孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

民衆が熱狂した、王太子妃のパリ入城。~マリー・アントワネットの生涯12。モーツァルト:フルート協奏曲 第1番 ト長調

マリー・アントワネットのパリ入城

パリになかなか入れなかった王太子

フランス王太子マリー・アントワネットは、結婚後、3年ものあいだ、首府パリに行くことができませんでした。

王の宮廷のあるヴェルサイユからパリまで、徒歩で6時間、馬車なら2時間の距離です。

世紀の結婚式のあと、すぐにでもパリでパレードを行い、群衆の歓声を浴び…と思いきや、それにはなんと3年の歳月を要したのです。

王太子妃のパリ入城には、国王の許可と様々な儀礼的な手続きが必要でした。

それにしても、3年もかかったのは不思議でなりません。

彼女がパリの民衆たちの前に姿を現せば、その欧州一のやんごとなき血筋と、その優美な気品に群衆の喝采を浴びるのは確実。

ただでさえ宮廷儀礼の中で序列一の彼女が、民衆の支持まで得たら、誰も逆らえなくなります。

それは時間の問題なのですが、派閥争いをしていた宮廷人たちも、そこだけは一致して時間稼ぎをしたようです。

デュ・バリー夫人、王位を狙う王弟たち、あるいは叔母たちの策謀もあったかもしれません。

お忍びで潜入した仮面舞踏会

しかし、大都会に行ってみたくてしかたのないマリー・アントワネットは、国王ルイ15世に直談判して、裁可を得ます。

そうなっては、もはや誰も妨害できません。

パリ公式訪問の日は、1773年6月8日と決まりましたが、そうなると、好奇心旺盛な王太子妃はいてもたってもいられません。

その数週間前に、夫や弟たちにねだり、ある夜遅く、秘密裡に馬車を用意し、変装してパリのオペラ座の仮面舞踏会にお忍びで潜入に成功します。

この時、帝都とはいえヨーロッパの辺境にあるウィーンとは違う、大都会のナイトライフという禁断の果実を味わってしまい、彼女の運命が変わっていきます。

18世紀の仮面舞踏会

王太子妃のパリ入城

さて、正式なパリ入城当日は、ヴェルサイユからパリに続く道筋は旗や花で飾られ、群衆が人垣を作りました。

市の門の前では、市長ブリサック元帥王太子夫妻を出迎え、銀盆に載せたパリ市の鍵をうやうやしく捧げます。

王太子妃が市内に入ると、晴れ着を着こんだ市場の女性たちが果物や花を捧げ、アンヴァリッド(廃兵院)やバスチーユ要塞が礼砲を放ちます。

彼女はノートルダム寺院修道院パリ大学などを順に訪ねますが、いたるところに特設の凱旋門が設けられ、祝辞が読まれました。

最後にチュイルリー宮殿のバルコニーに立つと、何十万人もの群衆が歓呼します。

彼女が『まあ、なんとおおぜいの人でしょう!』と驚くと、ブリサック市長が『失礼を承知で申し上げれば、今ご覧になっているのは、マダムに恋する20万人の人々なのですよ。』とささやきます。

これから20年も立たないうちに、彼女は逆に何十万人もの民衆に罵声を浴び、このチュイルリー宮殿に押し込められることになるなんて、誰も予想だにしないことでした。

彼女はこの日の感動を、母帝マリア・テレジアに次のように書き送っています。

マリー・アントワネットからマリア・テレジア(1773年6月14日)

(前略)ところで、先週の火曜日に私にとって生涯忘れ得ないうれしいことがありました。私たちはパリ入城を行ったのです。想像をはるかに越えたありとあらゆる栄誉が私たちにもたらされました。しかし、確かにこれもすばらしいことではありましたが、私がもっとも感動したのは別なことです。私は何よりも、あの貧しい民びとの愛と献身に心を打たれました。あの者たちは、過酷な税金に苦しめられているにもかかわらず、私たちの姿を見て我を忘れているのです。チュイルリーの庭を散歩しておりますと、途方もない数の群衆があとに続いて参りましたので、私たちは45分間も進むことも引き返すこともできませんでした。殿下と私は何度も衛兵に、誰も手荒に押し戻さないようにと申しましたが、これがたいへん良い印象をあたえたようです。この日はじつに整然としておりましたので、私たちはいたるところで大群衆に囲まれましたが、怪我人はひとりも出ませんでした。散歩から帰ったあと、30分ほどチュイルリー宮殿の外のテラスに立ちました。愛するママ、このとき国民が見せてくれた愛と歓喜がどれほど途方もないものであったか、とても言葉ではお伝えできません。建物のなかに戻る前に私たちが手を振りますと、集まっていた群衆は大歓声で応えてくれました。私たちの身分の人間にとって、このようにささやかなことで全国民の愛を得ることができるのは、何と幸せなことでしょう。とにかくこれほど貴いことはありません。私はそれをけっして忘れないつもりです。

