1788年2月に始まったオーストリアとオスマン・トルコとの戦争は、皇帝ヨーゼフ2世が直々に兵を率いた時期は散々な戦況でした。
皇帝はかろうじて捕虜になるのを免れた、といった有様です。
彼が帰還し、有能な将軍たち、ラウドンやコーブルクが指揮を取ると、何度かの戦に勝利し、情勢はハプスブルク家に有利になってきました。
しかし、戦果はそこまで。
前回聴いたモーツァルトの軍歌のように、コンスタンティノープル(イスタンブール)に攻め込むなど夢のまた夢。
戦線は膠着します。
ヨーゼフ2世は、ウィーンの都にあって、戦争で混乱した帝国を必死で立て直そうとします。
しかし、その混乱は戦争のせいというよりは、皇帝自身の、せっかちな啓蒙主義的改革によるものでした。
彼は、「啓蒙専制君主」の代表として、「人民の利益」を図るため、「善良なる手配」をすることに努めました。
人民の幸福のためなら、自分の幸福も健康も犠牲にする、という思いを持っていたのは事実です。
彼は、中世以来、人民を搾取してきた封建的な特権、特にカトリック教会や大貴族、大領主の特権を、何の根回しも配慮もなく、一片の法令を発布することによって排除しようとしました。
彼の死の数年後に、フランスがギロチンによる大量の殺戮で行うことになることを、自分の絶対権力でやろうとしたのです。
頑張ったのに、報われない…。疲れ果てた皇帝
農奴制廃止、検閲制度廃止、信教の自由、官僚制度の強化…。
近代国家になるための改革は、その意思において「善良」でしたが、なにぶん、母帝マリア・テレジアがさんざん心配したように、あまりにも急ぎすぎ、いきなりすぎでした。
在位中、彼が発布した法令、指示は数千に達するといわれています。
しかし、そのほとんどはうまくゆかず、大臣たちも官僚たちも、面従腹背。
勅令には従うふりをして、その実現を果たそうとはしませんでした。
また、肝心の人民たちからも、何の感謝も賞賛も受け取りませんでした。
上から強制された「自由」は、本当の自由ではなかったのです。
彼は、その最後の月に、跡継ぎとなる弟、トスカーナ大公レオポルトに対して、次のように書き送っています。
わたしは、自分の企てたすべての事柄で不運であった。わたしの善良なる手配が受け取ったのは、ひどい忘恩であって、そのように、私は論じられている。人民には、公然とは、わたしについて話すことは許されていないので、ありそうな侮辱や悪口は、いまのところないのであるが。*1
戦場から戻ったヨーゼフ2世は、持病の肺病を悪化させ、また改革の挫折に直面し、健康と精神を病んでいました。
評伝には次のようにあります。
以前は、あんなにまで精力的で健康そうであった人間が、急速に強さを失っていく、見間違いのない兆候を示すに至った。彼の目は弱くなり、潤みがちであった。彼は足の痛さに苦しんだ(母親と祖母からの遺伝である)。頭の丹毒は、1783年にまで遡るが、彼にかつらをかぶることを余儀なくさせた。それ以前は、彼は、たっぷりとした、美しい髪の毛をもっていたが、次第に二つの単純な巻き毛と末端が弁髪風になった鳶色の髪になってしまった。かつてはあんなに明るかった肌の色も、いまでは赤茶けた褐色になった。天然痘の跡が生々しく残っており、垂れ下がった頬が長い顔に付け加わった。
〝人民皇帝〟の壮絶な最後
1790年が明けると、彼は死期を悟りました。
2月12日の、甥のフランツ(のちの神聖ローマ皇帝フランツ2世、オーストリア皇帝フランツ1世)の誕生日に、ダイヤモンドを散りばめた短剣を贈りましたが、その贈物カードには『もはや会うことのない伯父の思い出に』とありました。
それでもヨーゼフ2世は、毎日大量の血を吐きながら、最後の最後まで仕事を続けました。
2月19日、1日かけて80もの書類に署名。
夜遅くに、ようやくベッドに横たわりました。
翌朝5時、目覚めて、まだ日が昇っていないことに気がつきます。
書類を集め、朝食のスープの一皿を求めましたが、突然、死の予感に襲われ、懺悔聴聞師を呼びました。
しかし、神父が到着するまえに、痙攣に襲われ、4分ほどして崩御。
カトリックで臨終の間際に行われる、終油の秘蹟は受けられませんでした。
時に、1790年2月20日。
政策通りの、質素な棺
