前回、ハイドンの少年時代に触れたので、ここで〝交響曲の父〟〝弦楽四重奏曲の父〟〝ソナタ形式の父〟といった父の称号を総なめにした、〝パパ・ハイドン〟の生誕から振り返ってみましょう。
ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの「古典派三大巨匠」は、その人類の芸術に残した偉大な足跡から、絵画の世界でいうところのレオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロの「ルネサンス三大巨匠」になぞらえることができるでしょう。
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)は、1732年3月31日に、オーストリア・ニーダーエスタライヒ(下オーストリア)州のローアウ村で生まれました。
この村は、ウィーンからブダペストに向かって車で小一時間くらいのところにあり、マリア・テレジアがハンガリー女王の戴冠式を行ったプレスブルク(現スロバキアの首都ブラチスラバ)に近い場所にあります。
ハンガリーの国境に近い村、と言われますが、そもそもウィーンが古代ローマで東方辺境の防衛基地として生まれた街であり、かなり東に寄った国境に近い場所に位置しています。
苦労人ばかりのハイドンのご先祖
場所柄、ハイドンのご先祖もヨーロッパとアジアの間に挟まれて苦難に耐えてきました。
バッハのように、一族に音楽を生業とした人は誰もおらず、代々、職人として生計を立てていました。
ハイドンの曽祖父カスパールは、オスマン・トルコの第2回ウィーン包囲のときに、トルコ軍に家財をすっかり略奪されてしまいました。
祖父トーマスは、壊された家を再建して、車大工を始めます。
父マティアスが2歳のときに、祖父トーマスが亡くなり、祖母は同じく車大工仲間と再婚して、家業を継いでもらいます。
そしてマティアスも、継父のもとで、車大工としての修業を積みます。
ハイドンの母方の家もローアウ村にありましたが、1704年のハンガリー農民戦争のときハプスブルク家に反乱を起こしたハンガリー人によって略奪されます。
母方の祖父、ローレンツ・コラーは1年後に家を再建しますが、1706年にまた押し寄せたハンガリー人によって、その家も燃やされてしまいます。
しかし、祖父は諦めず、再び再起を図り、人望を得て、1713年には市場裁判官の地位に就きます。
ハイドンの母マリアはそんな厳しい状況の中、1707年に生まれ、11歳のときから、ローアウ村の領主、ハラッハ伯爵の館に住み込みの料理人として働き始めます。
そして、1728年に、車大工のマティアス・ハイドンと結婚し、まず長女フランチェスカ、次いで長男フランツ・ヨーゼフ・ハイドンを産むのです。
ちなみに、ハイドン自身は〝フランツ〟という名前を省略し、ほとんど使いませんでしたから、単にヨーゼフ・ハイドンと呼ばれることが多いです。
ふたりには、12人の子が生まれますが、成人したのはその半数でした。
ハイドンと同じく音楽の道に進んだのはふたりの弟。
ひとりは兄を上回る美声でマリア・テレジアに気に入られ、後にザルツブルク大司教に仕えてモーツァルトの同僚となるミヒャエル。
もうひとりは、テノール歌手として兄と同じエステルハージ家に仕えることになるエヴァンゲリストです。
お父さんは村の自治会長
母マリアはしっかり者で、敬虔なカトリック教徒でした。
父マティアスも勤勉で、継父の車大工の稼業をしっかり継ぎ、また岳父が務めていた市場裁判官の職も引き継ぎました。
これは江戸時代の名主や庄屋のようなもので、住民をとりまとめ、風紀を取り締まり、日曜の教会への礼拝を促し、領主から命じられた税や賦役を割り当て、道路など公共の場所の保全を行いました。
そして、職務遂行状況を、夏には毎週日曜の朝6時に、冬には半月1度、朝8時に、領主のハラッハ伯爵に報告する義務がありました。
勤勉と誠実がハイドン家の家風であり、ハイドンの人格にもしっかりとその美徳が伝わり、その芸術にも反映しているのです。
寂れてない、ハイドンの生家
ハイドンの生家は今も残り、現在は博物館になっています。
晩年、死の床についたベートーヴェンに、作曲家のディアベリが、藁ぶき屋根のこの家の石版画をお見舞いに贈りました。
