孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

国際法を無視して侵攻し、敗れた大王。ハイドン『交響曲 第15番 二長調』

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コリンの戦いに敗れたフリードリヒ大王

寒雨の降る街を…

声変わりで美しいボーイソプラノを失い、ウィーンのシュテファン大聖堂少年合唱団をお払い箱にされたヨーゼフ・ハイドン青年

最後には、悪戯をして楽長ロイターから平手打ちをくらい、わずかな荷物を持って、8歳から9年間暮らした寄宿舎、合唱長住宅(カペルハウス)から、寒空のウィーンの街に出ていくことになります。

時に、七年戦争が始まる7年前、1749年11月の雨の降るある夜のことでした。

ハイドン17歳

思えば、5歳のときに家を出て以来、家庭生活とは無縁で、常に他人の中で過ごしてきました。

しかし、いまさら生家に戻る、という選択肢もありませんでした。

姉のフランチェスカが結婚することになり、両親は貯金のすべてを持参金として持たせなければならず、とても余裕はなかったのです。

ハイドンの母は、『合唱団などに入らず、聖職者の道に進んでいれば、食いっぱぐれることはなかったのに…』と嘆きましたが、ハイドンには音楽の道以外は考えられませんでした。

伝記作家のガイリンガーは、『彼は音楽家になろうと欲した。それも単にふつうの演奏家ではなく、真の作曲家になろうと志したのである。』と記しています。

胸の内は、自分のなかの才能を信じ、希望に燃えていたのです。

ハイドンの頭の中には、あまたの新しい発想が、次から次へと天啓のように溢れていたに違いありません。

彼の若い頃の作品は、それがほとばしり出たものなのです。

流しの楽団に

とはいえ、目先の問題として、まずは今夜の宿を見つけなければなりません。

彼は、まるでマッチ売りの少女のように、冷たい雨と寒風が吹きすさぶ初冬のウィーンの街を、あてもなく彷徨い歩きました。

しかしほどなく、救いの手が差し伸べられました。

ミヒャエル教会の聖歌隊で、テノール歌手のヨハン・ミヒャエル・シュパングラーという人が、一夜の宿を提供しようと、彼を見つけて申し出てくれたのです。

ハイドンは、彼の家の屋根裏部屋に寝泊まりすることができました。

結局、半年の間、そこに滞在することになります。

しかし、シュパングラー氏も、前年に結婚したばかりで、9ヵ月の幼児をかかえており、食事の世話までできる余裕はありません。

ハイドンは、収入の道は自分で探さなければなりませんでした。

彼はそこで、「ガサティム」の一員になりました。

それは〝巷流し〟の楽団です。

流しといっても、なかなか立派な編成で、セレナーデディヴェルティメントといった、ちゃんとした管弦楽曲を戸外で演奏し、ウィーンの街では大変な人気があったのです。

ガイリンガーは次のように伝えています。

天気のよい夏の宵には、どんな時間でも、街頭でセレナーデに出遭うだろう。これは、イタリアやスペインのような、歌い手ひとりとギター1挺といったたぐいのものではない。またここでは、セレナーデは愛の告白の手段でもない。そのためにはウィーンっ子は、もっとよい機会をもっている。こうした夜の音楽は、トリオや四重奏や木管合奏などで演奏され、かなりのレベルの曲が弾かれる。高貴な婦人の誕生日などには、この種の楽しみがたくさん行われる。どんなに遅い時間でも、ひとたびセレナーデが聞こえてくると、たちまち窓という窓には人が鈴なりとなり、数分後には喝采する群衆が音楽家たちを取りかこんでいるのである。*1

さすが、音楽の都ウィーンです。

「ガサティム」は、貴族や裕福な市民から、誕生日などのイベントで雇われ、戸外で演奏し、街の人々も集まってきて一緒にお祝いし、楽しんだのです。

モーツァルトも、誕生日のサプライズで、いきなり自作のセレナードが窓の外で演奏され、びっくりしたというエピソードを以前ご紹介しました。

www.classic-suganne.com

宮廷や貴族の館でしか演奏されないハイレベルな音楽を、市民が楽しめる貴重な機会だったのです。

そして、ハイドンはこの楽団のために自分の曲を提供しました。

報酬はわずかでしたが、自作を発表する機会ができたのは非常に貴重なことで、ウィーンの街のポピュラーミュージックのエッセンスも取り入れながら、さらに創作のファンタジーを拡げていくことができたのです。

