ハイドン、ついに楽長となる
1756年、24歳のハイドンは、フュールンベルク男爵との雇用契約を終えて、男爵の領地ヴァンツィアールからウィーンに戻ってきました。
再びフリーになったわけですが、すでに一人前の音楽家として認められていましたので、スポット雇用や有期雇用の仕事には事欠かず、忙しい毎日でした。
ウィーン郊外のレオポルトシュタットのパルムヘルツィゲ・ブリューダー教会ではヴァイオリンの首席奏者を務め、年額60グルデンの報酬を受け取りました。
日曜、祝日の朝8時には教会で演奏したあと、10時にはハウクヴィッツ伯爵夫人の礼拝堂でオルガンを弾き、11時にはシュテファン大聖堂の礼拝に歌手として加わる、といった具合。
ハウクヴィッツ伯爵は、マリア・テレジアの改革を担った大臣のひとりで、以前もご紹介しました。
しかし、このような〝非正規雇用〟から、ついに〝正社員〟になる日がやってきました。
1759年、かつての雇用主フュールンベルク男爵からの推挙によって、ボヘミア貴族のモルツィン伯爵に楽長として召し抱えられたのです。
年俸は200フローリン、ハイドン27歳のときでした。
〝芸術の恩人〟モルツィン伯爵
モルツィン伯爵家は、1636年に貴族に列せられたボヘミアの名門でした。
当主フェルディナント・マクシミリアン・フランツ・フォン・モルツィン伯爵は、皇帝侍従と枢密顧問官を務め、モラヴィア(メーレン)地方の裁判所判事も兼務していました。
居城はルカヴィーツェにあり、そのほか周囲のメルクリン、テミンを所領としていた領主でした。
当主のフェルディナント伯爵は、〝芸術の恩人〟〝音楽の理解者・保護者〟と讃えられ、その宮殿はブラドランカ川に沿い、翼を広げたような瀟洒な建築で、美しい礼拝堂、公園、動物園がありました。
伯爵は、ほかのボヘミア貴族たちと、当時の優れた対位法家フランツ・ハーベルマンについて音楽の基礎理論を学ぶほどの音楽好きで、自前の宮廷楽団をもっていました。
楽団の管理は、跡継ぎのカルル・ヨーゼフ・フランツに任されていましたが、彼も熱烈な芸術愛好家でした。
楽団は、もともと管楽器中心の「ハルモニームジーク」で、夕べのセレナーデや、食事中のBGM、ターフェルムジーク(食卓の音楽)を演奏していましたが、伯爵一家の音楽熱が高まるにつれ、もっと大規模な管弦楽曲を演奏させたい、ということになり、指揮者と作曲家としてハイドンに白羽の矢が立ったのでした。
ハイドンが初めて指揮したオケとは
どの程度の規模のオーケストラだったか、はっきりした記録は残っていませんが、当時の一般的な貴族や教会の楽団規模や、ハイドンの楽譜などから学者が推測するところによると、ヴァイオリン6、ヴィオラ1、チェロ1、オーボエ2、ホルン2、ファゴット2ではないか、ということです。
ハイドンの初期のシンフォニーでは、チェロの特性を生かしたパートが見当たらないため、もしかするとチェロの代わりをファゴットが務めたかもしれません。
だいたい、12名から16名の楽員と考えられています。
これまで聴いてきたハイドンの初期のシンフォニーの多くは、モルツィン伯爵のオーケストラのために作られたものですが、作曲年代の確定は困難を極めています。
シンフォニーの番号が必ずしも作曲順ではなく、新たな発見によって年代の修正はこれからも行われることでしょう。
いずれにせよ、ハイドンが〝交響曲の父〟と呼ばれるようになったのは、若くしてひとつのオーケストラを任され、自由に様々な斬新な試み、実験ができる環境を得たことが大きいのです。
少年時代、青年時代と、衣食住にも事欠いた厳しい修業時代を経て、ついにハイドンは安定した生活を手にすることができたのです。
次回、生活の安定を受け、いよいよハイドンは身を固めます。
四女マリア・クリスティーナの生涯
さて、女帝マリア・テレジアの娘たちの生涯を引き続き追っていきます。
長女は夭折し、前回は次女マリア・アンナ(1738-1789)を取り上げました。