ベートーヴェンはそれを見て、『おお!この寂れた農家に偉大な才能がやどったのだ。』と感動しました。
この言葉で、ハイドンは貧しい農家の生まれ、というイメージになってしまいましたが、地元の名士ですから、実はなかなか宏壮な家なのです。
さて、1日の仕事が終わると、ハイドン一家は炉のそばに集まって、父マティアスが得意のハープを弾きながら、皆で民謡などを歌うのが常でした。
子供たちの中で、ヨーゼフの歌がとりわけ美しく、拍子も抑揚も正確でした。
父マティアスの義弟、フランクという人が、ハインブルクで校長をしており、またふたつの教会でメインの歌手を務めていたのですが、彼が幼いヨーゼフに異常な音楽の才能を見出し、預かりたい、と申し出ました。
ヨーゼフを聖職者にしたいと考えていた母は最初は反対しますが、この村にいてもロクな教育ができないことを夫婦で話し合った結果、預ける決心をしました。
1738年、5歳のヨーゼフ・ハイドンは、親元を離れ、ドナウ川に面したハインブルクで寄宿生活を送ることになったのです。
親戚のオジサンに鍛えられて
預けられた〝親戚のオジサン〟フランクは、かなり多忙な人でした。
校長として、80人の生徒に読み書き、算数、歌、祈祷などを教えるかたわら、教会ではオルガンを弾き、合唱隊や器楽演奏を指揮していました。
また教会では、教区の戸籍の管理、教会の時計の管理まで任されていたのです。
ヨーゼフも、朝7時から勉強、11時から昼食、12時から3時まで勉強。
それが終わるとミサ。
また、お世話になっている身として、家事も手伝わなければなりません。
しかしヨーゼフは、つらいことにもよく耐えて成長していきました。
また、ヨーゼフにとって幸運なことに、ハインブルクの教会音楽のレベルはかなり高いものでした。
オーケストラには8人のトランペット奏者と8人のヴァイオリニストが常置され、特別な礼拝儀式では、これにチェロ、コントラバス、ホルン、ティンパニが加わりました。
さらにフランクは膨大な量の楽譜を所蔵して、これらのイベントに使っていました。
幼いヨーゼフにはこれらの楽譜を筆写する仕事もあり、大いに勉強になったのです。
晩年のハイドンが生い立ちを振り返って記した文章を引用します。
全能なる神が、私にとくに豊かに音楽の才を授けたもうたお陰で、6歳のときに早くも教会の合唱隊席で何曲かのミサを歌うことができましたし、またクラヴィーアやヴァイオリンを少しばかり弾くこともできたのでした。*1
また、別の伝記では、ハイドンはフランクについて、『食事よりも鞭をもらうことのほうが多かったにせよ、こんなにたくさんのことを学ばせてくれたことに対して、私は、この人に墓のなかまでも感謝の念を抱きつづけるだろう』と述懐したということです。
小麦粉にまみれて、猛練習
また、こんな有名なエピソードもあります。
祈願節にたくさんの祈祷行列が執り行われることになっていた。ところがティンパニ奏者が急死してしまったために、フランクは大変な苦境に陥った。彼はヨーゼフに目を注ぎ、この子供に大急ぎでティンパニの叩き方を習わせて、急場をしのごうと思いついた。彼はヨーゼフに叩き方を教え、すぐさま練習するように命じた。ヨーゼフは、農家でパン焼きに使う小さな籠を取り出して、これに布をかぶせ、覆いのある椅子の上にのせた。それからこのドラム装置を叩きはじめたのだが、あまり夢中になって練習したので、籠の中のメリケン粉がこぼれて、すっかり椅子をダメにしてしまった。ヨーゼフはこの事件でひどく叱られたが、しかしフランクは、ヨーゼフがそのとき早くも完全なドラマ―となっていることを知って、驚き、かつ怒りを和らげたのであった。
そんなこんなで、小学校低学年にあたる月日を過ごしたハイドンに、さらなるチャンスが舞い込みます。
帝都ウィーンにスカウトされたのです。
マリア・テレジアが即位した1740年のことでした。
それは次回に。
さて一方、物語はマリア・テレジアに戻ります。
苦しいオーストリア継承戦争を戦い抜き、夫フランツを皇帝にした彼女は、ハプスブルク家の支配を再び確立することに成功しました。
しかし、にっくきプロイセン王、フリードリヒ2世に掠め取られた豊かなシュレージエン(シレジア)地方を、彼女は諦めていませんでした。
