
ハプスブルク家の紋章
ナポレオンへの道のり
2020年にベートーヴェンの生誕250周年を迎えてから、2年間ほど、彼の若い頃の生涯を追い、青春時代の熱い音楽に耳を傾けてきました。
いったんの区切りは、ナポレオンに捧げるべく作曲された交響曲 第3番 変ホ長調 Op.55《エロイカ(英雄)》。
作曲された年は1804年。
この曲は、まさに〝音楽の革命〟でした。
ちょうど時代は18世紀から19世紀に移ったところでしたが、ヨーロッパ社会も、フランス革命の波及によって、貴族が主役の時代から、現代につながる、市民が主役の時代に移りつつありました。
芸術も社会の動き、時代の流れと密接に関わっていますので、この曲は、まさに画期的な作品だったのです。
そして、この曲が捧げられるはずだったナポレオンは、フランス革命の混乱を収め、その理念をヨーロッパ全体、そして世界に広げた英雄です。
その意味でも、このシンフォニーは象徴的な意味を持たされています。
しかし、時間の針を進めたのは、ナポレオンだけではありません。
18世紀は、まさに〝英雄の世紀〟でした。
日本の戦国時代や幕末維新のように、時代の変わり目には、ヒーロー、ヒロインたちが出現して、その役割を果たしていきます。
一方、古い時代を守ろうとした人たちの中にも、英雄はいるのです。
ここで、いったん時間を巻き戻し、古い時代からどのように新しい時代に移っていったのか、どんな英雄たちが活躍したのか、そして、それに音楽がどのように関わっていたのか、を綴っていきたいと思います。
ウィーンはなぜ〝音楽の都〟となったのか
最初の舞台は、オーストリアのウィーン。
ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンらが活躍した、言わずと知れた〝音楽の都〟です。
しかし、彼らの活躍がウィーンを音楽の都にしたのではなく、もともと音楽の都だったから、彼らは集まってきたのです。
なぜ、ウィーンは音楽の都となったのか。
それは、その統治者、「ハプスブルク家」の皇帝たちが、音楽好きだったからにほかなりません。
そこから、まずは〝古い時代〟をひも解いていきます。

グントラム金満公。確かに金持ちそう…
欧州に王侯貴族は多々あれど、ハプスブルク家は、随一の名門とされています。
しかし、その源流はあまりパッとしません。
記録で一番さかのぼれるご先祖は、フランス・ドイツの狭間にあるアルザスにいた貴族、グントラム金満公です。
973年に亡くなったということですから、日本では平安時代、藤原道長が生まれた頃です。
欧州一の名家の始まりがそのあたりですから、日本の皇室が世界史上いかに奇跡的な王家であるかが分かります。
ヨーロッパでは、東フランク王だったオットー大帝が、後にハプスブルク家が独占することになる神聖ローマ帝国の初代皇帝となった時代です。
金満公、つまり金持ち、あるいは領地持ち、というあだ名がつくほどの人ですから、貴族のなかでだんだんと頭角を現してきたようです。
発祥の城

今も残るハプスブルク城(スイス)
その孫がスイス北部に築いた山城が、「大鷹の城」を意味するハビヒツブルク城(ハプスブルク城)で、これが家名の由来となりました。
弱小貴族が皇帝に選ばれたわけ
田舎の豪族、といった感じだったハプスブルク家が、歴史の表舞台に出たのは1273年。
皇帝が、権力闘争の上しばらくの間不在となった大空位時代の末、力の強い者が帝位に即くと勢力のバランスを欠くということで、弱小貴族だったハプスブルグ家のルドルフ1世(1218-1291)が神聖ローマ皇帝に選ばれたのです。
しかし、ルドルフ1世は有能な人物で、ボヘミア王を破り、勢力をオーストリアまで拡大しました。
人徳もあったと言われています。
そして本拠地をウィーンに移したのです。

ルドルフ1世
ルドルフ1世の死後、いったん帝位はハプスブルク家を離れますが、15世紀には取り戻し、ほぼ世襲化に成功します。
16世紀に入ると、名君マクシミリアン1世(1459-1519)が、ブルゴーニュ公の一人娘、マリー・ド・ブルゴーニュとの結婚によって、豊かなネーデルラント地方を手に入れます。
ハプスブルク家の勢力拡大は、〝中世最後の騎士〟と讃えられたこの皇帝からはじまります。

マクシミリアン1世とマリー・ド・ブルゴーニュとの結婚
さらに、息子のフィリップ美公が、スペイン女王フアナと結婚したことにより、スペイン、ナポリ、シチリアも手中に収めます。
婚姻関係によって領土を拡大したことから、『戦争は他国に任せておけ。幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ』という有名な言葉が生まれました。
太陽の沈まぬ帝国