このすばらしい日に私が大きな喜びを覚えたもうひとつの理由は、殿下の態度でした。殿下は言葉を掛けられるたびにすばらしいご返事をなさいました。そして、自分のためになされたことはすべてねぎらいの言葉を掛け、特に民びとから喜びのあふれる、親愛の気持ちのこもった声を掛けられたときには、たいそう心をこめて応えておいででした。この機会にたくさんの詩が捧げられましたが、そのなかで私がもっとも美しいと思ったものを同封させていただきます。明日はパリのオペラ座に参ります。ぜひにという声が数多く寄せられたからです。また、コメディー・フランセーズとコメディー・イタリアンに観劇に参ろうと思っています。愛するママが私の結婚のためにしてくださったことが、日一日とより深く理解できるようになってきました。私は末の子供なのに、ママが長子のように扱ってくださったことに、心から感謝しております。(後略)*1

重税に苦しむ民衆への思いがあった!

ここには、民衆から寄せられた歓喜に、純粋に感動するマリー・アントワネットの真情が綴られています。

特に、民衆が重税に苦しんでいるにもかかわらず、自分たちを歓迎してくれた、という認識があります。

これだけでも、『パンがなければお菓子を食べればいいのに』という言葉はマリー・アントワネットのものではないことは明白です。

ただ、彼女の王妃となってから、国民を重税から救おうという行動が見られないのは、残念な限りです。

民衆が王太子夫妻に熱狂したのは、長く続いたルイ15世の放蕩政治の閉塞感から、新しい時代になることを期待してのことだったのです。

彼女は単純に自分が歓迎されているのを喜びましたが、その真の意味にまでは思い至りませんでした。

母帝から執拗に手紙で、国民に愛される努力を続けるように指示されていたにもかかわらず、もう自分はその目的を達している、と思ってしまったのかもしれません。

知ってしまった、自由の喜び

また、彼女はパリに来て、これまで仕方がないと諦めていた、ヴェルサイユでのマナーと儀礼に縛られた生活が心底嫌になってしまいました。

中世以来、『都市の空気は人を自由にする』という言葉がありましたが、彼女は、自由な空気を吸ってしまったのです。

それは彼女の性格が一番欲していたものでした。

特に、オペラ座をはじめとした劇場では、芸術好き、芝居好きのハプスブルク家の血が騒ぎ、慣例を無視して入れ込み、さまざまな騒動を引き起こしてゆきます。

パリ入城は、王太子妃がヴェルサイユという鳥かごから出てしまった日となったのです。

マリー・アントワネットモーツァルト

モーツァルト一家

これまで、ハプスブルク家の人々の物語を書くのに、ハイドンのシンフォニーをBGMにしてきましたが、ここで少し、モーツァルトに交替します。

ハプスブルク家との関りでいえば、モーツァルトの方が濃いくらいです。

ただ、彼は同家からは恩恵も得ましたが、それは結果的には望んでいたものより少ないものでした。

1762年10月13日、6歳のモーツァルトシェーンブルン宮殿に伺候し、マリア・テレジア一家の前で御前演奏をしたとき、ピカピカの床で転んだモーツァルトを、当時7歳の皇女マリア・アントニア(マリー・アントワネット)が助け起こし、モーツァルト『御礼に将来お嫁さんにしてあげる』と言ったエピソードは有名です。

しかしその後、マリー・アントワネットモーツァルトとの関りはありません。

マリー・アントワネットと密接な関りがあるのは、少女時代のピアノ教師だったグルックの方でしたので、それはやがて取り上げることになるでしょう。

モーツァルトの就職活動

1777年、20歳になったモーツァルトは、故郷ザルツブルクでの、大司教宮廷楽団の職を辞し、より良い待遇の職を求めて、母アンナ・マリアとふたりで、どこかの宮廷の楽長になることを目指し、求職の旅に出ます。