ハプスブルク家の所領は分割してはならない、という父カール6世の遺詔は、神の名にかけて守らなければならないのです。
しかし、ヨーロッパ最強の軍事国家、プロイセン軍には、今のままでは到底勝てません。
プロイセンに占領されたシュレージエン(シレジア)地方では、ハプスブルク家時代に比べて、4、5倍の税を取られている、という話が聞こえてきました。
当然、プロイセンの国庫は豊かになり、より強くなっていきます。
なぜ、そんなことができるのか。
プロイセンでは、国王の絶対主義が確立していて、領主や教会、修道院に対して強い課税が可能になっていました。
それに引き替え、ハプスブルク家領内では、以前として中世以来の封建体制で、領主は独立国家として運営しており、いざ鎌倉、いやウィーン、というときには、それぞれが装備もバラバラの連隊を率いて駆けつける、といった具合。
各州の租税も、それぞれの議会が決め、なんと皇帝に決定権は無かったのです。
皇帝は、戦争など有事の際には、各州議会や領主たちに頼み込んで、臨時の税や寄付を認めてもらうというのが実態でした。
日本でいえば、江戸時代の幕府と藩の関係よりも、もっと昔、室町幕府の体制に近いかもしれません。
強大な守護大名たちが幕府の政治を行い、将軍も口が出せません。
選帝侯ならぬ〝選将軍侯〟たちが、第6代足利義教のときにはくじ引きで将軍を選んだほどです。
また、莫大な所領と財産を持つ教会、修道院も全く非課税でした。
中央集権の近代国家へ
マリア・テレジアは、敵国プロイセンに学びつつ、中央集権を進め、オーストリアを近代国家にしていきます。
彼女の素晴らしいところは、人材抜擢と操縦術でした。
改革に必要な人材は身分にかかわらず登用します。
かといって、そういった成り上がり者たちに反感を持つ保守層たちにも十分な気配りをし、ハレーションは最小限に抑えたのです。
この女帝は、誰もが無茶にも従わざるを得ないような、不思議な魅力を持っていました。
シュレージエン(シレジア)出身の、ハウクヴィッツ伯爵を登用し、彼の進言を実行します。
それは『毎年行われている各州議会の税額決定と承認を、10年ごとに変更し、税額を3倍とする。その代わりに、これまで戦争のたびに各州に割り当てていた賦役や兵糧の提供を免除する』というものでした。
税が3倍、というのは法外ですが、その代わり、臨時の徴収はなし、ということなので、国庫の歳入は安定し、また住民の方も、リスクは軽減されます。
また、このような取り決めは、議会や領主の権能を奪い、中央集権にするということを意味します。
女帝の逆鱗に触れた、ハイドン父のご主人
閣議では、ハイドン家の領主であった下オーストリア州の大領主ハラッハ伯爵は反対意見を述べますが、女帝の決意の前にはどうしようもありません。
決定後、マリア・テレジアは、この法令を一度に施行するのではなく、様子をみながら、順番に州に適用していきます。
最初に適用したモラヴィアやボヘミアでは、先の戦争でマリア・テレジアの即位に反対した弱みがあってか、意外にすんなりと受け入れられます。
しかし、お膝元の下オーストリア州議会では、なかなかに受け入れられず、ついに寛容な女帝も『いったいハラッハは、自分の君主に仕えていることを忘れているのですか!』とブチ切れ、ハラッハ伯爵は引退を余儀なくされています。
もともと独立の気風の強いチロルもかなりの抵抗を示しましたが、女帝の硬軟取り混ぜた働きかけによって、受け入れていきました。
また、カトリック君主でありながら、教会、修道院からの徴税にも成功しました。
昔だったら教皇に破門されていたでしょうし、絶対主義で先行したフランスでさえ実現できずに革命の火種となっています。
日本で言えば、明治維新のときの廃藩置県の断行に近い政策ですが、大きな波乱なく進められたのは女帝の力にほかなりません。
しかし、四面楚歌の中で自分を支持してくれたハンガリーだけは、大領主たちの特権を守るという即位時の約束を守り、手を付けませんでした。
後にハイドンが使えることになるハンガリー一の大領主エステルハージ家とハプスブルク家の関係は、このあたりも踏まえて理解しなければなりません。
上下心をひとつにした軍隊を
財政を安定させたマリア・テレジアは、次に軍隊の近代化に着手します。
ここで抜擢されたのはダウン将軍。
彼の力で、初めて「ハプスブルク軍」が創設されます。
