孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

不倫は撲滅!風紀委員会を作った女帝。マリア・テレジアとヨーゼフ2世母子の葛藤物語21。ハイドン『交響曲 第71番 変ロ長調』

喪服のマリア・テレジア

道徳に厳しい女帝

これまで、マリア・テレジアが夫、神聖ローマ皇帝フランツ1世(フランツ・シュテファン)に先立たれてから、男しかなれない皇帝位を継いだ息子ヨーゼフ2世との共同統治時代、未経験で軽率な皇帝の独断専行に悩まされ、その尻拭いに追われてきた姿をみてきました。

この史上稀にみる偉大な女性のおかげで、オーストリアがヨーロッパの強国として維持されてきたのは衆人の認めるところです。

また、この女帝は信仰心篤く、また高いモラル意識がありました。

これも、上に立つものにふさわしい高潔な人格、高邁な道徳の持ち主として尊敬されました。

これに対し、ヨーゼフ2世がのこのこと会いに行ったロシア女帝エカチェリーナ2世などは、夫帝を廃したあと、愛人をとっかえひっかえ毎晩のように寝室に引き入れ、情事にふけりました。

その数は3桁に達したといわれ、孫のニコライ1世から『王冠をかぶった娼婦』などと揶揄される始末。

これに対しマリア・テレジアは、最愛の夫の死後、終生喪服で過ごしました。

彼女は、自分たちの夫婦生活が正しい姿であり、国民にも同じような幸福な結婚生活を送ってもらいたい、と考えていました。

国民の幸せを節に願い、その実現を自分の務めと受け止めていた女帝は、乱れた男女関係、不倫や売春は社会を不幸にするものとして、撲滅しようとします。

晩年にはその傾向が、極端な政策になっていきました。

浮気は法令で厳罰に処す!

確かに当時、ウィーンの街でも売春が急増し、性病で命を落とす人が少なくなく、また不倫、浮気によるトラブルもたびたび女帝の耳に入っていました。

神が結んだ神聖なる絆、結婚だけが正しい男女のあり方で、これを冒涜するから神罰を受けて不幸になる。

これは上に立つものとして〝教化〟しなければならない。

このように考えた晩年の女帝は、「男女関係は清らかなるべし」という法令を発布し、「風紀委員会」を発足させ、風紀の取り締まりに乗り出しました。

男女交際を禁じた校則に違反した女子高校生が退学になった、というニュースを見ましたが、そんな校則を国の法律にしたわけです。

「風紀委員」は正式な結婚以外の〝不純〟な男女関係を見つけた者には通報、密告を呼びかけ、該当者がいれば処罰しました。

駆け落ちも、それを幇助した者も厳罰。

女性の服装や化粧に対しても華美に走らぬよう、制限を加えました。

男性の劣情をあおるようなミニ・スカートや体の線が出るような服は禁止。

しかし歴史上、このような政策が長続きした例はありません。

結婚にまつわるトラブルはあくまでも民事的なものであって、刑法での取り締まりにはなじみません。

また、享楽を求める人民には大変な不人気な政策となりました。

宰相からして、守らない…

そもそも、女帝が最も信頼する名宰相、カウニッツ侯爵からして、これに従いませんでした。

彼は一時期、お気に入りのイタリア人女優を愛人にしていましたが、ふたりで馬車でドライブ中、女帝から政治の用件で緊急の呼び出しをくらいました。

宰相は馬車に彼女を待たせたまま、女帝のところに参上したのです。

これを知ったマリア・テレジアは烈火のごとく怒り、『侯爵、何たることですか!』と叱責しました。

カウニッツは顔色ひとつ変えず、『陛下、私は陛下に関する案件で参上いたしました。私ごとは関係ございません。』と答えます。

女帝は『この女性に関する一件は、結局のところ、私に関係することでもあるのです!』と応酬します。

国民の私事も、全て自分の関与するところだ、という考えであることが分かるエピソードです。

マリア・テレジアも、ヨーゼフ2世も、先進的な考えを持ちつつも、まだまだ、「絶対君主」なのです。

お化粧禁止にブチ切れた女官

またある時、女帝に仕えている高位の女官がやや濃いめの化粧をしているのを見て、厳しく叱りました。

ボヘミア貴族の娘だった彼女は、『私たちが自分の顔くらい、好きなようにお化粧してはいけないというのでしょうか。私が顔を授かったのは神様からで、女帝からではないのに!』とブチ切れて、女帝に挨拶もせず領地に帰ってしまいました。*1

さすがに女帝はやり過ぎに気づき、華美禁止令は撤回され、また女性たちは自由に着飾るようになったのです。

色事師カサノヴァの証言

ジャコモ・カサノヴァ(1725-1798)

