息子を皇帝にするための秘策
1763年、オーストリア女帝マリア・テレジアが、プロイセン王フリードリヒ2世と死闘を繰り広げた七年戦争が終結します。
マリア・テレジアは、ついに、プロイセンに奪われたシュレージエン(シレジア)の奪回は成りませんでしたが、一応、久しぶりにヨーロッパに平和が訪れました。
彼女は、この機会に、ハプスブルク家の帝位継承を万全にしておこうと、手を打ちます。
それは、長男ヨーゼフ2世の「ローマ王」戴冠でした。
神聖ローマ皇帝位には、夫のフランツ1世が即いており、まだ存命です。
しかし、皇帝選挙権を持つ選帝侯たちには、宿敵プロイセン王も含まれており、皇帝崩御の時の情勢によっては、すんなり息子に継がせられる保証はありません。
〝選帝侯〟といいますが、実際には、彼らがもっていたのは、実質的にはドイツ王である「ローマ王」の選定権でした。
諸侯たちによってローマ王に選定された者が、ローマでローマ教皇から戴冠を受けてはじめて、「皇帝」になれるのです。
そのため、ドイツ王は、即位のたびにイタリアに遠征しなければならず、国内の統治がおろそかになり、ドイツとイタリア両国内の分裂につながりました。
16世紀はじめ、ハプスブルク家のマクシミリアン1世は、その力を背景に、ローマ教皇の戴冠を省略して皇帝を名乗ることに成功しました。
それ以来、ローマでの戴冠はなくなり、ローマ王に選定された者が自動的に皇帝になる慣例となりました。
マリア・テレジアは、この仕組みに目を付け、父帝存命のうちに、息子ヨーゼフを先に「ローマ王」に戴冠させてしまうことにしたのです。
そうすれば、父が亡くなっても、選定の手続きなしに、自動的に息子が皇帝になれます。
諸国は平和条約を結んだばかりでしたので、波風を立てることはできず、女帝の読み通り、9人の選帝侯は全会一致でヨーゼフをローマ王に選定しました。
そして、1764年3月、フランクフルトでローマ王の戴冠式を挙行したのです。
晴れの戴冠式にはマリア・テレジアは出席せず、夫帝に花を持たせました。
フランクフルト市長の孫に生まれたゲーテは、若い頃にこの戴冠式に参加し、皇帝父子の様子を次のように記しています。
最後に、皇帝と王のお二方も昇っておいでになった。父子は、すっかり同じ装束をしておられた。真珠や宝石をみごとにちりばめた。真紅の絹、その帝衣、それから帝冠、帝笏が目を奪ったが、皇帝はこうした衣装をおつけになっても、まことに闊達に歩をおはこびになり、その誠実と威容とを兼備された玉顔は、見る人をして皇帝であると同時に人の子の父であることを感じさせた。
それにひきかえ若年の王は、おそろしくゆるやかな衣装をまとって、ひきずるようにして歩かれたが、それはまるで仮装行列中の人物のようで、ご自身でもときおり父帝のほうを見やっては、微笑を禁じ得ないといった様子だった。*1
まさに大詩人ならではの、リアルな描写です。
さて、ハイドンの主君、エステルハージ・ニコラウス・ヨーゼフ侯爵は、ハプスブルク家第一の忠臣として、この戴冠式に出席しました。
これは、エステルハージ家の君主として、はじめての国外旅行でした。
戴冠式に先立って、侯爵はマリア・テレジアの特使としてパリに赴き、ヴェルサイユ宮殿でルイ15世に謁見しました。
王位継承に際して、同盟国フランスに仁義を切るという大役を仰せつかったのです。
侯爵は、太陽王ルイ14世の、絶対主義の遺産である宮殿を日夜飽かず眺め、感歎し、自分も及ばずながら同じような豪奢な宮殿を立てたい、という志を抱きました。
彼は帰国するや、自分が襲爵前に住んでいた、ノイジードル湖畔の狩の館を、自らのヴェルサイユ宮殿にするべく、建設の命令を下しました。
ここは泥土に覆われた湿地でしたが、本家のヴェルサイユにならって、自然の大改造を行うことにしたのです。
費用は1,300万フローリンという、国家予算の何年分かという莫大なものでした。
主要部分は早くも1766年にでき、侯爵は夏の間に住み始めました。
建物がまだあまり無いのに滞在が長く、単身赴任を余儀なくされた宮廷楽団員のためにハイドンは『告別』を書いたのは先述しました。
1768年にはオペラハウスができ、ハイドンの作品が演奏されました。