副楽長であった父レオポルトは職を離れるわけにいかず、姉ナンネルとともにザルツブルクに残って息子たちの旅費を捻出します。

まずはミュンヘンバイエルン選帝侯に求職しますが、うまくいきません。

続いてマンハイムプファルツ選帝侯のところに行きますが、名声と賞賛は得るものの、職を与える、というには至りません。

そうこうするうち、故郷の父の借金は膨らむばかりです。

いらだつ父からは、細かい指示や叱責の手紙が次々と息子に届きます。

この親子の往復書簡は、マリア・テレジアマリー・アントワネットのそれと酷似しています。

マンハイムの就職活動も思わしくないため、父はパリに行くよう命じますが、モーツァルトはなかなか動こうとしません。

当地で出会った若いソプラノ歌手、アロイジア・ウェーバーに恋心を抱いてしまったからです。

父の指示に従えず、言い訳

そんな中、マンハイムで知り合った名フルート奏者、ヨハン・バプティスト・ヴェンドリングの仲介で、フェルディナンド・ド・ジャンという人物から、フルートの曲の注文を受けます。

モーツァルトは手紙で次のように父に報告しています。

モーツァルトよりザルツブルクの父レオポルト(1777年12月10日 マンハイムにて)

(前略)翌日、いつものように、ぼくはヴェンドリングのところへ食事をしに行きました。すると、彼はぼくにこう言いました。

例のインド人は(これは自分自身の財産で暮らしているオランダ人で、あらゆる学問の愛好家であり、しかもぼくの大の友人で「崇拝者」ですが)、とにかくほんとうに稀にみる人物です。もしあなたがフルートのための3つの小さな、軽い、短い協奏曲と、2つの四重奏曲を彼のために書けば、彼は200フローリンをくれます。カンナビヒの世話で、あなたは支払いのいい弟子を少なくともふたりは取れます。あなたはここでクラヴィーアとヴァイオリンの二重奏曲を書いて、予約で出版させる。食事は昼も夜も遠慮なく私どものところでとるのです。あなたの宿は宮中顧問官のところにすればいい。費用はいっさいなしですみます。お母さんのためには、あなたがこれらのことをすっかりお宅へ報告するまで、二か月の間、小さな安宿を探しましょう。それからお母さんはお宅へ帰り、ぼくらはパリへ行くのです。』

ママはこの案について納得しています。いまはただ、あなたの承諾にかかっています。それについてぼくはすでに得られるものと確信しているので、もしいまが旅の時期ならば、お返事を待つまでもなく、パリへ旅立つところです。じつに物分かりがよくて、これまで子供たちのしあわせをあんなに気遣ってくれたお父さんから、ほかの返事を期待するなんて考えられませんからね。ヴェンドリングさんがあなたによろしく言ってますが、彼はぼくらの親友グリムの親友でもあります。グリムは当地にいたとき、ぼくのことをヴェンドリングに大いに話してあります。これは、グリムがザルツブルクのぼくらのところから戻ったときのことです。この手紙へのあなたからの返事がありしだい、ぼくは彼に手紙を書きましょう。ある外国人がここで食事をしたときに話してくれたところによれば、いま彼はパリにいるそうですから。ぼくらは3月6日以前には出発しませんから、もしできたら、ウィーンのメスマー氏か、あるいは誰か名士から、フランス王妃宛の手紙を手に入れてくださるよう、やはりお願いしたいのです。もし簡単にできるようなら!そうでないなら、それほど必要ではありません。あればいいことはたしかです。これもヴェンドリングさんから受けた忠告です。(後略)*2

ここにある〝インド人〟というのがド・ジャン氏のことですが、彼はボンに生まれ、オランダ東インド会社に入社し、インドネシアバタヴィアで医師を務めた人物でした。

オランダに帰ってから医学博士号を取得し、各地を旅行していましたが、この時期たまたまマンハイムに滞在していたのです。

モーツァルトは父に、まだパリに出立しない言い訳として、冬になって旅行に適さない季節ということ、ド・ジャン氏からの注文があること、ヴェンドリング氏がピアノ教師や楽譜出版などでしのげば一冬越せる、と助言してくれていること、などを挙げています。

さらに父に、パリに行くにあたり、誰かのつてで、王妃マリー・アントワネット宛の紹介状を手に入れられないか、と頼んでいます。

そんなものは簡単に手に入らないことは分かっていて、時間稼ぎをしているわけです。

爆発した、父の怒り

父はそんなことはお見通しで、反対の手紙を送りますが、モーツァルトの腰は動きません。

それどころか、年明け2月には、アロイジア・ウェーバーを伴って、イタリアに行くと言い出します。

たとえアロイジアが天才ソプラノ歌手の卵だとしても、まだドイツでさえ何も実績のない娘を、いきなり本場イタリアでデビューさせるだって!?