遺骸は、ハプスブルク家歴代の霊廟、カプツィーナー納骨堂の、派手なバロック装飾の施された父母の巨大な棺の前の、何の装飾もないシンプルな小さい棺に納められました。
それは、余計な儀礼、冗費の支出を極端に嫌い、人民にも薄葬を強制した皇帝自身が望んだものです。
映画『アマデウス』で、ヨーゼフ2世崩御の翌年に亡くなったモーツァルトの遺体が、共同墓穴に無造作に投げ込まれるという、ショッキングなラストシーンは、この薄葬令によるものです。
そのため、モーツァルトの墓の場所は分からなくなってしまいました。
ヨーゼフ2世の棺には、自身による次の墓碑銘が刻まれました。
『よき意思をもちながら、なにごとも果たさざる人、ここに眠る』
無念の思いが伝わってきます。
ヨーゼフ2世の死後、フランス革命が勃発。
妹、マリー・アントワネットも断頭台の露と消えます。
その波及を恐れて、19世紀のハプスブルク帝国は反動化しました。
人民は、はじめてヨーゼフ2世の改革のありがたみを知り、遅まきながら彼を慕うようになったのです。
1848年に、ついにオーストリアでも革命が起こり、保守政治家メッテルニヒは亡命、皇帝フェルディナント1世は退位します。
帝政廃止まで求めていなかった人民は、次の皇帝に、その甥のフランツが即位することを認めました。
彼は、ヨーゼフ2世を慕う人民に配慮し、フランツ2世、とは名乗らず、わざわざ名前に〝ヨーゼフ〟を加え、「フランツ・ヨーゼフ1世」と号しました。
〝シシィ〟と呼ばれる、人気の皇后エリーザベトの夫です。
流血革命がついにオーストリアには起こらなかったのは、ヨーゼフ2世の遺徳かもしれません。
ハイドン『十字架上のキリストの最後の七つの言葉』
これまで、ハイドンの音楽をBGMに、クラシック音楽の発展に多大な影響を与えた女帝マリア・テレジア、皇帝ヨーゼフ2世の生涯を追ってきました。
ヨーゼフ2世の崩御にふさわしい挽歌として、ここでもハイドンの楽曲、『十字架上のキリストの最後の七つの言葉』を取り上げます。
1786年、ハンガリーのエステルハージ侯爵家に仕えながら、名声の高まるハイドンのもとに、はるか遠国から、変わった作品の注文が来ました。
はるか西、スペインの港町カディスからです。
注文主は、その地で司祭を務めていた、ホセ・サルーズ・デ・サンタマリアという人でした。
彼は爵位と博士号を持つ有名な聖職者で、四旬節に毎年この町で行われる、イエスの受難に捧げる典礼で演奏するための音楽を、という話でした。
しかし、その典礼はミサではなく、変わったものでした。
サンタ・ロザリオ司教座教会の地下に、自然の洞窟を利用した礼拝堂があり、そこには敬虔な信徒が集まり、独特な心霊修業が行われていました。
それは、聖堂内のすべての壁や柱を黒い布で覆い、中央に下げた大きなランプの灯りひとつという、厳粛な雰囲気で行われます。
司祭は、十字架に架けられたイエス・キリストが、死ぬまでに語ったとされる七つの言葉を祭壇上でひとつずつ、唱え、それに対する説教を行います。
司祭は、ひとつの言葉が終わるごとに祭壇を降り、人々は、次の言葉のために再び司祭が祭壇に登るまで、イエスの苦しみやその意味について沈思黙考するのです。
その時間に、オーケストラで厳粛な音楽を演奏してはどうか、と司祭は考え、その音楽は当代ヨーロッパで最高の作曲家に依頼しよう、ということになり、ハイドンに白羽の矢が立ったのです。
ハンガリーの片田舎からほとんど出ることのなかったハイドンの名声が、はるかスペインの地方都市にまで伝わっていたことに、驚かざるを得ません。
ハイドン自身も満足した出来栄え
ハイドンはこの注文を非常に名誉なものと受け止め、全力で作曲しましたが、非常な難題でもありました。
『聴くものを疲れさせることなしに、それぞれ約10分のあいだ持続する7つのアダージョを、次々に続けるといった課題は、決して容易なことではなかった。』と後に述懐しています。
速度の変化がつけられない条件下で、ゆっくりとした厳粛な音楽を、雰囲気を壊さず、またマンネリにもならずに1時間近くも続けるというのは、さすがのハイドンでも苦吟しました。
しかも、福音書に書かれた、イエスの最後の言葉は、歌われるわけではありません。
