オーデションに見事合格した少年ハイドン
前回に引き続き、ハイドンの少年時代を追っていきます。
6歳のとき、ハインブルクで町の音楽を取り仕切っている親戚のオジサン、フランクの元に預けられ、音楽修業を始めた少年ハイドン。
翌年に、さらに大きなチャンスに恵まれます。
ウィーンの中心部に聳え、今も街のシンボルになっている、ゴシック様式のシュテファン大聖堂。
1738年、その楽長であったゲオルク・ロイターが亡くなり、副楽長だった同名の息子が後を継ぎました。
ゲオルク・ロイター2世(1708-1772)とも呼ばれます。
彼は、1740年、皇帝カール6世によって貴族に叙せられます。
楽長となった音楽家でも、貴族まで取り立てられたのは極めて珍しいことで、いかにも気前のいいカール6世らしいです。
ロイターは、マリア・テレジアにも大変気に入られ、週2回、女帝と息子のヨーゼフ2世に音楽レッスンを行っていました。
そのロイターが、楽長に就任して間もなく、大聖堂の少年合唱団員を増強すべく、美声の少年を探して街々をめぐっていました。
そして、彼がハインブルクを訪れた際、ハイドンは司祭から推薦され、オーデションを受けることになりました。
その模様が、ハイドンと同時代のイタリアの伝記作家カルパーニによって、次のように伝えられています。
ロイターは彼に、ひとつの旋律を、初見で歌うよう要求した。少年が示した正確さと澄んだ声質と豊かな気質とは、彼を驚かせた。しかし何よりも彼は、若々しい声の美しさに魅せられた。子供がトリルで声を震わせないことに気づいて、笑いながらそのわけをたずねると、少年は即座に答えた。『ぼくの従兄が自分でもどうやってするのか知らないのに、どうしてぼくにできると思うんですか?』『おいで』とロイターは言った。『私が教えてあげよう』彼は少年を膝のあいだに引き寄せて、切れ目なくはやく音を出し、呼吸をととのえ、上顎を震わせるにはどうすればよいか、やってみせた。少年はただちにうまく声を震わせることができた。ロイターは、生徒のできばえに感心して、さくらんぼを一皿とって少年のポケットをいっぱいにしてやった。これがどんなに嬉しいことだったろうか。ハイドンはこの逸話をなんども私に話して聞かせた。そして笑いながらこうつけ加えた。『いまでもトリルを歌うと、あのさくらんぼを思い出す』*1
ヴィブラートを習得したご褒美がさくらんぼ、という微笑ましいエピソードです。
こうしてハイドンはオーデションに合格し、翌年、8歳のときに大都会ウィーンに出て、シュテファン大聖堂の合唱隊(現在のウィーン少年合唱団)に入るのです。
両親が大喜びしたのは言うまでもありません。
シュテファン大聖堂の聖歌隊員となる
ハイドンは、シュテファン大聖堂の隣にある、ロイターの楽長住宅に寄宿することになりました。
そこには少年合唱隊員5人、副楽長、2人の音楽教師が同居していました。
ハイドンは、そこで優秀な教師たちから、唱歌と、ヴァイオリンやチェンバロの演奏を教わりました。
当時のシュテファン大聖堂の楽団は総勢27名で、楽長ロイターのほか、副楽長アダム・ゲーゲンバウアー、5名のボーイソプラノ、9名の男声合唱団員(アルト、テノール、バス各3名)、10名の弦楽オーケストラ、2名の木管楽器奏者(コルネット、ファゴット)で成っていました。
特別な機会には宮廷楽団から金管楽器と打楽器奏者が派遣されます。
ハイドンはボーイソプラノの中でも〝弱いが美しい声〟という評判を取り、独唱者を務め、しばしばマリア・テレジアを喜ばせたといいます。
少年合唱団は、大聖堂の礼拝音楽だけでなく、学校の生徒たちが演じる学芸会的なオペラにも出演したり、宮廷の祝祭行事に出たりすることもありました。
女帝が新築した夏の離宮、シェーンブルン宮殿の庭は、ハイドンたちの格好の遊び場となり、羽目を外し過ぎて、悪戯のリーダーだったハイドン少年は時々お仕置きを受けたということです。
この経験は、ハイドンが一流の音楽家になっていく上で貴重な学びでした。
その期間は、8歳から17歳半のときまで、10年近くに及んだのです。
さて、マリア・テレジアは、前回見たように、明治維新にも匹敵するような大改革を行い、富国強兵策でオーストリアを近代国家に変貌させていきました。