彼女は身体障がいがあったため、母にも愛されず、兄弟姉妹からも疎まれ、結婚せず、修道院で生涯を終えましたが、芸術・文化の保護、福祉に一生を捧げました。
三女マリア・カロリーナは、1740年に生まれましたが、男子を待望していた両親と国中をがっかりさせました。
そして、それに抗議するかのように、1歳の誕生日を過ぎた頃、突然ひきつけを起こして亡くなってしまいました。
マリア・テレジアは、後に生まれるふたりの娘に同じ「マリア・カロリーナ」の名を与えています。
三女が亡くなって2ヵ月後、マリア・テレジアはついに待望の男子を産みます。
後の皇帝で、モーツァルトとのからみで名高い、長男ヨーゼフ2世(1741-1790)です。
二代続けて男子がなければ、ハプスブルク家は存続が危ぶまれていただけに、この生誕は歴史を変えました。
マリア・テレジアの女子相続に異を唱え、攻め込んできた諸国に対し、彼女は幼いヨーゼフ王子を連れてハンガリー議会に乗り込み、ハンガリーの支持を獲得して四面楚歌を脱することに成功したエピソードは以前取り上げました。
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とはいえ、当時の幼児の死亡率の高さから、安心はできません。
さらに男子を得るべく、マリア・テレジアと夫君フランツ・シュテファンは引き続き子作りに励みますが、次の子は女児でした。
しかしこの子は、マリア・テレジアと同じ誕生日に生まれたため、母から非常に愛されました。
これが四女マリア・クリスティーナ(1742-1798)で、「ミミ」の愛称で呼ばれました。
ママに取り入るのがうまい、利発な子
ミミはとても利発で、勉強もでき、絵画、音楽でも非凡な才能を発揮した優等生でした。
長じては、ドイツ語のほか、フランス語、イタリア語も完璧に話せたそうです。
母に取り入るものうまく、どうすれば母が喜ぶのか、よく心得ていました。
子供たちには厳しく接していたマリア・テレジアでしたが、彼女を叱ったことは一度もなかったそうです。
そのため、他の兄弟姉妹からはとても嫌われ、疎んじられてしまいました。
彼女は母の寵愛をいいことに、自分たちの告げ口をしている、と思われていたのです。
こういう要領の良い子って、いますね…。
特に、兄のヨーゼフ2世からは憎まれていたので、マリア・テレジアは自分の死後、仕返しをされないように、彼女を守る遺言まで残したのです。
兄の妻で、天使のような絶世の美女とうたわれたマリア・イザベラ・フォン・ブルボン=パルマからは、友情を超えた、恋愛的な熱烈さで慕われ、これも兄の不興を買っていました。
ただひとり、恋愛結婚を許される!
さて、ミミは、ウィーンに留学に来ていたザクセンの公子、アルベルト・カジミール(1738-1822)と恋に落ちてしまいました。
アルベルトは、大バッハが主君と仰いだザクセン選帝侯兼ポーランド国王アウグスト3世の6男でした。
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母は、ハプスブルク家の皇帝ヨーゼフ1世の皇女でしたから、血筋としては申し分ありませんでしたが、6男では所領も財産も相続できず、自分の才覚で軍人か政治家として生きていくしかありませんでした。
ハプスブルク家の政略結婚政策では、ほとんど意味のない縁組みです。
彼女には別な縁談が持ち上がりましたが、母マリア・テレジアに泣いてすがりつき、アルベルトと結婚させてほしい、と頼みました。
政治のためなら子にも容赦のない女帝も、最愛の娘の懇願には逆らえませんでした。
しかし、父のフランツ・シュテファン帝は大反対。
我慢して政略結婚させられる他の娘たちにも示しがつきません。
そうこうするうち、父帝は1765年に急逝。
傷心のマリア・テレジアは、さらに娘を悲しませたくないという気持ちで、翌年、ミミの結婚を許します。
女帝の娘でただひとり、恋愛結婚が許されたのです。
女帝自身も、恋愛結婚でしたが。
