優秀な弟に地位を奪われる!
ウィーンのシュテファン大聖堂少年合唱団で、独唱を任されたヨーゼフ・ハイドン少年。
1745年の秋。
ヨーゼフが13歳のとき、合唱団に8歳の弟、ミヒャエル・ハイドンが入隊してきました。
もちろんきっかけはヨーゼフのコネですから、兄貴は得意になって色々教えたり、ウィーンの街を引き回したりしました。
弟もどんなにか心強かったことでしょう。
しかしすぐに、この弟は兄の地位を脅かすことになります。
ミヒャエルは、兄を上回る3オクターヴを出すことができ、声の質も皇室の面々の気に入り、兄に与えられたこともない喝采を浴びました。
ヨーゼフはだんだんと声変わりを迎え、女帝マリア・テレジアから『カラスの鳴き声みたいね』とダメ出しをされてからは、独唱はミヒャエルに交代させられました。
そして、以前も触れたように、1748年11月15日のレオポルト祭の際、ミヒャエルは見事なソロを歌い、女帝から褒美として金貨24ドゥカーテンを賜りました。
1ドゥカーテンが現在のいくらになるか、換算は難しいですが、だいたい2万円くらいのようです。
女帝の金一封はざっと50万円、といったところでしょうか。
もちろん、飢えと隣り合わせの少年には途方もない金額です。
楽長ロイターがミヒャエルに、この大金をどうするつもりか尋ねると、次のように答えたということです。
『お父さんはつい最近、家畜を1匹失ってしまったので、12ドゥカーテンはお父さんに送ります。のこりの12ドゥカーテンは、私の声も同じようにダメになったときのために、あなたが預かっておいてください。*1』
何という親孝行でしょう。
また、将来に備えて貯金とは、何というしっかりした少年でしょうか。
兄の変声は、まったく他人事ではなかったのです。
声がダメになってしまった少年はお払い箱になる運命でした。
しかし、ハイドンはもちろん、弟を恨むようなことはありませんでした。
兄弟愛は終生続き、後年、ナポレオン軍に全財産を奪われたミヒャエルの援助もしています。
ミヒャエルとモーツァルトとの交流は次の記事に書きました。
www.classic-suganne.com
あやうく去勢されそうになったハイドン
しかし、ひとつだけ、ボーイソプラノを一生キープする方法がありました。
それは、カストラート(去勢歌手)になることです。
少年のうちに、手術で精巣を取り除けば、男性ホルモンが分泌されなくなり、声変わりがストップします。
そして、大人の肺活量、声量でボーイソプラノが出せるようになり、その蠱惑的で圧倒的な美声は、イタリアオペラの主役となってもてはやされていました。
バロック時代に最盛期を迎え、非人道的ということでだんだん廃れてきてはいましたが、モーツァルトの時代までは残っていました。
当然、子孫は残せなくなります。
ヨーゼフはあやうく、ロイターによってカストラートにされそうになり、父親によって阻止されたのです。
伝記作家グリージンガーは次のように伝えています。
当時ウィーンの宮廷や教会には、まだたくさんのカストラートがおり、カペルハウスの楽長は疑いもなくこれで若いハイドンの幸運を招くことができると信じた。彼はハイドンをソプラニストにするという計画を抱き、父親に承諾を求めた。この提案にまったく反対だった父親は、ウィーンへの道をいそいだあげく、もう手術が始まって取り返しのつかないことになっているのではないか、という考えにとりつかれた。彼は部屋に飛び込んできて、息子の姿を認めるや否や、息をはずませながらたずねた。『ゼッパール(ヨーゼフの愛称)や、具合は悪くないか、まだ歩くことはできるか?』幸いなことに息子が無傷なのを知ると、すべてこの種の屈辱的な申し出に対して抗議した。その場に一人のカストラートが居合わせたことがますます彼の決意を強めさせたのであった。
カストラートにされることはなくなりましたが、声変わりしたハイドンが合唱団にいられなくなるのも時間の問題となりました。