カール5世
特にスペインは海外領土をもっていましたから、フィリップ美公とフアナの息子カール5世(1500-1558)の時代には、ハプスブルク家の領土は「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれました。
あまりに領土が広くなり過ぎたので、カール5世のあとは、長男フェリペ2世のスペイン系ハプスブルク家と、弟フェルディナント1世のオーストリア系ハプスブルク家に別れ、帝位はオーストリア系が引き継いでいくことになります。

フェルディナンド1世
その後、ドイツは三十年戦争の舞台となり、国土は荒廃、神聖ローマ帝国はだんだんと形骸化してゆきます。
ハプスブルク家も、ドイツよりもオーストリア、ボヘミア、ハンガリーの支配に軸足が移っていきます。
最初の音楽好き皇帝登場!

フェルディナント3世
戦争に明け暮れる中、フェルディナント3世(1608-1657)が最初の音楽好きな皇帝として登場します。
音楽家を保護する一方、自らも作曲を学び、ミサ曲や讃美歌を作曲したのです。
保護した作曲家の中でも有名なのが、ヨハン・ヤーコプ・フローベルガー(1616-1667)です。
シュトゥットガルト生まれで、ウィーンの宮廷オルガニストとなり、フェルディナント3世に可愛がられました。
そして、信頼され、外交官としてヨーロッパ各地に派遣され、ブリュッセル、ドレスデン、アントワープ、ロンドン、パリにも訪れ、各国の音楽家たちに影響を与えました。
バッハに先行する重要な鍵盤楽曲作曲家とされ、その曲は後世永く演奏され、今でもチェンバロ演奏家のレパートリーに入っています。
バッハの平均律クラヴィーア曲集にも、フローベルガー由来とされるモチーフがあります。
長年仕えた皇帝の死を悼んだ哀歌を聴きます。

ヨハン・ヤーコプ・フローベルガー
フローベルガー:皇帝フェルディナント3世陛下の痛切の極みなる死に捧げる哀歌
Johann Jakob Froberger:Lamentation faite sur la mort très douloureuse de Sa Majesté Impériale, Ferdinand le troisième
ハープ演奏と編曲:マーシャル・マクガイア
1657年、フェルディナント3世は48歳で薨去しました。三十年戦争末期、皇帝自身各地を転戦し、時に勝利も得ましたが、戦局の打開には至らず、プロテスタント(カルヴァン派)の容認、大諸侯(領邦)の主権承認、オランダとスイスの独立承認と、大幅な譲歩と妥協を認めた講和条約、ウェストファリア条約を締結して、ドイツ人の2割が死んだとされる悲惨な戦争に終止符を打ちました。この条約は〝神聖ローマ帝国の死亡診断書〟といわれますが、自分が譲歩することによって平和をもたらした偉大な皇帝だったともいえます。その主君の死に捧げた曲です。暗くはなく、しっとりと落ち着いていて、心に沁みる音色です。生前の皇帝の思い出を懐かしんでいるのでしょうか、それとも激動の人生を生き抜いた皇帝の死後の平安を願っているのでしょうか。最後、上昇音階で終わるのは皇帝の昇天を表しているとされます。
フローベルガー:ローマ王フェルディナンド4世の悲しき死に捧げる哀歌
Johann Jakob Froberger:Lamento sopra la dolorosa perdita della Real Maestà di Ferdinando IV Rè de Romani
チェンバロ:アンドレアス・シュタイアー
皇帝の死に先立ち、皇太子だったローマ王フェルディナンド4世(1633-1654)が、皇帝に即位することなく、20歳の若さで亡くなりました。フローベルガーは、この時も哀歌を作っています。こちらも自由なスタイルで哀切な旋律を奏でています。そして最後は天国の階段です。
フローベルガー:リチェルカーレ 第4番 ハ長調 FbWV 404
Johann Jakob Froberger:Ricercare Quarto in C major, FbWV 404
オルガン:ダニエレ・ボッカチョ
この曲のテーマは、バッハの平均律クラヴィーア曲集 第2集の第9曲フーガに引用されました。大バッハにこれまでの各国の音楽が流れ込んでいる例のひとつです。
バッハの曲はこちら。
動画は、ジャネット・ソレル弾く「ブランクロシェ氏に捧げる、パリにて書いたトンボー」です。パリで出会ったリュート奏者のブランクロシェ氏は、不幸にして階段から落ちて亡くなりました。それを悼んで、皇帝たちに捧げた階段を登るモチーフが、ここでは落ちる音型になっています。
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今回もお読みいただき、ありがとうございました。


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