もはや、領主の軍の寄せ集めではありません。
また、士官学校を創設し、人材の育成にも努めました。
これまでは、将軍や士官、将校は貴族出身でしたが、戦術、戦略がうまいとは限りません。
生きるか死ぬかの戦場では、実力主義でなければ勝てないのです。
マリア・テレジアは、士官学校には貴族にこだわらず、広い身分の子弟を受け入れ、実力で士官、将校に登用していきました。
身分が低くても、頑張れば士官になれ、さらに手柄を立てれば貴族にも叙せられるのです。
女帝は、成績優秀な生徒たちとは食事を共にし、期待を伝え、大いに激励しました。
彼らは感激し、女帝と国家に対する忠誠心を燃え上がらせました。
また女帝は、上官による兵士の虐待、体罰を禁じました。
パワハラが無くなることによって、上官に対する信頼が生まれ、軍隊組織はさらに一体化していきました。
こうして全く新しくなったオーストリア軍に、後に起こる七年戦争において、女帝を舐め切っていたフリードリヒ2世は、絶体絶命の窮地にまで追いつめられることになるのです。
ハイドンの記念すべき〝第1番〟
さて、ハイドンの生い立ちに思いを馳せながら、〝交響曲の父〟と呼ばれ、104曲のシンフォニーを生み出したハイドンの、記念すべき〝第1番〟を聴きましょう。
ただし、この曲がいつ作曲されたのは定かではなく、諸説があります。
エステルハージ家に仕える前、モルツィン伯爵の楽長になった27歳頃ではないか、というのが有力ですが、それ以前、25歳くらいの可能性もあります。
この頃の作品は、自筆譜が残っているわけではないので、第1番が果たして本当に最初のシンフォニーなのかも確証はありませんが、ごく初期の作品であるのは確かです。
ハイドンは、独学で、大バッハの次男、カール・フィリップ・エマニュエル・バッハのシンフォニアを研究しながら、新しい試みを邁進しています。
バッハの作品よりも流れるように自然で、それでいてハッとするような斬新な工夫が感じられる作品です。
演奏は、クセの強さが魅力のイタリアの古楽指揮者、ジョヴァンニ・アントニーニが、手兵イル・ジャルディーノ・アルモニコと、バーゼル室内管弦楽団の両方を使い、2032年までにハイドンの全作品を録音するという壮大はプロジェクト、『Haydn 2032』からです。
Joseph Haydn:Symphony no.1 in D-Major, Hob.I:1
演奏:ジョヴァンニ・アントニーニ指揮 イル・ジャルディーノ・アルモニコ
第1楽章 プレスト
クレッシェンドから始まる、というのも、初期のハイドンには珍しいことで、工夫のひとつといえます。第1主題のクレッシェンドが終わると、楽し気な経過句を挟んで、第1ヴァイオリンとオーボエが第2主題を奏でます。第2主題の後半は短調になりますが、これは当時の流行に従ったものです。展開部は、後年の主題労作のようなものは見られず、再現部へのつなぎ、といった趣きです。再現部は、ほぼ提示部の繰り返しになっていて、ソナタ形式としては不十分です。それもそのはず、ソナタ形式は、これからハイドン自身が発展させていくのですから。その出発点として感慨深いものがあります。
第2楽章 アンダンテ
第2楽章は弦楽器のみで演奏され、バロックの面影が残っています。展開部と再現部もまだはっきりと分けることはできません。第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが呼びかけるように歌うのも、バロック的な感じを受けます。健全で優しい音色は、後年の大作にも通じるものです。
第3楽章 プレスト
実に楽しい雰囲気のフィナーレで、第1楽章よりもしっかりしたソナタ形式を志向しています。伸び伸びとした雰囲気からは、モーツァルトの初期の作品のような、習作的な幼さは感じられず、さすが、すでに大人風格を感じます。
動画は、同じくアントニーニ&イル・ジャルディーノ・アルモニコの演奏です。
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今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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