楽長ロイターも、そんな彼にとってよかれと思って提案したのですが、激しい父親の抗議にあって、せっかく将来を心配してやったのに、と悪く思ってしまったようです。
ハイドンに、合唱以外の職を与える、たとえばヴァイオリン奏者として雇うなどもできたはずですが、何もしてくれませんでした。
あまりにも大きな、いたずらの代償
そして、ついに、その日がやってきました。
伝記作家ディースが次のように伝えています。
ハイドンの犯したちょっとした失策が、解雇を早めることになった。当時の合唱童児のふつうの装いかたと違って、長い髪を編んで垂らしている少年がひとりいた。ハイドンはその子の髪をちょん切ってしまうという大変ないたずらをやってしまったのである。これに対してロイターは、平手打ちの罰をくらわす、と怒った。懲罰の瞬間がきた。ハイドンは何とかして罰から逃れようとして、もし罰を加えないなら合唱団を辞めてすぐ出てゆく、と宣言してしまったのである。『そんなことを言ったって駄目だ。まず罰だ。それから出てゆけ!』とロイターはやり返した。ロイターは言ったとおりにした。こうして解雇された少年は、希望もなく、金もなく、支給品のシャツ3枚と着古した外套だけを持って、大きな未知の世界へと出ていった。
1749年11月の雨の降る夜のことだったそうです。
私も小学校3年か4年の頃、理科の実験の最中、電池のプラスとマイナスをつないで熱くなった電線を、クラスの女の子の腕に押し付けて火傷を負わせるという悪戯をしでかし、女性担任教諭に平手打ちをくらった記憶があります。
それで、やらかしたことの重大性を思い知ったのですが、今だったら逆に先生が体罰で咎められるのでしょうね。
私は退学にはなりませんでしたが、ハイドンは身寄りもなく、裸一貫で冬の近づくウィーンの街にほっぽり出されたのです。
17歳のときのことでした。
侵攻の予感、的中する
さて一方、女帝マリア・テレジアの物語です。
宿敵、プロイセンのフリードリヒ2世(大王)との死闘、七年戦争の経過を追っていきます。
オーストリア、ロシア、フランスの〝3女帝同盟〟が結ばれたことを知ったフリードリヒ大王は、機先を制してドイツの領邦中立国ザクセンに攻め込みます。
ザクセンに駐留していたオーストリア軍のブロウネ将軍は、国境にプロイセン軍が集結しているのを知り、侵攻の気配あり、とウィーンに注進していましたが、ウィーン政府では、まさか向こうから攻めてくることはないだろう、とタカをくくり、特に手は打ちませんでした。
将軍の予想は当たり、1756年8月29日、フリードリヒ大王は自らプロイセン軍を率いてザクセンに侵攻、首都ドレスデンを陥落させ、ザクセン軍の主力をピルナで包囲します。
フリードリヒ大王の作戦は、まずザクセンを併合して軍と物資を増強し、ハプスブルク家領のボヘミアに進軍してオーストリアに打撃を与えつつ、シュレージエンからモラヴィアに侵攻してそのまま電撃的にウィーンを衝き、ロシア軍やフランス軍が来援する前にオーストリアを降伏させ、戦争を終わらせることでした。
オーストリア軍のブロウネ将軍は、ボヘミアを防衛することと、包囲されたザクセン軍を救うことの、2方面作戦を強いられます。
ブロウネ将軍は、ボヘミアの街ロボジッツに布陣し、プロイセン軍を迎え撃つ体制を整えようとします。
ロボジッツの戦い
1756年10月1日、両軍は霧で視界不良の中、小競り合いを始めます。
フリードリヒ大王は、軍の半分をザクセン軍包囲に回しているので、劣勢を覚悟していました。
しかし、オーストリア軍も後衛の到着が遅れていて、大王の見積もりの半分の兵力しかいませんでした。
お互いよく状況をつかめていないまま、だんだんと闘いが激しくなってゆき、「前衛が崩れたら命令を待たずに突撃すべし」というルールを持っていたプロイセン騎兵が、大王の『勝手に行くなあー!!!』と叫ぶ声も届かず、セオリー通り無茶な突撃を開始してしまい、大損害を蒙るという場面もありました。
大王が、頭から血を流して傷ついた近衛騎兵にハンカチを渡すと、この騎兵は感激して『このハンカチはもう戻らないでしょうが、私はこれから敵のところに戻ってその分の償いをさせてやります』と言って戦場に戻りました。