その目的は、シュレージエン(シレジア)を奪った新興国プロイセン打倒にあります。
女帝の次なる一手は、世界史上に名高い〝外交革命〟でした。
ハプスブルク家のオーストリアは300年もの間、フランスと抗争を続けてきました。
ことの始まりは15世紀。
ハプスブルク家の皇帝マクシミリアン1世が、ブルゴーニュ公の跡取り娘、マリー・ド・ブルゴーニュと結婚、フランス王家と長年対立してきたブルゴーニュ公国を手に入れたことに遡ります。
そして、豊かなフランドル地方、ネーデルラント地方、イタリアなどの覇権をめぐって、墺仏は熾烈な戦争を続けます。
イタリア戦争、三十年戦争、スペイン継承戦争、ポーランド継承戦争、オーストリア継承戦争と、ヨーロッパで続いた戦争の軸はほとんどが墺仏の対立にあったのです。
しかし、フリードリヒ2世率いるプロイセンの勃興で、この軸は歪みつつありました。
また、世界の植民地をめぐって、英仏の対立も激しさを増していました。
このような情勢を踏まえて、マリア・テレジアは、同盟国を英国から、長年の宿敵、フランスのブルボン家に転換することを決断します。
これはまさに、驚天動地のコペルニクス的転換でした。
現代で言えば、アメリカが、EUや日本との同盟を捨てて、中国やロシアと軍事同盟を結ぶようなものです。
立役者は、史上屈指の名外交官、カウニッツ伯爵(1711-1794)です。
彼もマリア・テレジアによって見出された人材でした。
女帝は、夫君フランツ1世の弟、ロレーヌ公カールに自分の唯一の妹、マリアンネを娶わせ、現在のベルギーを治めるネーデルラント総督に任命しました。
ロレーヌ家とは兄弟、姉妹で二重結婚し、関係を深めたわけです。
ところが、愛妹は任地で死産し、その後の肥立ちが悪く、危篤状態になってしまいました。
カウニッツは、その頃総督に仕えていましたが、隣国オランダのライデン大学に名医がいると聞き、早速招きます。
それが、ゲラルド・ヴァン・スヴィーテン博士(1700-1772)で、マリアンネの治療にあたりますが、残念ながら彼女は亡くなってしまいます。
しかし、スヴィーテン博士の近代的な知見に基づく治療はカウニッツに感銘を与えました。
その推薦に従い、マリア・テレジアはスヴィーテンをウィーンに招き、侍医として召し抱えます。
彼は病院や医学教育の改革を行い、植物園や化学実験室を設立、臨床医学の先駆者となって、医学、衛生分野における女帝の近代化政策に大きく貢献しました。
マリア・テレジアの命によって、〝吸血鬼ドラキュラ〟が迷信であることを証明したりもしています。
スヴィーテンは逆に、ネーデルラント駐在のカウニッツを、女帝の側に置くよう進言し、そのお陰で一躍、女帝のお気に入りの閣僚に取り立てられるのです。
このスヴィーテンの息子が、音楽愛好家として知られるゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵なのです。
彼はモーツァルト、ハイドン、ベートーヴェンの熱烈な保護者、後援者として、これまでも何度も取り上げてきました。
モーツァルトにバッハ、ヘンデルの音楽を紹介し、ハイドンのオラトリオ『四季』の台本を書きました。
若きベートーヴェンも家に泊まりで招くほどで、第1シンフォニーの献呈を受けています。
英国からフランスに乗り換え
さて、カウニッツが国際情勢を分析するに、英国は同盟国として信用ならない、と結論づけました。
英国は、大陸に強国が出現しないようにするのが目的で、オーストリア継承戦争のときは弱いマリア・テレジアを支援しましたが、ハプスブルク家が再び強国になるようなら、手のひらを返すに違いありません。
また、当時の英国王は、ヘンデルの主君だったハノーヴァー選帝侯でしたから、プロイセンに敵対して、ドイツに残った先祖代々の故地ハノーヴァーを失うことを恐れていました。
そのため、本気でプロイセンと戦うことはしない、と読んだのです。
そして、プロイセンの背後にあるロシアと手を組み、挟み撃ちにすると同時に、英国と対立していたフランスを、大きな味方にするのもアリ、と考えました。
この大胆極まりない考えに、マリア・テレジアは賛成しましたが、フランスのせいで故地ロレーヌを失った夫、フランツ1世はこの案に我慢がならず、無言で閣議を出ていってしまいました。
