
現代のウィーン少年合唱団(シュテファン大聖堂)
〝中二病〟で作曲を始めた?
幸運が続き、車大工の息子でありながら、ウィーンのシュテファン大聖堂少年合唱団に入隊でき、さらに独唱を任されたヨーゼフ・ハイドン少年。
ハイドンを見出した大聖堂楽長のロイターは、当然のことながら、ハイドンにはボーイソプラノの歌い手としか期待していませんでした。
ハイドンは、立場上、当時のウィーンの音楽生活にどっぷり浸かることができました。
大聖堂では、〝教会音楽の父〟といわれた16世紀イタリアの大作曲家、パレストリーナ(1525-1594)の聖歌が歌われていました。
200年も前の音楽ですが、〝The 教会音楽〟としてずっとスタンダード扱いされていたのです。
また、女帝マリア・テレジアの父カール6世がヴィヴァルディをウィーンに招いていたように、イタリア音楽も大流行しており、コレッリやヘンデルの音楽も盛んに演奏されていて、ウィーンの若い作曲家たちはそれに影響を受け、新曲を続々作っていました。
他ならぬロイターもそのひとりでした。
ハイドンはそれに触れ、自分でも作曲してみたい、という思いを強くしていました。
しかし、ロイターは作曲理論は教えてくれず、また他にもそのような教師はいませんでした。
ハイドンは、繰り返される合唱の練習と本番のさなか、独学で作曲に挑戦していました。
伝記作家ディースが伝える、次のようなエピソードがあります。
ヨーゼフは当時すでに、ひまのあるときは作曲で忙しかった。あるときロイターは、彼が何エレンもある長い紙に12声部のサルヴェ・レジーナを書いているのを見て驚いた。『へえ、そこで何をしているんだ、坊や?』ロイターは長い紙のうえにサルヴェのたくさんの豆粒が書き込まれているのを見て心底から笑い、この少年が12声部を作曲できると思い込んでいる途方もない考えに肝をつぶしたのであった。『お前には2声部で充分だと思わないか、この石頭め!』*1
当時の教会音楽のスタンダード、パレストリーナの有名な代表作の一部を聴いてみましょう。
パレストリーナ:教皇マルチェルスのミサ曲『第1曲 キリエ』
サイモン・プレストン指揮 ウェストミンスター大寺院聖歌隊
この曲でさえ6声部です。
その倍、12声部を作曲するというのは、小屋も建てたことのない大工がいきなり大聖堂を建てようとするようなものですから、ロイターが呆れたのも無理はありません。
少年ハイドンが、自分に作曲の才能があることを確信し、ひとり挑戦していたことがうかがえます。
俺ならできる!という〝中二病〟が彼を成長させたのかもしれません。
ご馳走にありつき、勉強にもなる機会
一方、合唱団の少年たちはいつも空腹でした。
団員に支給される食事は貧弱で、とても育ち盛りの少年たちが満たされるものではありませんでした。
そんな彼らがご馳走にありつくチャンスが、貴族の館での演奏会でした。
歌い手として招かれたときは、歌のほか、食事のときの給仕役もさせられました。
そしてチップがもらえるとともに、使用人室で食事が与えられたのです。
引き続き、ディースの記述です。
ヨーゼフの胃袋は無限の断食に馴れなくてはならなかった。そのため彼は、時おり行われた音楽アカデミー(音楽会)で、少年たちが報酬として食物をもらう機会をのがさなかった。こうした胃袋の問題に関わることなので、ヨーゼフは信じられないほどそのような音楽アカデミーが好きになっていった。彼は歌い手として知られるようになりたいと思って、できるかぎり美しく歌うように心がけ、たえず責めたてる飢えをみたすどのような機会ものがすまいと、ひそかに考えたのであった。
音楽は、まさに生きる糧でした。
食べるのにまったく困らなかったモーツァルトの少年時代と、実に対照的です。
ハイドンの音楽は、まさに叩き上げの苦労の結晶なのです。