そして、何の所領もなく、ほとんど無一文の夫アルベルト・カジミールを、プロイセンに奪われたシュレージエン(シレジア)のうち、辛うじてハプスブルク家に残った所領テシェン(チェシン)公に封じ、ミミと共同統治させることにしました。
娘に持たせた持参金も莫大。
さらに、女帝の義弟カール・フォン・ロートリンゲンが、七年戦争での総司令官を戦下手ゆえに解任され、代わりに任じられていたオーストリア領ネーデルラント(現ベルギー)総督の後任にも内定させました。
まさに、空前の逆玉の輿。
兄弟姉妹からの激しい嫉妬
母帝の、あまりといえばあまりの依怙贔屓に、ヨーゼフ2世はじめ、兄弟姉妹たちは怒り心頭。
結婚後はほとんど音信不通になります。
フランスに嫁いだ末娘、マリア・アントニア(マリー・アントワネット)も、この姉が大っ嫌いで、後に旅行でヴェルサイユ宮殿を訪ねてきたときも、特別扱いはせず、一般客として扱いました。
マリー・アントワネットの〝私邸〟プチ・トリアノンに招いてほしいという希望も、すげなく却下したのです。
姉の方も、のちに妹がギロチンの露と消えたという知らせを受けたときも、特に感情が動いた様子もなく、素っ気ない反応だったということです。
ミミ夫妻には、幼くして亡くなった子のほか、子には恵まれませんでしたが、兄弟姉妹たちからは、天罰だとささやかれていました。
一家団欒の微笑ましい絵画がたくさん残っているマリア・テレジア一家の裏には、愛憎が渦巻いていたのです。
夫を遺して56歳で世を去りましたが、最後まで夫からは愛され、墓石には夫によって「最高の妻」と刻まれました。
〝逆玉〟のアルベルトは、政治家としても軍人としても何の才能もありませんでしたが、絵画の鑑賞眼は素晴らしく、赴任地ネーデルラントのフランドル絵画を多く譲り受け、ウィーンに送り、このコレクションは現在は「アルベルティーナ」という美術館になっています。
ハプスブルク家の芸術に対する貢献は、まさに計り知れません。
それでは、ハイドンの若い頃のシンフォニーを聴きましょう。
モルツィン伯爵家から、エステルハージ侯爵家に移った頃とされている作品です。
Joseph Haydn:Symphony no.28 in A major, Hob.I:28
演奏:ジョヴァンニ・アントニーニ指揮 イル・ジャルディーノ・アルモニコ
ハイドンが〝交響曲の父〟と呼ばれたのには、いくつかの理由がありますが、その中に「少ない素材を様々に展開した」というものがあります。当時の音楽では、たくさんのメロディー素材を次から次へと繰り出し、耳障りよくしたものが一般的でしたが、ハイドンは少ない素材を様々に加工し、変化させていきました。そこに、「論理」「物語」が生じ、シンフォニーは文学的な「語り口」に発展していったのです。
このシンフォニーは、そんな若きハイドンの充実した音楽のひとつです。この曲のテーマは、単なる8分音符と3つの8分音符の同音連打です。それが、変幻自在に姿を変えて、ひとつの物語になっています。これは、遥か後年、ベートーヴェンが第5シンフォニー《運命》で試みたことと、同じなのです。
弦楽だけの緩徐楽章です。ヴァイオリン2部は弱音器をつけています。静謐な世界の中で、豊かなファンタジーが溢れています。
実に大胆で豪快なメヌエット主部で、まるで農民のダンスのようです。ヴァイオリンのとなり同士の弦(E線の開放弦とA線)を移動して、同音を交互に弾く技法、バリオラージュが利用されています。それと対照的に、短いトリオはイ短調のエキゾチックで繊細な雰囲気で、貴族的な気品に満ちています。この対比の妙が印象的です。
第4楽章 プレスト・アッサイ
拍子は異なりますが、第1楽章と似た同音連打も出てきて、統一感をもたせようというハイドンの構想がうかがえます。
動画は、同じくジョヴァンニ・アントニーニ指揮のイル・ジャルディーノ・アルモニコです。
www.youtube.com
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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