歌詞なしで、オーケストラにその意味を語らせ、イエスの最後の姿をありありと浮かび上がらせ、人々に畏敬を与えるものでなければならないのです。
苦心して仕上げた作品は、ハイドン自身も満足のいくものでした。
自作の中でも、特に優れたものであると考え、『音楽を初めて聴く人にも、深い感銘を与えずにはおかない』と自負していました。
編曲され、ヨーロッパ中に普及
注文主のカディスでは、1787年4月6日の聖金曜日に、実際の典礼の場で初演されましたが、それに先立って楽譜をアルタリア社に売り、同社は7月に出版しています。
その後、間をおかずにロンドンやパリでも出版され、瞬く間にヨーロッパを席巻しました。
オリジナルは管弦楽用ですが、ハイドン自身、これを弦楽四重奏版に編曲、出版しました。
さらに、他の人が鍵盤楽器用に編曲した版も監修し、自身の承認を与えて出版させています。
また、作曲から10年近く経った1795年に、英国旅行の帰途、パッサウの大聖堂に立ち寄ったハイドンは、ここで楽長兼オルガニストだったヨーゼフ・フリーベルトがこの曲に詩人ラムラーによる歌詞をつけ、カンタータとして演奏しているのを聴きました。
これはいい、と思ったハイドンは、フリーベルトが編曲した楽譜を受けとり、ウィーンに戻って、編曲を手直しするとともに、ヴァン・スウィーテン男爵にも協力を求めて歌詞にも手を加え、翌1796年にオラトリオ版を完成させました。
オラトリオ『天地創造』のさきがけとなったのです。
さて、ここでは、オリジナルのオーケストラ版を聴いていきます。
正確には、『私たちの救い主の十字架上での最期の七つの言葉』というタイトルになります。
死に瀕したイエスの苦しみを表す、厳粛な典礼用の作品ですが、全体としては意外なほど穏やかな雰囲気の音楽です。
150年ほど前、バッハより100年前に生まれたドイツの初期バロック音楽を代表する作曲家、ハインリッヒ・シュッツ(1585-1672)が同じテーマの音楽を作っていますが、こちらの方が厳粛な雰囲気をもっています。
それは、バロックと古典派の音楽の性格の違いをよく表しています。
シュッツの音楽の冒頭を比較のため掲げておきます。
ハインリッヒ・シュッツ:『十字架上のキリストの最後の七つの言葉』導入合唱
演奏:ヴォルフガング・ヘルビッヒ指揮 イ・フェビアルモニキ
ハイドン:十字架上のキリストの最後の7つの言葉(管弦楽版)
Joseph Haydn:Die sieben letzten Worte unseres Erlösers am Kreuze, Hob.XX/1
演奏:ホルディ・サヴァール指揮 ル・コンセール・デ・ナシオン(古楽器使用)
悲鳴のように悲愴な音楽が、マエストーソ(威厳をもって)で奏でられます。これは、イエスが王者であることを示しています。調性はレクイエムで使われるニ短調。
イエスは、彼を危険視するユダヤ教の祭司たちと、彼らに扇動された民衆によって告発され、ローマ総督ピラトに引き渡されます。ピラトは、いくら尋問しても要領を得ず、イエスに罪が見出せません。釈放しようとすると、民衆が暴動を起こしそうになったので、やむなく、自分のせいではない、君たちが責任をとるのだぞ、と言って、ユダヤ人たちにイエスを引き渡し、好きなようにするがよい、と突き放します。
イエスは十字架を背負ってゴルゴダの丘に登り、そこでふたりの盗賊とともに十字架に架けられます。日本の磔は、見せしめにした後、槍で突いて罪人を殺しますが、古代ローマの磔刑は、ゆがんだ姿勢のまま放置し、呼吸困難や血流不全に陥らせた末に死に至らしめる、残酷なものでした。
そのため、十字架上でもしばらく命があり、イエスはいくつかの言葉を発します。
それは、新約聖書の中のイエスの伝記にあたる4福音書、「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」「ヨハネによる福音書」にいくつか採録されていますが、それを全部拾うと、七つになるのです。
第1のソナタ『父よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです』ラルゴ