戦後、大王がこの騎兵を探すと、王のハンカチを頭に巻いたまま壮絶な戦死を遂げていたそうです。
実際、オーストリア軍は、女帝マリア・テレジアが心血を注いで改革した結果、オーストリア継承戦争のときとは見違えるほど精強になっていました。
フリードリヒ大王はこの戦いは負けとみて、後始末を幕僚に命じて自身は後方に退きました。
ヨーロッパ版〝山崎の合戦〟
しかし同時刻に、プロイセン軍は、ロボジッツの街を見下ろすロボシュ山を激闘の末、奪うことに成功していました。
この山は、まさに〝天王山〟で、形勢は一挙に逆転、有利な地形を利用してプロイセン軍は反撃に出、ロボジッツの街に突入しました。
この戦いは、戦史上、豊臣秀吉が明智光秀を破った「山崎の合戦」に似ているとされています。
街は火の海となり、熾烈な白兵戦の結果、オーストリア軍は町から追い出され、エルベ川に追い落とされて多数が溺死しました。
ブロウネ将軍は街が占領されたため、敗軍を率いて退きましたが、プロイセン軍も占領がやっとで、追撃する余力はありませんでした。
フリードリヒ大王は、辛うじて勝ったものの、オーストリア軍が見違えるほど精強になっていることを思い知り、「今後、彼らに多数の砲を向けることが出来ない場合には、勝利するにしても多大の損害を被らざるを得なくなるだろう」と述べています。
女だと侮り、楽勝でいけると思っていた女帝との戦いが、予想を超えて困難なものになることを思い知ったのです。
さて、今回もハイドンの若い頃の作品を聴いていきます。
Joseph Haydn:Symphony no.12 in E-Major, Hob.I:12
演奏:ジョヴァンニ・アントニーニ指揮 イル・ジャルディーノ・アルモニコ
1763年、エステルハージ家の副楽長時代の作品と考えられています。大貴族のオーケストラを自由にすることができたハイドンは、様々な実験を繰り返していました。この作品も、シャープが4つもつく、この時代のシンフォニーには珍しいホ長調で作曲されており、〝お試し〟感のある野心作です。
冒頭、ほとんどユニゾンに近い、弦のゆっくりした、愛想のよい弱奏で始まります。のちの、ハイドンの壮大な序奏のはじまりといえます。そしていきなり、フォルテによるメインテーマにつながります。第2主題は流れるように爽快で、ホルンの合いの手も絶妙です。展開部は一転深刻な短調になりますが、あっという間に終わり、再現部になるかと思いきやそれも定石から外れていきます。ハイドンの後期シンフォニーでよく使われ、聴衆に肩透かしを与えて意表を突く「疑似再現部」の初期の例です。老いてもずっと〝いたずら好き〟だったハイドンの性格がよくわかる1曲なのです。
この時期のシンフォニーでアダージョというのも珍しく、さらにホ短調という調性も異例です。リズムは一般的なシシリアーノですが、いきなりフォルテが炸裂するなど、ドラマチックな仕立てになっています。不協和音、半音階、疑似終始など、ただの〝序曲〟ではありえない仕掛けが満載で、主君のエステルハージ侯も目を丸くしたと思われます。しかし、こうした実験を、主君が喜んでいたからこそ、できたことです。
第3楽章 フィナーレ:プレスト
前楽章の不安を一気に払拭するかのような明るく楽しいフィナーレです。しかし、それも単純な作りではなく、これからどうなってしまうの?といった意表を突く展開が続きます。まるで、疾走する馬車がコントロールを失って走り続けていくようなハラハラ感があります。若いハイドンの創意は留まることを知りません。
動画は、同じくアントニーニのハイドン2032プロジェクトから、今回はイル・ジャルディーノ・アルモニコとのです。
www.youtube.com
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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