ハイドンの音楽が常に上機嫌で、人を楽しませることに徹底しているのは、このような〝現場〟で、生の聴衆の反応を見ながら試行錯誤を繰り返すことができたことによります。

義弟に運命を託した女帝

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カール・フォン・ロートリンゲン公子

さて一方、女帝マリア・テレジアと、プロイセンフリードリヒ2世(大王)との死闘、七年戦争の経過をたどります。

マリア・テレジア外交革命によって、不利な国際情勢に追い込まれたフリードリヒ大王は、先制攻撃で事態を有利にしようと、いきなり中立国のザクセンに侵攻します。

国際法を無視した暴挙に諸国は驚愕。

プロイセンと軍事同盟を締結したばかりの英国でさえ驚きますが、同盟の義務から、しぶしぶ緊急資金援助を行います。

オーストリア軍のブロウネ将軍は、ロボジッツの戦いで敗北し、ザクセン軍の救出に失敗します。

ザクセン軍は降伏し、プロイセン軍に無理矢理編入させられます。

そして、余勢を駆って、マリア・テレジアが王位を兼ねているボヘミアを併呑すべく、首府プラハに進軍します。

これに対し、マリア・テレジアは、夫の皇帝フランツ1世の弟、カール・フォン・ロートリンゲンを総司令官に任命し、大軍を与えてプラハ防衛に向かわせます。

カール公子は、人柄がよいことで評判が高く、マリア・テレジアもこの義弟を可愛がっていました。

そして、手柄を立てさせようと、事あるごとに司令官に取り立てます。

それは、オーストリアにとって〝よそ者〟である夫ロレーヌ家(ロートリンゲン家)を、何とか〝救国の英雄〟にして、オーストリア人に受け入れてもらいたいという狙いがありました。

しかし、カール公子は、残念ながら軍事の才能は薄く、肝心なところで詰めの甘い〝凡将〟だったのです。

国家の命運がかかった戦いで、英明なマリア・テレジアが、なぜ何度もこのような情実人事を行ったのか、歴史の謎とされていますが、彼女なりの政治的判断ではありました。

プラハの戦い

カール公子は、ブロウネ将軍から、プラハを直接防衛するのではなく、空いたザクセンに攻め込んで主導権を取るべき、と進言します。

中国兵法でいう〝魏を囲んで趙を救う〟という戦略です。

しかし、カール公子はこのような奇策は好まず、ブロウネ将軍の進言を退け、定石通りプラハ城外でプロイセンを迎え撃ちます。

戦いは激戦となり、ブロウネ将軍は討ち死にし、カール公子は1万7千の死傷者、捕虜を出して、残りの軍4万とともにプラハ城内に逃げ込み、立て籠もります。

ただ、プロイセンの方も1万4千の兵を失い、〝一騎当千〟と讃えられた歴戦の老将シュヴェリーン元帥も戦死します。

72歳のシュヴェリーン元帥は、七年戦争の開始に反対し、フリードリヒ大王に、オーストリア軍が格段に強くなっていることを告げ、『この戦いはプロイセン王国に災いをもたらすことでしょう。できれば避けるにこしたことはありません。』と進言していたのです。

フリードリヒ大王は勝ったものの、オーストリアとの戦争は、当初思っていたような〝楽勝〟ではとても済まないことを痛感します。

コリンの戦い

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コリンの戦い(突撃するオーストリア騎兵)