庭園や付属の建物も含めて、全体が完成したのは1784年。
完成の年、この宮殿の威容を伝えるパンフレット『ハンガリー王国のエステルハージ侯爵の城の記述』が発行されました。
作者は宮殿の図書館長と言われています。
そこから、この宮殿の素晴らしさを引用します。
この城は、イタリア様式で建てられ、屋根は外から見えず、美しく仕上げられた回廊がまるくめぐっている。
もっとも価値のあるのは、侯爵の二つの部屋である。その一つには黒い漆の上に金色の花と風景を描いた10枚の日本の羽目板が飾られている。その一枚一枚が、1000フローリン以上もするものである。椅子や長椅子には金色の織物の覆いが飾られている。このほか、いくつかの非常に高価な飾り棚と、フルートを奏でる青銅の置時計がある。
二番目の部屋は金の装飾品で豊かに飾られ、時を打つごとに揺れ動いて心地よい旋律をさえずるカナリヤを冠した金箔の時計と、腰をおろすとフルートのソロを奏する肘掛け椅子とがある。シャンデリアは技巧を凝らした水晶で作られている。
図書室には7500冊もの書物が蔵され、それらはすべて、みごとな装幀をほどこされている。しかも、日ごとに新しく何冊かが加えられていくのである。そこにはまた、数多くの写本や、一流の大家たちの手になる新旧両時代のすぐれた彫刻もある。
画廊には、イタリアとオランダの名高い巨匠の原画による傑作が陳列されており、美術愛好家たちに喜びと賛嘆の念をあたえてやまない。
城の中庭には立派な噴水があり、それには精巧な導水管がついている。
建物の前の花壇の栗の木立の小径を行くと、壮麗なオペラ劇場が聳え立っている。劇場の入口をはいると、きわめて堂々とした主階段にいたる。この階段は両側にわかれており、優美な鉄の手すりがついている。そして、侯爵の主桟敷の二つの入口に通じており、同時にギャラリーにも出られる。この主桟敷は、赤いローマ風の円柱にかこまれ、第三部分の上には金の支柱の飾りがついており、柱身と柱頭もぜんぶ金色に塗られている。劇場は、中央にある四つの白い暖炉によってほどよく暖められるようになっている。劇場の主たる色調は赤大理石であり、また緑と金色である。しかし、みごとな照明は、壁に取り付けた鏡の光である。外側の前面は、ローマ風の壁柱と、半円形の五つの窓とで飾られている。憩いのバルコニーは12本の丸いイオニア式の柱の上にしつらえられる。そこには、うしろの控えの間からも来ることができる。戸口の上の飾りは、一群の守護者たちで、太鼓が鳴り、ラッパが響き、また壺と花飾りでいろどられている。劇場の内部は、驚くべき幅と高さをもっている。背後には、俳優たちのための二つの部屋が衣裳部屋に通じており、それに隣接して、きわめて大きな、またたくさんの衣裳部屋がある。ここで、毎日かわりで、イタリアのオペラ・セリア、ブッファ、ドイツ喜劇が上演され、つねに侯爵臨席のもとに、たいていは夕方の6時に始まる。ここでいかに目と耳とが楽しまされるかは、筆紙に尽くしがたい。音楽についていえば、全管弦楽がひとたび鳴りはじめると、最も感動的な繊細さが、あるいは楽器の激烈な威力が心にしみとおる。侯爵家に楽長として仕えている偉大な音楽芸術家ハイドン氏が、これを指揮しているのである。同時に、みごとな照明によって、また真に迫った装置によって、神々の雲がゆっくり降りてくると、神々が降って来て、一瞬のうちにかき消えてしまうのである。やがて一同は、優美な庭園や、堂々とした会堂の中を遊歩するのである。
マリオネット劇場は、オペラ劇場の反対側に建っており、かなり宏大なものではあるが、ローゲやギャラリーはない。バルコニーの全体が岩窟に似ており、内部の壁、ニッチ、壁の穴のすべてが、さまざまな材料や、石や貝殻や、渦状装飾でおおわれており、光を受けると、世にも不思議な、目も覚めるばかりの光景を呈する。舞台は、どちらかといえば大きいほうで、装飾はきわめて上品である。あやつり人形は美しく作られており、豪華な衣装をつけている。これらの人形は、道化芝居や喜劇ばかりでなく、故マリア・テレジア陛下のご喝采をうけたオペラ「アルチェステ」のような、オペラ・セリアも演じられる。また、ジブラルタル攻城戦の模様も、大変精巧に演じられる。これはおそらく、他に類例をみない舞台であろう。この劇場の上演は、オペラ・セリアの場合と同じく、誰でも無料で観覧することができる。*2