月と狩りの女神ディアナに扮したポンパドゥール夫人
さて一方、マリア・テレジアの物語を続けます。
この女帝と、その一家が古典音楽に与えた影響は図りしれませんので、その生涯を追うことはこの時代の音楽を理解する上で欠かせません。
〝外交革命〟で、300年対立してきたフランスと一転、手を結ぶという、大どんでん返しを行ったマリア・テレジア。
敵であるプロイセンのフリードリヒ2世(大王)は、マリア・テレジアがロシアのエリザベータ女帝と手を組むらしい、という情報を得て、英国に接近し、1756年、英国とウェストミンスター同盟を結びました。
これで、オーストリアとロシアに挟み撃ちされても一安心、と思っていたら、3ヵ月後、オーストリアがさらにフランスと同盟を結んだ、という知らせが入ります。
フリードリヒ2世は、全身から血の引くような思いになりました。
あの女、やりやがったな!
ヨーロッパ大陸の2大国が手を結んで、新興国プロシアをつぶしにかかる、というのです。
フリードリヒ2世は領土拡大を狙い、ハプスブルク家に男子後継者が絶えた隙をついて、オーストリア領シュレージエン(シレジア)を掠め取りましたが、オーストリアはフランスとの対抗軸があるので、かまってはいられないだろう、という読みだったのです。
それがまるっきり外れたわけでした。
マリア・テレジアとしても、フランス王ルイ15世の説得には手間取り、実質的なフランス宰相であった王の公妾ポンパドゥール夫人に工作して、ようやく実現した同盟でした。
カトリック信仰を守り、結婚は神が結んだ神聖な絆と信じ、夫フランツ・シュテファンとの純愛を貫いた女帝にとって、愛妾などは売春婦に等しい忌むべき存在でした。
しかし、国策の実現、人口100万を擁する豊かなシュレージエンを帝国に取り返すためには、目をつぶるしかなかったのです。
夫人にお礼をするのも、女帝にとってみれば屈辱的なことでしたが、金箔の額縁に高価な宝石をちりばめた自分の像を作り、贈りました。
女帝の矜持として、礼状は添えなかったのですが、フリードリヒ2世はそれを揶揄して『あれほど潔癖をよそおっているハンガリー女王は、フランス王の愛妾に贈り物をし、感謝状を書いた』と負け惜しみを言いふらしました。
情勢が自分に不利と見た大王フリードリヒ2世は、先手必勝とばかり、すぐに隣国ザクセンに攻め入りました。
首都ドレスデンはあっという間に陥落し、ポーランド王を兼ねていたザクセン選帝侯は、あわててポーランドに逃れます。
ザクセンは中立でしたら、この国際法を無視した暴挙に、列国は驚きます。
フリードリヒ2世は、列国は何もできない、と踏んでいましたが、同盟国の結束は反プロイセンで固まりました。
今回の先手は、大王にとって完全に裏目に出たのです。
ここに、有名な七年戦争が始まり、女帝と大王は7年にわたり死闘を繰り広げ、両国だけで100万人を超える死者が出ました。

マリア・テレジア
折から、ロシアがウクライナに侵攻するかしないか、という緊迫した情勢になっています。
このあと、侵攻好きのフリードリヒ大王がどんな目に遭ったかは歴史が示していますし、現代でそんな侵略戦争などあり得ないと思いつつ、人類は進歩していないかもしれない、という嫌な思いも頭をよぎる昨今です。
さて、今回もハイドンの若い頃の作品を聴いていきます。
ハイドンがハンガリーのエステルハージ家の副楽長として仕えはじめた頃、30歳の作品です。
エステルハージ家はマリア・テレジアを支持することによって、ハンガリーの実質的な副王となった家柄です。
その力を象徴するのが、豊かなハイドンの音楽なのです。
演奏は前回と同じくアントニーニの「ハイドン2032」から、今回のオーケストラはバーゼル室内管弦楽団です。
Joseph Haydn:Symphony no.9 in C-Major, Hob.I:9
演奏:ジョヴァンニ・アントニーニ指揮 バーゼル室内管弦楽団
この曲は自筆譜が残っていないのではっきりとしたことが分かっていませんが、おそらく1762年の成立されています。もともとは、祝典劇の序曲として作曲されたと考えられており、エステルハージ家の豊かな文化生活が垣間見えます。ただ、メヌエットで終わり、フィナーレの速い楽章がないという変わった構成で、これは序曲ではほかに見られない形です。起源は謎、ということになります。
曲調は祝典にふさわしく、何か楽しい物語が始まる、といった雰囲気です。3つの和音によるハンマー打撃に始まり、ホルンのファンファーレが賑々しく鳴り渡ります。弦は縦横無尽に駆け回り、若い副楽長の才能が溢れるようです。
第2楽章 アンダンテ
珍しい2本のフルートが、のどかに、叙情豊かに歌います。パストラーレ(田園楽)の要素がありますので、このシンフォニーは牧歌劇の序曲だったのかもしれません。
リズムの工夫によって、単なる典雅な舞曲から脱しようという意図がみえるメヌエットです。トリオはオーボエの楽し気なソロに、やがてホルンが和していきます。
これから大きく発展していくハイドンのシンフォニーの、珠玉の源流に触れる思いです。
動画は、同じくアントニーニ&バーゼル室内管弦楽団の演奏風景です。日本人のコンサート・マスター、笠井友紀さんの活躍が出色です。ハイドンを演奏する人たちは、本当に楽しそうです。
www.youtube.com
今回もお読みいただき、ありがとうございました。


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