そんな話を聞いて鼻で笑い飛ばさない興行主がいるとでも思っているのか!?

父レオポルトの怒りは爆発します。

しかも、例のド・ジャン氏の注文さえまだ仕上げていないとは!

これに対し、モーツァルトはしぶしぶイタリア行きを諦め、パリに出発することにしますが、フルート作品については次のように言い訳します。

モーツァルトよりザルツブルクの父レオポルト(1778年2月14日 マンハイムにて)

(前略)ド・ジャン氏もあすはパリへ立ちますが、彼のためにふたつの協奏曲と3つの四重奏曲しか作曲しなかったので、ただ96フローリンをくれただけです。(これが約束の半分だとすれば、彼は4フローリン間違えています。)しかし、彼にはちゃんと勘定をしてもらわなくてはなりません。というのは、そのことについてすでにヴェンドリングと話をつけてあります。あとの作品はいずれ送るつもりです。

ぼくがそれを完成できないかったのも、まったく当然です。ここでは静かな時間がぜんぜん持てません。夜だけしか作曲できないのです。したがって朝早く起きることもできません。それにここのひとたちは、いつでも仕事をしようという気がないのです。たしかに、なぐり書きをするんだったら1日じゅうだってできるでしょう。でもこの種の作品は世間に公表されます。そしてぼくの名前が表紙に出る以上、ほんとうにそれに恥じないだけのことをしたいと思います。それに、ご存知のとおり、ぼくはがまんできない楽器のために書かなくてはならないときは、いつもたちまち気が乗らなくなります。そこで気晴らしのためにほかのものを作曲しました。クラヴィーアとヴァイオリンのための二重奏曲とか、ミサ曲までも書きました。いま、クラヴィーア二重奏曲を出版してもらおうと、真剣に打ち込んでいます。もし選帝侯が当地にいてくださりすれば、ミサ曲をすぐにも仕上げてしまうのですが。でも、そんなことはとてもありえません。(後略)

モーツァルトはフルートが嫌い〟でもない?

結局モーツァルトは、「フルート協奏曲3曲と2曲のフルート四重奏曲」の注文に対し、「協奏曲2曲と四重奏曲3曲」しか作れなかったので、半額以下しかもらえなかった、と報告しています。

内訳は違っていますが、都合5曲作っていますので、半額というのは値切られ過ぎです。

この理由については、もう1曲のフルート・コンチェルト 第2番 ニ長調 K.314(285d)が、旧作のオーボエ・コンチェルト ハ長調の焼き直し(移調)だったからだ、と推定されています。

ただ、これについては疑問もあり、次回以降触れることにします。

また、この手紙に、フルートのことを『がまんできない楽器』と呼んでいるので、〝モーツァルトはフルートが嫌い〟というのも定説になってしまっています。

しかし、この言葉は、当時のモーツァルトの追い詰められた状況や、前後の文脈からすれば、深く考えて書かれた文言ではないと思います。

当時のフルート(フラウト・トラヴェルソ)はキーがないため、音質が不安定でした。

それゆえモーツァルトは嫌った、というのも定説ですが、ホルンはもっと不安定ですし、それでも名手にかかれば素晴らしい音色が出ます。

いずれにしても、モーツァルトのフルート曲を演奏する人は、必要以上に悲しむ必要はありません。

同じ手紙で、『誰にも恥じない曲』を作った、とモーツァルトは明言していますし、事実、これらの作品は、古今のフルート音楽の中でも最高のものなのですから。

それでは、今回は第1番 ト長調を聴くことにしましょう。

モーツァルト:フルート協奏曲 第1番 ト長調 K313(285c)

Wolfgang Amadeus Mozart:Flute Concerto no.1 in G major, K313(285c)

演奏:バルトルド・クイケンフラウト・トラヴェルソ)、ジギスヴァルト・クイケン指揮 ラ・プティト・バンド(古楽器使用)

