
神聖ローマ皇帝レオポルト1世
ウィーンがなぜ音楽の都になったのか。
統治者であるハプスブルク家の皇帝たちの音楽生活をたどっています。
最初の音楽好き皇帝、フェルディナント3世(1608-1657)が世を去った後、次男のレオポルト1世(1640-1705)が即位します。
長男で皇太子だったローマ王フェルディナント4世が、即位前に早世してしまったため、次男が後を継ぐことになったのです。
18歳で即位した皇帝は、1666年、26歳のときに、スペイン王女マルガリータ・テレサと結婚します。
その結婚式は、パレードあり、花火大会ありの壮麗なものでしたが、メインイベントは、オペラの上演でした。
オペラは1600年にイタリア・フィレンツェで誕生したとされていますが、アルプスを越えてドイツでも上演されるようになり、瞬く間に人気を博しました。
そして、イタリア人音楽家がたくさんウィーンにやってきました。
そのひとり、アントニオ・チェスティは、ウィーン宮廷楽団の副楽長に任命され、結婚式用のオペラを準備しましたが、これは大作で結婚式には間に合わず、2年も伸びて、皇后マルガリータの誕生日に上演されました。
曲目は『金のリンゴ(イル・ポモドーロ Il Pomo d'oro)』で、上演時間は9時間、10万グルデン(金貨10万枚)という莫大な費用が惜しげもなく費やされ、バロック時代最大のイベントとして後世まで語り継がれています。
ちなみに、黄金のリンゴを表すイタリア語〝ポモドーロ〟は、後にイタリア人が大好きになる野菜、トマトを意味する言葉になります。

チェスティのオペラ『金のリンゴ』の舞台
おしどり夫婦、一緒にオペラの舞台に立つ!
レオポルト1世も、皇后マルガリータも、オペラが大好きになり、ふたりで舞台に上がり、主人公を演じるほどでした。

オペラの舞台衣装を着たレオポルト1世(エイシス役)

オペラの舞台衣装を着た皇后マルガリータ(ガラテア役)
この皇后マルガリータ・テレサは、スペイン・ハプスブルク家、カルロス4世の王女でした。
少女時代から、宮廷画家ベラスケスによって、『ラス・メニーナス』をはじめとする肖像が描かれたことでも有名です。

ベラスケス『ラス・メニーナス』

ベラスケス『マルガリータ王女』
レオポルト1世は、もともと次男で帝位を継ぐ立場ではなかったため、高位聖職者になるための教育を受けていました。
そのため、信仰に篤くなった一方、芸術、文化への造詣が深く、特に才能を示したのが音楽の作曲でした。
イタリア人作曲家が上演するオペラの中には、皇帝が作曲した曲が数曲は紛れ込んでいました。
また、宗教音楽を多く作り、自らバロック芸術の担い手であったことから、後世〝バロック大帝〟と讃えられたのです。
近親婚の悲劇