変ロ長調。「ルカによる福音書」にある言葉です。イエスを救い主と認めず、ユダヤの伝統的な権威を否定し、自分たちの地位を脅かす存在として死刑にします。死刑は古来から現代に至るまで続いていますが、イエスの刑は史上最も有名なものといっていいでしょう。そして、後世に与える影響の計り知れない大きさ、そしてその後のユダヤ人の運命を考えるとき、イエスの『彼らは何をしているのか、分からずにいるのです』という言葉の重みは、神学的な意味だけでなく、歴史的にも重みがあります。
やや明るい調子ですが、イエスを十字架につけた人々の、軽さを表現しているかのようでもあり、また、自分を陥れた人々に許しを与える、イエスの寛容で慈悲深い心を表しているようでもあります。
第2のソナタ『あなたはきょう、私とともにパラダイスにいるであろう』グラーヴェ・エ・カンタービレ
ハ短調。これも「ルカによる福音書」にあるエピソードです。イエスと一緒に十字架にかけられたふたりの強盗のうち、ひとりがイエスに向かって『お前は救世主だろ。自分と我々を救ってみろ』と罵ります。するともうひとりの強盗がたしなめます。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから、仕方がない。しかし、この方は何も悪いことをしていない』そして『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言いました。するとイエスは、『はっきり言っておく。あなたはきょう、わたしとパラダイスにいるであろう』と言いました。
これは、幾多のキリスト教徒にとって、希望となり、慰めとなった言葉でしょう。罪人も、悔い改めることによって、イエスから、一緒に天国に行ける、と保証されたわけです。音楽も、哀調を帯びて始まりますが、だんだんと明るい日が差し、希望の光が満ち溢れるかのようです。
第3のソナタ『婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です』グラーヴェ
ホ長調。「ヨハネによる福音書」にある言葉です。イエスは、十字架の上から、悲しみに暮れる母マリアの姿を見つけます。一緒に、マリアの姉妹、クロパの妻マリアと、マグダラのマリア、そして福音書記家で「イエスの愛する弟子」と自称するヨハネがいました。そしてイエスは、『婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です』と声を掛けます。親として、子の死ほど悲しいものはありませんし、そんな親の姿をみる子も断腸の思いです。ゴルゴダの物語の中でも、特に悲痛な場面です。ヨハネによれば、イエスは彼に『見なさい、あなたの母です』と語り、それをイエスから母を託されたと受け止めたヨハネは、聖母マリアを自分の家に引き取り、世話をします。
音楽はここでも、悲しい中にも穏やかな光をまとっています。これは子を思う母の、母を思う子の情愛が満ち溢れているかのようです。
第4のソナタ『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか』ラルゴ
ヘ短調。「マタイによる福音書」と「マルコによる福音書」にある言葉です。十字架につけられてから昼の12時になると、全地が暗くなり、午後3時まで続きました。そして3時ころ、イエスは大声で『エリ、エリ、ラマ、サバクタニ』と叫びます。聖書には、これは『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか』と解説されています。そこに居合わせた人が、『この人はエリヤを呼んでいる』とささやきます。エリヤとは、ユダヤにかつていた預言者で、救世主の到来を預言していました。エリヤが本当に現れて、イエスを救うのではないか、と人々はざわめきますが、そのようなことは起きませんでした。最後の晩餐、捕縛、裁判と、十字架に至る道のりで、自分の死を覚悟し、泰然としていたイエスが、最後の最後に弱音を吐いたように思えますが、古来様々な解釈のあるところです。音楽には厳しさが加わり、イエスの苦悩と孤独を示しているように聞こえます。イエスが父なる神に呼びかけ、祈っている姿が浮かびます。
