
エステルハージ城(ガランタ)
ハイドンを30年にわたって雇用したエステルハージ侯爵家については、これまでも何度も触れてきましたが、あらためてその家史を紐解いてみます。
エステルハージ家は、ハンガリー王国の北に位置する、ガランタという町の地主でした。
ガランタは今ではスロバキア領になっていますが、1421年以降、エステルハージ家の私有都市になっています。
今でも同家のルネサンス様式の荘園邸宅(マナーハウス)と、ネオ・ゴシック様式の城館が残っており、その勢力の大きさが窺われます。

エステルハージ家のマナーハウス(ガランタ)
初代、ニコラウス伯

エステルハージ・ニコラウス
17世紀前半、ハンガリーは、度重なるオスマン・トルコの侵攻により、ハプスブルグ家が王となっている王領ハンガリーと、オスマン・トルコ直轄領、オスマン・トルコの保護国であるトランシルヴァニア公国の3つに分裂していました。
そのような中、当主ニコラウス(1583-1645)が、プロテスタントからカトリックに改宗し、ハプスブルク家に味方して、トルコから故地を取り戻すべく戦い、戦功をあげて、1625年にパラティン(ハンガリー副王)に任じられます。
そして翌年には伯爵の爵位を与えられて、エステルハージ家の台頭が始まります。
彼は、自分の宮殿にハープ奏者を一人常置させ、音楽を愛好する同家伝統のはしりともなります。
ちなみに、アジアの遊牧民族マジャール人を中心とした国であるハンガリーは、ヨーロッパではありますが、姓名は日本、中国、朝鮮と同じく、姓が先、名が後になります。

エステルハージ・パウル
その子、パウル(1635-1713)は、さらにハプスブルク家に忠誠を誓い、オスマン・トルコの第2回ウィーン包囲の撃退と、それに続く大トルコ戦争で、多くの地域をトルコから奪還する戦功を上げ、父同様パラティンに任じられ、オーストリア軍元帥となり、〝バロック大帝〟皇帝レオポルト1世により、父を上回る侯爵に昇爵されます。
パウル侯は、ハンガリー貴族たちにハプスブルク家支持を働きかけ、もともと選挙制だったハンガリー王位を、オーストリアの皇帝が自動的に兼ねるという慣習法を定着させることに尽力しました。
まさに、ハプスブルク家にとって、これほど頼りになる味方はいなかったでしょう。
侯爵位は、マリア・テレジアの父カール6世によって、世襲が認められました。
パウル侯は、君主としても気宇壮大で、1683年にアイゼンシュタットに壮麗な居城を建設しました。
見事なバロック様式で、客人のための部屋が200室もあり、フレスコ画で飾られた接見の間や、教会、図書館、画廊を併設していました。
庭園も広大で、斜面を利用し、噴水、洞窟、池、木立で素晴らしい景観を形作っていました。
熱心な芸術保護者でもあり、絵画や武器の膨大なコレクションを所有。
ことに音楽愛も強く、自身も作曲を行い、1711年には、教会暦の全ての休日のための管弦楽つき教会用讃歌集を出版しました。
これは、大バッハと同じ仕事です。
エステルハージ家楽団を創設したのも彼で、ハイドンが就職したのは、このアイゼンシュタットの宮殿であり、その楽団に他なりません。
同家はほとんど王に匹敵するほどの富と力を持っており、その所領は29の地域、21の城、6つの市場町、ハンガリーだけでも414の村落を持ち、オーストリアやバイエルンにも領地を有していました。
三代目、ミヒャエル侯

エステルハージ・ミヒャエル
パウルの死後、爵位は長子ミヒャエル(1671-1721)が継ぎましたが、彼も父の影響か、大変な音楽好きでした。
父パウル侯は、1692年にビッグイベントとしてマリアツェルへの巡礼を企画し、1万1200人の人々が参加し、6日間歩き通しましたが、その際、合唱の先導用に、トランペット奏者とティンパニ奏者を雇っていました。
これはアウトドア音楽用です。
ミヒャエル侯はこれに、教会用やターフェルムジーク(食卓の音楽)用の音楽家を雇い入れ、さらに楽団を拡張しました。
声楽も充実させ、ボーイソプラノの合唱童児6人に、カストラート(去勢歌手)1名、ソプラノ歌手1名を雇いました。
四代目、ヨーゼフ侯