ウィーンに滞在していた、有名なプレイボーイ、カサノヴァは『回想録』に次のように記しています。

当時ウィーンではすべてが美しく、金も町にあふれ、極めて華やかだった。しかし、ヴィーナスに身を捧げる者にとっては、大変に窮屈なところだった。風紀委員と呼ばれる極悪きわまる密偵の一団は、あらゆる美しい娘たちの無慈悲な死刑執行人だった。あらゆる美徳をそなえた女帝も、男女間の道ならぬ恋のこととなると寛容の美徳を示されなかった。この偉大なる女帝は非常に宗教心が厚く、概して大罪を憎まれ、神の前に己が功徳を見せることを望まれた。それで、大罪を迫害しようと考えられたのだった。こんなわけで彼女は、いわゆる大罪の帳簿を御手に持たれて、七つの大罪を数えあげられた。彼女はその中の六つについては手加減も加えられると思ったが、淫蕩の罪ばかりは許すべからざるものと見なし、この罪の打倒のために、全情熱をそそぎ込み、爆発させたのだった。

偉大なるマリア・テレジアの唯一の欠点からほとばしり出たこの残酷な金言のなかから、風紀委員の死刑執行人どもが犯したあらゆる不正と汚職とが発生したのである。かれらはウィーンの街角で、ひとり歩きする娘たちを絶えず捕えて監獄に送ったのである。

結局、女帝の史上稀なる政治力も、人間の本能まではコントロールできず、宰相から女官、一般庶民に至るまで、この政策は総スカンをくらい、「風紀委員会」は女帝の晩年に解散となったのです。

最初からうまくいくわけがない、と嘲笑され、〝そらみたことか。女帝といえども、やっぱり女のやることだ〟などと男どもから言われてしまう結果となりました。

マリア・テレジアが偉大な為政者であることは皆認めていましたが、人民に人気があったかというと、そこは賛否が分かれるところでした。

かましく道徳、道徳、という女帝に、人々が嫌気が差していたのも確かです。

マリア・テレジアモーツァルトが嫌い?

マリア・テレジアの四男フェルディナンド大公(1754-1806)

華美に堕した音楽も、女帝のポリシーに反しました。

マリア・テレジアは音楽が嫌いではありませんでしたが、ハプスブルク家の君主には珍しく、積極的な保護はしていません。

女帝は、音楽を統治の道具として扱ったのです。

1771年、マリア・テレジアは当時15歳のモーツァルトに、ロンバルディア総督としてミラノに赴任した息子の四男フェルディナンド大公の婚儀に際して、祝典オペラを作るよう依頼しました。

モーツァルトはこれに応えて、祝典劇『アルバのアスカーニオ』を作曲、上演し、同時に上演された老大家ハッセのオペラをしのぐ大喝采を浴びました。

フェルディナンド大公も大いに気に入って、モーツァルトを宮廷音楽家として召し抱えようと、手紙で母帝にお伺いを立てました。

しかし、マリア・テレジアの返事はとても冷たいものでした。

あなたは若いザルツブルク人を自分のために雇うのを求めていますね。私には理由が分からないし、あなたが作曲家とか無用の人間を必要としているとは信じられません。けれど、もしこれがあなたを喜ばせることになるのなら、私は邪魔したくはないのです。あなたに無用な人間を養わないように、そして決してあなたのもとで働くようなこうした人たちに肩書など与えてはなりません。乞食のように世の中を渡り歩いているような人たちは、奉公人たちに悪影響を及ぼすことになります。彼はそのうえ大家族です。*2

これは、一般的にはマリア・テレジアモーツァルトを評価していなかった証拠として扱われる史料ですが、けっしてそうではありません。

わざわざご指名で祝典オペラを注文しているくらいなのですから。

ハプスブルク家にとって、イタリア支配は統治の根幹といってもよいくらいの重要政策です。

しかし、文化芸術の進んだ先進地域イタリアを、武骨とされた後進地域のドイツ人が支配するのは至難。

そこで、マリア・テレジアはミラノにスカラ座を作り、そこでドイツ人作曲家による、しかも神童といわれたモーツァルトによる音楽を盛大に鳴らし、イタリア人を畏服せしめよう、としたわけです。

