斜に構えたお世継ぎ王子
その出生で、ハプスブルク家の帝国を救った王子、ヨーゼフ2世は、極度に甘やかされる一方で、高度な教育を受けながら、順調に成長していきました。
しかし、母帝マリア・テレジアは、育つにつれて、息子の欠点が気になるようになりました。
おもちゃの兵隊や馬で戦争ごっこに夢中になっていること。
何かにつけて人を軽蔑して見下すこと。
物事にあまり真面目に向かい合わず、斜に構えて冷笑的な態度をとること、などです。
赤ん坊の頃から、未来の皇帝として、腫れ物に触るように扱われ、人々からへりくだられていたのですから、当然といえば当然ですが、君主が人心を掌握できなければ、国の運命がどうなってしまうのか、女帝はよく知っていました。
そのため、しきりに息子に『神をよく敬うのですよ。敬虔な者は必ず神が守ってくださるのですからね。』と説諭しましたが、自尊心の塊のような若者が、神を頼る気持ちにはなれません。
父帝フランツ1世も、息子に信心を教え込もうとして、しきりに教会に連れていきました。
時には、1日に18もの教会を訪ねたそうです。
若者にとっては逆効果にしかなりません。
遊び盛りの10代の少年が、毎日寺に連れていかれ、お説教を聞かされたら、お坊さんが嫌いになってしまい、反感さえ抱くでしょう。
この幼少体験が、長じてから、ヨーゼフ2世が反教会、反カトリック的な政策を取ることにつながったと言われています。
ザルツブルク大司教に雇われていたモーツァルトを自分のところに引っこ抜いたのも、カトリック教会への当てつけ、嫌がらせでした。
大司教がモーツァルトの反抗的な態度にあれほど怒ったのも、皇帝が後ろで糸を引いているのが見えたからです。
政略結婚相手に一目惚れ!
さて、この未来の皇帝の縁談は、高度に政治的なものとなります。
花嫁は未来の皇后となるのですから、諸国からたくさんの縁談が持ち込まれ、母帝も慎重に選別します。
その中で浮上してきたのが、北イタリアのパルマ公国の公女、イザベラでした。
3人の公子の長女で、弟に、後にヨーゼフ2世の妹マリア・アマーリアが嫌々嫁いだパルマ公フェルディナンド1世、妹に、スペイン王カルロス4世の王妃となり、その横暴で国を傾けて画家ゴヤにも醜く描かれたマリア・ルイサがいます。
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パルマ公国はもともとローマ教皇領の一部が、教皇の息子に分与されてできた国でしたが、その血統が絶えてから、諸国の奪い合いになっていました。
北イタリアは、中世以来フランスとオーストリアの係争の地ですから、ハプスブルク家とブルボン家での争奪戦は激しく、王家も両血統での入れ替わっていました。
この時はブルボン家の支配になっており、パルマ公は太陽王ルイ14世の孫でした。
また時期としては対プロイセンで死闘を繰り広げた七年戦争の真っ最中。
マリア・テレジアの外交革命によって、宿敵ブルボン家は最重要の同盟相手になっていました。
地勢的にも、パルマとの政略結婚は効果的です。
しかし女帝は、イザベラ公女が将来、皇后が務まるかどうかのチェックも怠りませんでした。
信頼するマーシー伯爵をパルマに遣わし、探らせました。
伯爵は、公女が美しく、聡明で心優しい女性だと報告し、絵姿をウィーンに送りました。
これを見て、一目惚れしてしまったのが、当のヨーゼフ2世でした。
何がなんでもこの女性と結婚する、それ以外の女とは結婚しない!と言い張ります。
両親はその激情ぶりに驚きますが、政治的にも、人格的にも、この結婚相手は及第点でしたので、婚約は無事結ばれました。
世紀の結婚式
1760年、19歳の花嫁マリア・イザベラ・フォン・ブルボン=パルマは、壮麗にして長大な行列でウィーンに入場しました。
花婿ヨーゼフ2世は、ほぼ同い年、20歳です。
七年戦争で国家財政は逼迫していましたが、このセレモニーは、ハプスブルク家の威勢と、ブルボン家との同盟の強化をアピールする意味がありましたので、戦争に勝つための費用として、女帝は金に糸目をつけませんでした。