エステルハージ・ヨーゼフ
ミヒャエル侯は1721年に逝去しましたが、子が無かったため、弟のヨーゼフ(1688-1721)が後を継ぎました。
しかし、同じ年に死去。
その長子のパウル・アントン(1711-1762)が侯爵位を継ぎましたが、まだ未成年だったため。母親のマリア・オクタヴィアが後見人として所領を治めました。
彼女も、聖歌隊と楽団を増強したのです。
歌手はソプラノ1名、テノール1名、カストラート1名、バス2名の5人で、楽団はヴァイオリン2、チェロ1、ファゴット1とオルガンでした。
ハイドンの上司、楽長のヴェルナーが就任したのもこの時代、1728年のことです。
五代目、パウル・アントン侯

エステルバージ・パウル・アントン
パウル・アントン侯は、母親の影響もあって音楽を熱愛し、自らヴァイオリンとチェロを弾きました。
さらに、一人前の当主となるための研修旅行(グランド・ツアー)で、ドイツやイタリア各地を旅しましたが、その際膨大な量の楽譜を収集し、持ち帰りました。
それは、オペラ、セレナータ、パストラーレ、器楽作品と、広範なジャンルに及びました。
しかし、1734年に成人し、親政を始めてからは、しばらく公務多忙で好きな音楽に携わる時間はありませんでした。
1750年にはマリア・テレジアからナポリ大使に任じられ、七年戦争では完全装備の軽騎兵連隊を提供し、オーストリア軍元帥として活躍しました。
戦争が長引き、膠着状態になると、ようやくパウル・アントン侯はアイゼンシュタットに落ち着き、再び楽団の拡張に乗り出します。
フルート、オーボエ、トロンボーン奏者を加え、さらに1761年に、新進気鋭の若き音楽家ハイドンを、副楽長として召し抱えたのでした。
これによって、エステルハージ家の音楽は、君主の道楽の域を脱し、ヨーロッパトップクラスのハイレベルなものになっていったのです。
十女マリア・カロリーナの生涯(前編)

十女マリア・カロリーナ
さて、女帝マリア・テレジアの娘たちの生涯を引き続き追っていきます。
今回は、1752年に生まれた、十女マリア・カロリーナ(1752-1814)です。
彼女は、幼い頃から優秀で、成績もよく、しっかり者でした。
一方、かなり頑固で気も強く、マリア・テレジアは、自分の娘たちの中で、一番自分に似ている、と感じていたそうです。
実際、母親に似た波乱の人生を送ることになります。
当初、彼女は、フランス王太子、後のルイ16世の妃に内々定していました。
フランス・ブルボン家との同盟を永劫的なものとするのが、マリア・テレジアの外交基本方針でしたので、本家本丸、フランス王妃をハプスブルク家から出す、というのは、彼女の戦略の完成を意味します。
マリア・カロリーナが、大国の王妃が十分務まる器量の持ち主であることは、誰もが認めるところでした。
フランス王妃になるはずが、ナポリ王妃に
しかし、運命の歯車は、別な展開をもたらします。
ナポリ王に嫁ぐはずだった、マリア・ヨゼファが、1767年、出立直前に天然痘で急逝してしまったのは、前回のお話でした。
ブルボン家であるナポリ王家との縁組みも、マリア・テレジアの至上課題でしたから、これでお流れにはできません。
そもそも、さらに上の姉、マリア・ヨハンナ・ガブリエーラが最初の候補だったのですから、ナポリ王妃候補は次々に亡くなったわけです。
そして、マリア・カロリーナが急遽、姉の代わりにナポリ王のもとに嫁ぐことになりました。
これは、マリア・ヨゼファの死の際、ウィーンに居合わせたモーツァルトの父レオポルトが予想した通りです。
そして、マリア・カロリーナが嫁ぐはずだったフランス王太子、のちのルイ16世のもとには、妹マリア・アントニア(マリー・アントワネット)が嫁ぐことになります。
マリー・アントワネットは、決して、巷間言われているような悪女ではなく、平凡なごく普通の女性でした。
ただ、大国の王妃としては、常識、器量、素養に欠け、振る舞いや言動が軽率だったために、フランス革命の引き金を引いてしまったと考えられます。
予定通り、政治家としての力量を備えたマリア・カロリーナがフランス王妃になっていたら、フランス革命は起こらなかったかもしれない、とも言われていますが、歴史のIFは証明のしようはありません。
歴史を変えた縁組み
マリア・カロリーナとマリア・アントニアは3歳違いでしたが、同じ部屋で育てられ、とても仲が良い姉妹でした。
姉が急に嫁入りすることになってしまい、マリア・アントニアは大ショックで、日夜泣いていたと伝えられています。
賢明なマリア・カロリーナは、自分がナポリ王に嫁がなければならない政治的理由を十分理解し、自分の感情は押し殺して、後ろ髪を引かれる思いでナポリに旅立ちました。
仲良し姉妹もこれが永遠の別れとなってしまいます。
途中、フィレンツェで、父フランツ・シュテファンの後を継いで、トスカーナ大公になっていた次兄レオポルト(のちの皇帝レオポルト2世)と落ち合い、彼のエスコートでナポリに向かいました。
花婿はおバカさん…