しかし、女帝の心は変わりません。
愛する夫ですが、意見が違っても国益を優先して自分が判断するのです。
カウニッツをフランス大使に任命し、秘密裡に同盟工作を命じます。
失言が招いた、取り返しのつかない事態
フランス、ロシアとしては、オーストリアと同盟を結ぶメリットは、微妙なところでした。
しかし、当時、両国とも、たまたま女性が権力を握っていました。
ロシアを統治するのは、女帝エリザベータ。
そして、フランス王ルイ15世は、政治を愛人である公妾ポンパドゥール夫人に委ねていました。
男尊女卑主義者であったフリードリヒ2世は、その傍若無人な発言でこの女性たちを無用に怒らせていたのです。
エリザベータ女帝のことは〝好色なメス豚〟、ポンパドゥール夫人のことは〝王の寝室に出入りするあばずれ女〟と揶揄していて、それが本人たちの耳に入っていたのです。
日本の男性政治家が時々しでかす失言に似て、これがフリードリヒ2世を苦境に追いつめることになります。
対プロイセンで、大国を領導する3人の女性政治家が、手を結んだのです。
女嫌いのフリードリヒ2世は皮肉を込めて、〝3枚のペチコートによる共謀作戦〟と呼ばれました。
いよいよ、女帝の反撃が始まります。
また、皇女たちの嫁ぎ先も、従来の同族ハプスブルク家やドイツ諸侯から、フランス系ブルボン家へと変わりました。
パルマ公国、ナポリ王国、そして、本丸フランス王国…。
しかしそれは、マリー・アントワネットの悲劇の始まりでもあったのです。
さて、それではハイドンの若い頃の作品を聴いていきましょう。
演奏は前回と同じくアントニーニの「ハイドン2032」から、今回のオーケストラはバーゼル室内管弦楽団です。
Joseph Haydn:Symphony no.3 in G-Major, Hob.I:3
演奏:ジョヴァンニ・アントニーニ指揮 バーゼル室内管弦楽団
ハイドンの初期のシンフォニーの作曲時期は特定が難しく、諸説あります。少なくとも、シンフォニーの番号順に作曲されたものではありません。例えば、シンフォニー第72番は、その編成から、第31番と同時期に作曲された可能性が高い、とされています。この第3番も、モルツィン伯爵に仕えていた時期か、エステルハージ家に仕えることになった初期か、判然とはしていません。しかし、初期の魅力的な作品のひとつであることは間違いありません。
第1楽章の冒頭も変わっています。4つの音がヴァイオリンとオーボエで引き延ばされ、テーマを形作っていますが、なんと1小節に1音符という息の長さです。リラックスした、伸び伸びとした旋律に心の底から癒されます。音楽の構造も立体的で、異なるメロディをいろいろなパートが同時進行で奏でる、ポリフォニックな造りになっています。バロックの伝統に近いものがありますが、厳格なルールには従っておらず、それが奥深い中にも親しみやすさを醸し出しています。
第2楽章 アンダンテ・モデラート
この時期の緩徐楽章は弦楽器のみで演奏されます。短調の悲しげな旋律で始まりますが、だんだんと明るさをはらんできます。しっとりとした美しさをもった楽章です。
フランス様式を思わせる典雅なメヌエットですが、弦の高音部と低音部が厳格なカノンになっており、このシンフォニーの特徴に従っています。トリオでのオーボエとホルンの掛け合いが聴きどころです。
第4楽章 プレスト
第1楽章と同じく、4音から成るテーマが、フーガになっていきます。このシンフォニーのポリフォニックな性格がここで極まる形です。音の動きは違いますが、モーツァルトの〝ジュピター〟のフィナーレを先取りしています。あの曲は、モーツァルトがバッハ、ヘンデルのフーガをシンフォニーに始めて取り入れた、という評をされますが、30年近く前に、ハイドンがすでに試みていたことになります。
動画は、同じくアントニーニ&バーゼル室内管弦楽団の演奏風景です。
www.youtube.com
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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