スペイン王カルロス2世
しかし、平和と芸術を愛した文人皇帝には皮肉なことに、その生涯は戦争の連続でした。
ハプスブルク家は、結婚によって領土を拡げてきましたが、守勢に回ると、その広大な領土を守るために、逆に、他国の王族との結婚をなるべく避けるようになりました。
そのため、分かれてまもないスペイン系ハプスブルク家と、オーストリア系ハプスブルク家の間で近親婚が繰り返されることになります。
マルガリータ皇后にとって夫レオポルト1世は母方の伯父にあたり、皇后の両親も、伯父と姪という関係でした。
このような領土を守るための近親婚は、逆にハプスブルク家自身を滅ぼしていくことになります。
下顎が突き出た〝ハプスブルクの顎〟や、白い肌に静脈が浮き上がる〝ハプスブルクの神聖なる青い血〟のような、特徴的な遺伝が見られるようになりました。
マルガリータ皇后の弟で、スペイン・ハプスブルク家の唯一の跡取り男子となった、スペイン王カルロス2世は、その異常な近親婚の犠牲者で、知能や身体に重度の障害を負って生まれました。
幼少の頃から、衣服をつけた獣のようだと言われ、まともな教育を施すのも不可能でした。
成人してからも、言語は不明瞭で、顎の噛み合わせが悪いため常によだれをたらしていました。
結婚はしたものの、世継ぎの誕生は望むべくもなく、早世した王妃の亡骸を墓から掘り出させて一緒に生活するなどの奇行を繰り返しました。
スペイン・ハプスブルク家の断絶が避けられないものとなったことから、スペイン王位の継承をめぐって、ヨーロッパ諸国を巻き込む大戦争となります。
戦争の合間に作曲
スペインは海外領土を持っていますから、これをオーストリア系ハプスブルク家が継承するとなると、カール5世時代の〝太陽の沈まぬ帝国〟が再来することになり、間に挟まれるフランスとしては、絶対に受け入れられません。
フランスのルイ14世は血縁から孫のアンジュー公フィリップ(のちのスペイン王フェリペ5世)を後継の王に推し、レオポルト1世も、さすがに自分が継ぐのは受け入れられないと考え、スペインとオーストリアが合併しないことを条件に次男カール(のちの神聖ローマ皇帝カール6世)を推しました。
どちらも譲るわけにはいかず、フランス VS オーストリア・英国・オランダの大戦争、スペイン継承戦争が勃発します。
これは、レオポルト1世の生前には決着がつかず、次代で持ち越しとなります。
一方、ハンガリーをめぐってのオスマン・トルコ帝国との戦争にも苦しみました。
1683年にはついにトルコ軍によって帝都ウィーンが包囲されます。(第2回ウィーン包囲)
しかし、ポーランド王ヤン3世ソビエスキや、ロレーヌ公シャルル5世らの来援により、撃退に成功します。
のみならず、さらにトルコに反撃し、名将オイゲン公の活躍もあり、大トルコ戦争でハンガリー支配を固めることができました。
結果的には、レオポルト1世はハプスブルク家を再び覇権国家に導くことに成功したのです。
第2回ウィーン包囲が、トルコ行進曲やコーヒーなど、ヨーロッパ文化にトルコブームを引き起こしたことは以前の記事に書きました。
www.classic-suganne.com
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それでは、国が戦争に明け暮れる中、宮廷での華やかな行事を楽しむために、皇帝自ら作曲した、舞踏音楽(バレエ音楽)を聴きましょう。
皇帝にとって、この上ないストレス解消法だったのかもしれません。
Kaiser Leopold Ⅰ:Suite aus den Balletti
ワーナー・ハクル指揮ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団ブラス・アンサンブルWerner Hackl & The Brass Ensemble Of The Tonkuenstler Orchestra Lower Austria
第1曲 イントラーダ
バレット、すなわちバレエ音楽ということで、宮廷舞踏会用の舞曲を集めた組曲です。組曲の構成は、いくつかのテンポの違う舞曲を詰め合わせにしたもので、バッハやヘンデルのものでお馴染みですが、このような形に整えたのは、先帝に仕えたフローベルガーとされています。
第1曲は前奏曲で、屈託のない、大らかさが魅力です。ハプスブルク家が代々音楽を保護したのは、威光を示すためとされていますが、皇帝自身が作曲したこの調べを聴くと、音楽そのものを愛し、心から楽しんでいたと感じます。レオポルト1世は、各楽器の声部が、同じ旋律を模倣しながら呼びかけ合う模倣対位法を好み、その技法に通じていたと伝わっています。
宮廷舞曲の大本命、メヌエットです。典雅な響きの中に優しさがあふれています。各声部の動きを追うと、非常に立体的に作られているのが分かります。トリオはまだありません。
フランス起源の舞曲です。とはいえ、ライバルであるフランス太陽王ルイ14世への対抗心を曲に盛り込むはずはなく、速いテンポで生き生きとした一幕になっています。
一転、ゆっくりしたテンポの優艶なサラバンドです。バッハやラモーも曲でも陰影が差しますが、ここでもどこか哀愁を秘めています。
第5曲 トレツァ
終曲は、バロックの定番ではジーグですが、この時期にはまだ確定はしていません。しかし、ジーグ風の楽しく明るい曲で締めくくられています。
戦争続きの治世の中、ウィーンの宮廷では、皇帝自身が作曲した、こんな平和な音楽が響いていたのには、驚くほかありません。
音楽好きのハプスブルク家の面目躍如といったところです。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。


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