第1楽章 アレグロ・マエストーソ

優雅に始まりますので、マエストーソ(威厳に満ちて)という指示が似つかわしくありませんが、付点リズムのことを指していると考えられます。付点リズムはフランス風序曲で王の登場を意味しますから、この曲がフランス趣味ということを示しています。トゥッティのテーマはピアノで反復され、流れるような経過句ののち、優しい第2主題がピアノで登場します。そして独奏が登場。独奏はやがてホ短調の切ない響きを奏で、速いパッセージを華やかに繰り広げます。フルートの音色と旋律の優しさが心の奥底まで沁みとおります。展開部はヴァイオリンの短調をフルートが受け継ぎ、技巧を尽くします。これをアマテュアのド・ジャン氏が吹けたとは考えられず、ヴェンドリング氏が演奏したとしか思えません。再現部は輝かしく第1主題が鳴らされ、独奏フルートが装飾します。第2主題はト長調で戻ってきて、まぶしい限りの高音で高らかに奏でられます。カデンツァのあと、しっかりと音楽は閉じられます。

第2楽章 アダージョ・マ・ノン・トロッポ

モーツァルト全集の楽譜では、2本のオーボエが2本のフルートになっていますが、通常はオーボエで演奏されます。当時のオーボエ奏者はたいていフルートも演奏できたので、持ち替えだったのかもしれません。弦には弱音器がつけられ、ホルンのユニゾンとともに深い響きを奏でます。フルートとヴァイオリンのからみはどこまでも美しく、味わい深いものです。音楽学者のアインシュタインは、『この緩徐楽章は、はなはだ個人的なものですらあって、むしろ非常に幻想的で非常に独特なもの』と評しています。注文を超え、モーツァルトの個人的心情がプライベートに込められたもの、というわけです。そのため、一般的な演奏にはそぐわないということで、アンダンテ K.315(285e)に差し替えられた、という説を唱えています。確かに、当時のモーツァルトはアロイジアに対し、生涯最初の本気の恋をしていましたので、それもありえなくもないですが、深読みのレベルであって、推測の域は出ません。いずれにしても、それほどに深い情感が込められた1ページであることは事実です。

第3楽章 ロンド:テンポ・ディ・メヌエット

ロンド形式の最終楽章です。2部のヴァイオリンの伴奏に乗って、独奏フルートが、歩くようなメヌエットのリズムを奏でます。曲はフルートのリードでさらに多彩なメロディが繰り広げられます。速いパッセージとゆっくりとしたパッセージが交代し、それをオーケストラが単なる伴奏だけではなく、ドラマチックに展開していきます。中間部のホ短調の情感あふれるくだり、それがさらなる変幻を生んでゆくさまは、言葉では表せられません。その変幻と、時々戻ってくるメヌエットのテンポが、日常と非日常を交錯させるかのようです。

気が進まない状況で作ったのは事実でしょうが、凡作は絶対作らない、というモーツァルトの気合いを感じる労作です。注文主の、『小さな、軽い、短い協奏曲』という注文からはあきらかに外れているのもまた、事実です。

モーツァルト:フルートのためのアンダンテ ハ長調 K315(285e)

Wolfgang Amadeus MozartAndante for Flute in C major, K315(285e)

前述のように、第2楽章の差し替えとして作られたとされていますが、確証はありません。独立した作品ということもあり得ます。確かに、第1番のコンチェルトより平明で牧歌的、オーケストラも伴奏に徹して控えめでありますが、他の楽章も技巧的なのに、第2楽章だけ差し替えるというのは不自然と思います。弦のピチカートの上に乗る歌い出しも美しく、続く歌も伸びやか。やがて短調に転じると、憂愁が霧のように森を覆います。やがて霧は晴れますが、静けさは変わることなく、美しい田園が広がるかのようです。

この曲は、差し替えではなく、独立した曲として作られたように私は感じます。ド・ジャンのための幻の3曲目なのかもしれません。

 

動画はウィーン・フィルのソロ・フルート奏者、カール=ハインツ・シュッツの演奏です。(現代楽器使用) 


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今回もお読みいただき、ありがとうございました。

 

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クラシックランキン

 

*1:マリー・アントワネットマリア・テレジア 秘密の往復書簡』パウル・クリストフ編・藤川芳朗訳(岩波書店

*2:モーツァルト書簡全集Ⅲ』白水社