イ長調。「ルカによる福音書」以外の3つの福音書には、十字架上のイエスに対し、人々が酸っぱい葡萄酒を海綿にひたし、ヒソプ(植物)の枝につけ、イエスに飲まそうとしたことが書かれています。「マタイ」と「マルコ」は、飲ませようとした、で終わっていますが、「ヨハネ」だけは、その前にイエスが『渇く』、と訴えたことになっています。そして、イエスは葡萄酒を受けます。でもこれは、単に喉が渇いたから、ということよりも、旧約聖書に、救世主となる人はこのようなことになる、と預言されていることを成就するため、とされています。これによって、イエスがメシアであることを福音書記家(エヴァンゲリスト)は証明しようとしたのです。
音楽は総奏の和音のあと、ピチカートを優しく奏でます。これは、イエスの渇きを癒す葡萄酒の雫を表しているのでしょうか。さらに威厳に満ちた音楽になるのは、預言の成就を高らかに宣言しているのかもしれません。
第6のソナタ『成し遂げられた』レント
ト短調。「ヨハネによる福音書」では、前段の葡萄酒を受けたあと、イエスは『成し遂げられた』と言って、がっくりと首を垂れ、息を引き取ったと伝えています。この言葉は重く、自分が救い主であるという預言が成就した、というのが本来の意味のはずですが、後に、使徒たちにより、イエスの死によって人類の原罪、すなわちアダムとイブが創造主に逆らって知恵の実を食べた罪が贖われた、と、解釈が拡げられ、大きな意味をもつことになりました。
いずれにしても、信者にとっては、イエスの死という大きな代償と引き換えに救済されたということになりますから、音楽も壮大で、万感のこもったものになっています。一方で管楽器の切ない音色も心を打ちます。
第7のソナタ『父よ、私の魂を御手にゆだねます』ラルゴ
変ホ長調。「ヨハネによる福音書」では、『成し遂げられた』のあと、イエスは息を引き取りますが、「ルカによる福音書」では、『父よ、私の魂を御手にゆだねます』と叫んで息を引き取ります。「マタイ」「マルコ」では、『大声で叫んで息を引き取られた』となっていて、どちらの言葉が最後だったのかは記されていません。しかし、一般的にはこちらの言葉が最後とされています。
音楽も、優しく喜びに満ち、地上での苦しみに終止符をうち、父なる神に迎えられたイエスの魂を祝福するかのようです。
人民のために燃え尽きた、ヨーゼフ2世の姿にも重なります。
地震:プレスト・エ・コン・トゥッタ・ラ・フォルツァ
ハ短調。イエスの死に伴い、数々の天変地異が起こったと、「マタイによる福音書」は記しています。神殿の幕が上から下にまっぷたつに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて眠りについていた多くの聖者の体が生き返った、とされます。一方、「マルコ」と「ルカ」では神殿の幕が裂けたことのみ。「ヨハネ」では何も起こっていません。「ヨハネ」以外の福音書では、ローマの百人隊長が、死に伴う奇異を見て、『本当に、この人は神の子だった』あるいは『本当に、この人は正しい人だった』と言ったことになっています。地震が、マタイによる脚色なのかどうかは分かりませんが、イエスの理不尽な悲劇の死に、何か天変地異が起こってほしい、という思いもあったでしょう。このあと、輝かしいイエスの「復活」がありますが、イエスの人間としての終末は、地震で象徴されています。
音楽は、ここだけティンパニが加わり、おどろおどろしく、大地の鳴動を表しています。それは、イエスを慕う人々の怒りでもあります。これまでのイエスの断末魔の叫びを受け止め、じっくりと沈思していた信者たちの思いが爆発するかのようです。
動画はアポロ・アンサンブルの、古楽器による素晴らしい演奏です。この曲の成り立ちに由来する、沈思黙考を演奏者たちが行うシーンも盛り込まれています。七枝の燭台に灯されたろうそくの火が、1曲終わるごとに消されてゆきます。
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今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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