ハイドンの音楽は、こうした、まるで天国のような宮殿の一部として存在したのです。
建築、造園、絵画、演劇、音楽…。
現在、私たちが個別に味わっているあらゆる芸術が、ここでは一体となって五感を揺さぶっていたのです。
まさに、絶対主義がもたらした人類の最高の娯楽空間といえます。
もちろん、富を収奪された民衆の大いなる犠牲の上に成り立ったものですが、だからこそ、この時代にしか存在し得ない貴重な遺産なのです。
それでは、このエステルハーザ宮殿に鳴り響いた、ハイドンのシンフォニーを聴いていきましょう。
Joseph Haydn:Symphony no.47 in E flat major, Hob.I:47
演奏:ジョヴァンニ・アントニーニ指揮 ジャルディーノ・アルモニコ
1772年に作曲されたシンフォニーです。屹然としたフォルテのあと、ホルンが行進曲風のファンファーレを吹き鳴らし、だんだんと音を上げていきます。実にユニークな開始です。そして第1主題は、ふたつの楽器群の楽しい掛け合いで最初のクライマックスを迎えます。第2主題は一転、3連符の細かく繊細な動きとなり、みごとな対照を形作ります。展開部は短調に転じ、激しく転調を繰り返しながら、ドラマティックに進行します。静かだった第2主題はついにフォルテにまで高められます。再現部は第1主題が同主短調のト短調で書き直されていますが、こうした手法は、シューベルトが現れるまで二度と誰もやらなかった、と言われています。不協和をあえて織り込んで、緊張感を高めていくので、冒頭では能天気に聞こえたテーマに、どんどん引き込まれていってしまうのです。ハイドンの前衛さは、今聴いても新鮮です。
ハイドンがシンフォニーの第2楽章を変奏曲にしたのは、この曲が初めてで、これが後年《驚愕》につながっていくと思うと感慨深いです。弱音器をつけたヴァイオリンで始められたテーマは、進むにつれて、管楽器が加わり、対位法も使って深みを増していきます。ところが、変奏が盛り上がるところで、ハイドンはいったん変奏を止めてしまい、立ち止まります。えっ?と思ううち、静けさが覆い、最弱奏で曲を閉じます。期待をいい意味で裏切り、意表を突く。こんな音楽を、今まで誰が書いたでしょうか。
ハイドンの大胆な、こんなのあり?という演出は、このメヌエットで極まります。ひとしきりメヌエットが奏せられると、続きは、楽譜を逆から読んで演奏するように、という指示になります。自筆譜には、逆行の楽譜もありません。そのまま、逆に演奏するのです。トリオも同じです。そのため、このシンフォニーには〝パリンドローム〟という愛称がつけられています。〝回文〟という意味です。そのまま逆行しても、デュナーミクもアーティキュレーションもうまくハマるよう、工夫されているのです。一種の曲芸といえるでしょう。侯爵も手を打って喜んだと思われます。
第4楽章 フィナーレ:プレスト・アッサイ
爆発力を秘めた弱いテーマで始まり、それはやはり一気に爆発し、派手な転調と強弱を伴って暴走していきます。いきなり短調に転じて、ジプシー風のエキゾチックで激しいフレーズも入ってきます。展開部は、暴走が行き詰まってしまうのではないか、とハラハラさせながら進み、ホルンはすさまじい不協和音で咆哮します。再現部は意外にキチっとした規則的な形となり、また聴衆は予想を裏切られます。第45番、第46番に比べると、〝普通の調〟に戻りますが、中身は同じように意表を突く仕掛けで満たされています。まさに、エステルハーザ宮殿の愉しみの真骨頂といえます。
動画は、ジョヴァンニ・アントニーニ指揮 イル・ジャルディーノ・アルモニコの演奏です。(このサイトでは再生できませんので、YouTubeでご覧ください。)
www.youtube.com
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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