ナポリ王フェルディナンド4世
時のナポリ王はフェルディナンド4世(1759-1816)。
当時、イタリア半島の南半分を支配していたナポリ王国と、シチリア島を中心としたシチリア王国は別の国でしたが、同じ王を戴く同君連合となっていました。
19世紀になってから合併し、両シチリア王国となりますが、この時点ではシチリア王としてはフェルディナンド3世です。
反抗娘マリア・アマーリアが嫁いだパルマ公もそうでしたが、この頃のブルボン家の男性君主たちは、どうもレベルが低い人が多いです。
王はバカな方が操りやすい、と廷臣たちが甘やかしたのか、近親結婚のためなのか分かりませんが、フェルディナンド4世も、粗野で無教養、マナーもわきまえない若者でした。
花嫁、花婿が初めて対面したとき、マリア・カロリーナは、ある程度覚悟していたとはいえ、フェルディナンドの醜さに鳥肌が立ち、思わずゾワッとしてしまいました。
花婿の方も、マリア・カロリーナが肖像画と違って全然美人じゃないことに、あからさまにがっかりしていました。
対面の場に居合わせた兄レオポルトは、あまりに凍りついた場の雰囲気に、母マリア・テレジアに『王国をまるまるひとつ貰うとしたって、私はもう二度とあのような場面には立ち会いたくはありません。』と書き送りました。
そして迎えた新婚初夜。
翌日マリア・カロリーナは、同じく母に手紙で『昨夜、私の身に起こったことを再体験するくらいなら、死を選びます。』と泣きついています。
しかし彼女は、姉マリア・アマーリアのように、不倫に走ったり、気晴らしの贅沢をしたりして、反抗することはありませんでした。
そんなことをしても何の解決にもなりません。
運命に前向きに立ち向かうことにしたのです。
ダメなダンナなら、言いなりに
彼女は、ダメな夫を再教育し、ちゃんとした君主にするとともに、自分の言うことを何でも聞く男に仕立てていくことにしました。
例えば、ナポリ名物のパスタを、庶民と同じように下品に手づかみで食べていた夫に、フォークで食べるよう〝指導〟しました。
スパゲティをフォークにくるくると巻きつけて食べるようになったのは、マリア・カロリーナの発案によります。
さらに、結婚の契約では、彼女が世継ぎを生むことができたら、摂政として王国の政治に関与できる、と定められていました。
そのため、夫の気に入るよう、趣味である狩猟に、自分は全く興味がないにもかかわらず我慢して付き合い、共通の趣味をもった仲間と思わせ、王の愛情と信頼を獲得していきました。
夫が〝手袋をした女性の手フェチ〟であることを見つけ、王に言うことをきかせるときは長手袋の手を差し出して、キスをさせました。
王はうっとりとして、何でも王妃の言うことをきいた、と言われています。
彼女は王のことを『かわいいおバカさん』と呼んでいたということです。
完全に夫を支配下に置いた彼女は、王との間にたくさんの子を作りました。
実に、多産であった母マリア・テレジアをしのぐ、18人を出産したのです。
男子も生んだため、名実ともに政治に関与する権利を得て、ナポリ・シチリア王国を領導していくことになります。
夫は、結婚前も政治に全く興味がないばかりか、面倒くさがり、王の署名が必要な重要書類には、自分のサインのスタンプを作って臣下に渡し、勝手にどんどん捺させていたといいます。