挙式が聖アウグスティン教会で行われたあと、宮廷のレドゥーテンザールで大披露宴、セレナータの上演と、大がかりなセレモニーが日を夜に継いで行われました。
その様子はマルティン・ファン・マイテンス(1695-1770)の絵で伝わっていますが、そこには幼いモーツァルトの姿が描きこまれています。
しかし、この神童がウィーンを訪れたのは、婚儀の2年後、1762年のことですので、この場には居合わせませんでした。
画家は、神の示したもうた奇蹟というべき神童が、この婚儀に立ち会って祝福している、というフィクションを盛り込んだのです。
さて、花嫁イザベラは、〝盛った〟はずの肖像画も及ばないほどの愛らしさで、人々は〝天使のような〟と感歎しました。
ヨーゼフ2世は花嫁に夢中になってしまい、激しく愛しました。
しかし、花嫁にはその愛は重すぎ、大きな負担となり、悲劇につながってゆくのです。
それでは、ハイドンのエステルハージ家時代のシンフォニーを聴いていきましょう。
Joseph Haydn:Symphony no.51 in B flat major, Hob.I:51
演奏:トレヴァー・ピノック指揮 イングリッシュ・コンサート
作曲されたのは1771年から1773年の間と推定されているシンフォニーです。比較的地味で目立たない曲ですが、細かい工夫が凝らされている佳曲です。
冒頭、フォルテのユニゾンで、始まるよ~という合図があり、それを弦楽だけが静かに受け継ぎ、第2ホルンが低音域でさらに呼応します。この不思議な開始のあと、音楽は短調に転じ、激しく走り出します。途中、鳥がさえずり交わすような楽句が聞かれたり、激しい部分と静かな部分が絶妙なコントラストを描きながら進んでいきます。
展開部は、極めて珍しく、提示部の終わりの楽句を取り上げて始まり、ハイドン得意の疑似再現につながり、さらに半音階の世界に突入していきます。
幸せな気分の中に、時おり不安な要素の漂う深い音楽になっているのです。
ハイドンは、この楽章ではふたりのホルン奏者にとんでもない難儀を課しています。第1ホルンは冒頭の開始ソロを受け持ちますが、当時のナチュラルホルンではほぼ限界というべき2点変イ音という高音を吹かせられます。高所を綱渡りしているような、手先がジンジンする感覚さえします。一方、第2ホルンは限界値ギリギリの低音を吹かねばなりません。まるで曲芸会のようです。オーボエが受け継ぐと、雰囲気は平穏を取り戻し、弦楽器の静かな旋律が癒しの世界に導いてくれます。
メヌエットのトリオがふたつあるのは、実はハイドンのシンフォニーでは意外にもこの曲だけなのです。メヌエットはわずか16小節しかありませんが、バス声部を同じ音型を音の高さを変えて演奏するところに、音部記号を暗号のように書いて、単純に繰り返させているのです。これは、聴く人には関係ないですが、演奏者に対する悪戯で、奏者はニヤニヤしながら演奏したはずです。しかも、それがトリオが2つあることによって、さらに繰り返されるのです。ハイドンとオーケストラの気の置けない関係がうかがえる微笑ましい部分です。
第1トリオは、逆付点リズムの静かな感じ、第2トリオは似た音型ですがホルンが活躍し、ここでも最高音2点変ロを要求されています。この曲ではホルンがとことんフィーチャーされているのです。
第4楽章 フィナーレ:アレグロ
シンフォニーのフィナーレのほとんどはソナタ形式ですが、ここではロンド形式、しかも変奏曲になっています。テーマは楽しく素朴なものですが、変奏では異なる調になったり、多彩に展開していきます。とくに第4変奏はト短調の激しいものになります。そして、ユーモアたっぷりに曲を閉じるのです。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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