しかもその機会は、息子のイタリア総督としての婚儀の場。

君主の結婚がどれだけ政治的な意味をもつかは、今も昔も同じです。

まさに、モーツァルトの音楽は女帝にとって統治の道具でした。

作曲家は雇用せず

13歳のモーツァルト

しかし、雇用、となると話は別です。

女帝が厳しく当たっているのは、モーツァルトではなくて息子の大公なのです。

これから、自分の代理たる総督としてイタリアの地を統治しなければならないのに、厳しい財政の中で、必要不可欠とはいえない人件費を浪費しようとしている。

作曲家に対しては、必要に応じて作品を注文すればいいのであって、常に雇って側に置き、養う必要などない、というのが女帝の考えでした。

ハイドンを30年間雇用したエステルハージ侯爵のような男性君主とは異なり、国の切り盛りに苦労してきた、主婦的な経済感覚ともいえます。

車を買いたい、という夫に対し、ローンも維持費もかかるから、乗りたい時だけレンタカーを借りればいいじゃない、という妻のようなものでしょうか。

フェルディナンド大公は、ゴッドマザーに逆らってまでモーツァルトを雇う度胸はありませんでした。

 

それでは、同時期のハイドンのシンフォニーを聴いていきましょう。

ハイドン交響曲 第71番 変ロ長調

Joseph Haydn:Symphony no.71 in B flat major, Hob.I:71

演奏:クリストファー・ホグウッド指揮 アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック(古楽器使用)

第1楽章 アダージョアレグロ・コン・ブリオ

一番古い手書きの筆写譜に1780年と書かれていますが、写した年かもしれないので、作曲はその1、2年前ではないか、と推定されています。

前曲の第70番以降のハイドンのシンフォニーには必ずフルートが1本入るようになりましたが、それはエステルハージ侯爵家宮廷楽団に1778年4月からフルート奏者が雇われたからで、この曲にもフルートパートがありますから、少なくともそれ以降の作曲となります。そして、その新入りのフルート奏者の見せ場作りのために、この曲でもフルートは重要な役割を演じるのです。指揮者ハイドンの楽団員への配慮が窺えます。

重々しい短い序奏がついていますが、これは後年のロンドンセットにある、同じ変ロ長調の第98番へとつながっていきます。重い付点リズムのユニゾンのフレーズのあと、トリルを伴った優美なフレーズが追いかけ、その繰り返しが明暗の対比を形作っています。そしてそれが調和をみせ、その旋律を元にした4分の3拍子の主部に入っていきますが、そこでも明暗が対比されます。ハイドンの第1楽章らしい力強い推進力はあまり現れず、木管の繊細な歌のあと、むしろ沈思黙考するかのような時間さえあります。優美というより、深みを感じる音楽です。

展開部冒頭はしばし緊張感をはらみますが、しばらくして第1主題が戻ってきます。しかしこれは、ハイドンお得意の「疑似再現」で、展開部はさらに続きます。そのため、本当の再現部はシンプルにされ、バランスを取っています。

第2楽章 アダージョ

テーマと4つの変奏、コーダから成ります。テーマと第1変奏は弱音器をつけた第1ヴァイオリンで奏されますが、第1変奏では32分音符で煌びやかに展開します。

第2変奏はフルートとファゴットが活躍しますが、それを第2ヴァイオリンが32分音符のゆらめくような対旋律で支えます。第3変奏は16分音符の3連符のカクカクした感じが特徴です。第4変奏は、テーマの再現となりますが、後半の和声は変化がつけられています。フェルマータのあとにカデンツァを導入するフレーズがあり、管楽器たちがカデンツァ風に不思議な音色を奏でます。長いトリルでカデンツァは終わり、6小節の短いコーダで曲は閉じられます。

第3楽章 メヌエット&トリオ

メヌエットでは、大きな身振りのフレーズと、小さな隣接音のフレーズが対比されます。トリオでは、低音のピツィカートに乗って、2つの独奏ヴァイオリンが奏しますが、それにオーケストラが奇妙に応えるフレーズがあり、驚かされます。まるで、村祭りのバグパイプのような田舎臭さが醸し出されます。

第4楽章 フィナーレ:ヴィヴァーチェ

モーツァルトを思わせる滑らかな旋律が歌われてはじまります。しかし、これに楽しく管楽器たちが応じて、はしゃぎ始めると、やはりお茶目なハイドンだな、と実感します。しかし展開部は、変ロ長調からはるかに離れた変ニ長調ではじまり、驚かされます。第1、第2ヴァイオリンがユニゾンで奏されるのも珍しいことですが、わざわざハイドンが楽譜に「許可による per licentiam」と書いて、間違いでないことを示しています。その後不思議な転調が起こり、短調に振れますが、変ニ長調異名同音の嬰ハ音に置き換えられていくのです。こうした工夫?は、真面目なのか冗談なのか、どうにも分かりませんが、通人にしか分からない高度な娯楽、といえるかもしれません。

 

動画は鈴木秀美指揮、オーケストラ・リベラ・クラシカの素晴らしい演奏です。


www.youtube.com

 

今回もお読みいただき、ありがとうございました。

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