リラ・オルガニザータ
そんな無教養だったフェルディナンド4世は、音楽にも興味はありませんでしたが、マリア・カロリーナの働きかけによって、オーストリア公使館の参事官であったノルベルト・ハドラヴァから、「リラ・オルガニザータ」という楽器を学びました。
妻の勧めに全面的に従う王は、これを練習するうちに、面白くなってしまい、腕前はなんと名手の域に達したのです。
「リラ・オルガニザータ」は、18世紀に流行した楽器で、機械仕掛けのヴァイオリン、ハーティ・ガーティの一種です。
構造は複雑で、内部に小さなオルガンがあり、鍵盤がついており、弦を押さえることによってオルガンに空気が送り込まれて音が出ます。
王は習熟するにつけ、もっといい曲を演奏したくなりました。
そして、マリア・カロリーナのつてで、エステルハージ侯爵家の高名な楽長、ハイドンに、リラ・オルガニザータ用の作曲を依頼したのです。
ハイドンは王のために、6曲(現存は5曲)のリラ・オルガニザータ・コンチェルトと、リラ・オルガニザータを含む九重奏のためのノットゥルノを9曲作曲しました。
後年の1790年、ハイドンが、30年仕えたエステルハージ家を退職し、フリーになったとき、各地の王侯から招聘のオファーが来ましたが、一番熱心にラブコールを送ったのは、このナポリ王フェルディナンド4世でした。
ハプスブルク家の王妃がいることもハイドンの心を動かしましたが、彼は最終的には、もう宮仕えの再雇用はしないと決断し、フリーのままロンドンの興行主ザロモンの企画に乗って、ロンドンに行ってしまいます。
ちなみに、リラ・オルガニザータは当時としてもマイナーな楽器だったため、ハイドンはロンドンで、ナポリ王のために作ったリラのための曲を、フルートやオーボエに編曲して演奏しました。
現在でも、オルガン等で代用して演奏されることが多く、本物の楽器を使用した録音は数少ないです。
さて、実質的に〝ナポリ女王〟となったマリア・カロリーナの前に、フランス革命の嵐が襲います。
彼女はどのように立ち向かっていったのか、それは次回に。
それでは、ハイドンのエステルハージ侯爵家時代のシンフォニーを聴いていきます。
Joseph Haydn:Symphony no.38 in C major, Hob.I:38 “Echo”
演奏:トレヴァー・ピノック指揮 イングリッシュ・コンサート
ハイドンのシンフォニーは、総じて明るく楽しいものですが、特にハ長調は、能天気といえるくらい、底抜けに愉快なものがあります。この作品はその代表例といってよいでしょう。チンドン屋(もうすっかり見なくなりましたが…)のように賑やかでおどけた調子で底抜けに陽気。何のために作曲されたのかは分かっていませんが、祝祭用であることは間違いありません。『マリア・テレジア』という愛称のついた第48番も同じタイプといえます。何か楽しい劇の序曲であった可能性も指摘されていますが、確証はないです。トランペットとティンパニのパートは、あとから追加されたものですが、それがハイドンの手によるものなのか、他人によるものかも分かっていません。曲の性格からいって両者は不可欠ですが、最初に演奏された際には欠けていたのかもしれません。展開部はイ短調を取り、シリアスな感じになりますが、それでも楽し気な雰囲気を壊すものではありません。
第2楽章 アンダンテ・モルト
管楽器は外れ、弦楽器だけの緩徐楽章です。弱音器をつけた第2ヴァイオリンが、第1ヴァイオリンのフレーズの最後を繰り返し、エコーのように反復します。そのため、この曲は『エコー』『こだま』と呼ばれています。これも道化芝居のようにおどけた楽しい効果です。モーツァルトも、後に4チャンネルでエコー効果を狙った『ノットゥルノ』を作曲していますが、ハイドンのこの曲を参考にしたかもしれません。
元気ですが、意外に心に響くメヌエットです。目玉はトリオで、ヘ長調でオーボエのソロが活躍します。唐突な感じで意表を突かれます。
第4楽章 フィナーレ:アレグロ・ディ・モルト
再び、第1楽章の祝祭に戻っていきます。軽快なテーマで歩き出したかと思うと、対位法的な重厚な音楽になり、同じハ長調の、モーツァルトのジュピターを思わせます。そうこうするうち、メヌエットで活躍したオーボエのソロがまた入ってきて、陽気に歌い出し、オーボエ・コンチェルトのような趣きになります。まさに変幻自在なフィナーレです。
エステルハージ家に響いた、底抜けに平和な音楽です。
www.classic-suganne.com
今回もお読みいただき、ありがとうございました。


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