フリードリヒ大王はプラハを包囲し、カール公子に降伏を勧告。

しかし、モラヴィアを守備していたダウン将軍の援軍を期待して、公子はこれを拒否します。

ダウン将軍は、マリア・テレジアの改革の中で軍事部門を担当し、諸侯の連隊の寄せ集めであったオーストリア軍を、統制の取れた近代軍に変えた立役者です。

プラハの戦いには間に合いませんでしたが、4万の軍に、逃げてきたオーストリア兵を加えて体制を立て直し、プラハ郊外のコリンの丘に布陣します。

フリードリヒ大王は、プラハ包囲軍から一部を割き、ダウン将軍に決戦を挑みます。

時に、1757年6月18日。

結果は、プロイセン軍、初の大敗

フリードリヒ大王の不敗神話はここで崩れました。

プラハは解放され、ダウン将軍は敗走するプロイセン軍を追撃して、オーストリア継承戦争で奪われたシュレージエン(シレジア)の主要地を奪回したのです。

マリア・テレジアは、勝報を聞いて、夢にも忘れたことがなかったシュレージエンが戻ってきたことに感涙にむせびました。

そして、ダウン将軍に感謝の手紙を送ります。

6月18日。王朝の誕生日。ダウン伯爵。私は心の奥底から、本当に嬉しい気持ちをあなたに伝えないでは、今日という大きな1日を過ごすことはできません。王朝が維持されるのはあなたのおかげです。そして私の生存、私の素晴らしい軍隊、私のただ一人の愛しい義弟が救われたのもあなたのおかげです。私が生きている限り、決してこの気持ちは私の心と記憶から去ることはないでしょう。*2

マリア・テレジアは、ダウン将軍の功績を顕彰するため、勲章を創設。

これが、オーストリア最高の勲章であるマリア・テレジア軍事勲章」で、対象者の身分も民族も問わず、純粋に軍事上多大の功績を挙げた者に授けられるとされました。

しかし、第1号はダウン将軍ではなく、カール公子とされました。

彼の立場を守る上でやむを得ない〝配慮〟だったのです。

しかし、これで引き下がるフリードリヒ大王ではありません。

マリア・テレジアの喜びは、つかの間で終わってしまうのです。

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皇帝フランツ1世からマリア・テレジア軍事勲章を授与されるカール公子とダウン将軍

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コリンの敗戦に打ちひしがれ、善後策を考えるフリードリヒ大王

さて、引き続きハイドンの若い頃の作品を聴いていきます。

ハイドン交響曲 第15番 ニ長調

Joseph Haydn:Symphony no.15 in D-Major, Hob.I:15

演奏:ジョヴァンニ・アントニーニ指揮 イル・ジャルディーノ・アルモニコ

第1楽章 アダージョープレストーアダージョ

このシンフォニーの作曲年代は不明ですが、1761年くらいと推定されています。コリンの戦いの4年後です。少なくともエステルハージ家に雇われる以前の作品です。実に個性的、奇抜な構成になっていて、他に似た作がありません。若きハイドンが、色々な工夫や実験に取り組んでいたことがよく分かります。

第1楽章は、ゆっくりー速いーゆっくり、のサンドイッチになっています。イタリア式であれば、速いーゆっくりー速い、ですし、フランス式なら、ゆっくりー速い、で終わりです。これはどれにも属しません。

導入のゆっくりしたアダージョは、どこか神秘的で、引き込まれてしまいます。ホルンが、協奏曲に近いような役割を果たし、低弦はピチカートを奏で、旋律はその上をゆったりと流れます。時間が止まったかのようです。

聴き惚れていると、いきなり、元気なプレストの嵐が始まり、意表を突かされます。この変転に驚かない人はいないでしょう。そして、何事もなかったように、再び冒頭のアダージョに戻りますが、これによって、アダージョは単なる序奏や導入部ではなく、曲の本質の一部であることが明白となります。

第2楽章 メヌエット

このシンフォニーでは第1楽章は型破りですが、それ以外の楽章はスタンダードなものです。しかし、並び方と構成は異例な形になっています。このメヌエットはギャラント様式で、実に明るく、陽気です。トリオは、2部のヴァイオリンが、ヴィオラ、チェロと交互に優しく掛け合います。チェロがヴィオラよりも3度高く書かれていて、音色の新しさも追求されています。

第3楽章 アンダンテ

第1楽章のアダージョのような深みはなく、明るくサラッとした印象の、軽い緩徐楽章です。冒頭アダージョとの対比が工夫されています。

第4楽章 フィナーレ:プレスト

明るく元気なフィナーレで、第1楽章中間部のプレストと対応し、これでハイドンが狙った全曲の演出効果を実感することができます。中間部をもったダ・カーポ形式で、その中間部は短調の陰が差し、深みを感じます。ハイドンが人の意表を突き、楽しませようという精神が横溢した作品です。

 

動画は、同じくアントニーニのハイドン2032プロジェクトから、今回はイル・ジャルディーノ・アルモニコとのです。  


www.youtube.com

今回もお読みいただき、ありがとうございました。

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