ?もう再現部?と思いますが、それは何となく引き延ばされ、さらなる展開に突入しています。これがハイドンの有名な「偽再現」です。この悪戯っぽい、冗談のような仕掛けが、実は芸術的効果を高めているのですから、まさに名人芸といえます。
第2楽章 ウン・ポコ・アンダンテ
弱音器をつけたヴァイオリンに乗って、フルートが不思議なソロを奏でます。目立ちませんが、バスの低弦も実はテーマを静かにつぶやいています。オーボエも控えめにテーマをなぞります。ホルンが緩徐楽章で入るのもこのシンフォニーが初めてですが、これは和声の低音を補強するだけです。
典雅な、典型的な宮廷風メヌエットです。トランペットも加わって華やかさを演出します。レントラー風のトリオでは、オーボエ2本とホルン2本が活躍し、野外的な雰囲気となります。
第4楽章 フィナーレ:プレスト
3連音の細かい刻みが実に楽しく、ウィットに満ちています。4分の2拍子ですが、8分の6拍子のように聞こえます。バロック組曲の終わりにくるジーグのように、速くて盛り上げるフィナーレです。トランペットとティンパニが活躍する曲ですが、自筆譜は残っておらず、古い筆写譜には同楽器のパートはなく、当時のエステルハージ家にはトランペット奏者は雇われていないのです。しかし、第2楽章で活躍するフルート奏者もこの時期は雇われておらず、単に雇用状況だけでは断定できません。トランペットは常に必要な楽器ではないので、祝祭的な機会だけ臨時に雇われるのも常でした。この曲はほとんどトランペットつきで演奏されています。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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