国王崩御、国王ばんざい!
グルックの新作オペラ、『オーリードのイフィジェニー』が上演された1774年4月19日。
それから20日ほど過ぎた5月10日午後3時15分。
国王ルイ15世が天然痘で薨去します。
誰もが固唾をのんで、時計を見つめながら待っていた瞬間でした。
ひとつの時代が終わり、新しい時代がやってきた―――!
人々は、遺骸のまだ温かい先王の部屋から雪崩を打って飛び出し、ドヤドヤと、控えの間に詰めかけます。
その小さな部屋には、王太子と王太子妃が控えています。
扉が開け放たれ、最初に入ってきたのは、女官長ノアイユ伯爵夫人。
ふたりの前に跪き、『国王崩御、国王ばんざい!』と挨拶します。
これで、新王ルイ16世と、新王妃マリー・アントワネットが誕生しました。
太鼓が連打され、何百人もの将校や廷臣たちも叫びます。
『国王崩御、国王ばんざい!』
これは、代替わりの慣習でしたが、新しい御代が始まったことに、皆期待していました。
ルイ15世は、先代の太陽王ルイ14世の72年にこそ及びませんでしたが、幼少期のオルレアン公の摂政(レジャンス)時代も含めれば、治世は58年の長きにわたりました。
必ずしも国民から憎まれていたわけではありませんが、絶えずとっかえひっかえ愛妾を持つ不品行に人々はあきれ、度重なる戦争で国家財政は破綻し、国民生活は疲弊していました。
それに比べ、王太子ルイ・オーギュストは、頼りなげではあるものの、派手なところは全くなく、誠実な人柄と考えられてきました。
人々は、新王が国を建て直し、もっとまともな世の中にしてくれることに心底、期待していたのです。
その期待が大きかっただけに、後に裏切られたことが、とんでもない反動として返ってくることになりますが。
籠から飛び出してしまった鳥
ノアイユ夫人に先王崩御と即位を告げられたとき、ルイ16世とマリー・アントワネットは震えながら、『神よ、我らを守りたまえ、我らは国を統治するにはあまりに若すぎます』と叫んだと、王妃首席侍女となるカンパン夫人が老年になってから回顧録に記しています。
確かにルイ16世は19歳、マリー・アントワネットは18歳のときでしたが、心の底からこんなセリフを言ったかどうか。
王太子は国王の孫でしたから、若くして王位継承する覚悟はある程度あったはずです。
マリー・アントワネットに至っては、王妃になるなり、籠の中の鳥が羽ばたくように好き勝手するようになったので、内心はうれしくてたまらなかったのです。
もう、パリに観劇に行くにも、舞踏会に行くにも王の許可はいりません。
これからは夫が王ですが、彼は彼女のやることに口出しはできず、またする気もありません。
嫁入り以来、フランスのしきたり、しきたりで一挙手一投足を縛ってきたうるさい〝エチケット夫人〟ノアイユ夫人はさっそく解任。
カンパン夫人はじめ、お気に入りに首をすげかえます。
自分にマウントをとってきた先王の愛人、デュ・バリー夫人も追放です。
マリー・アントワネットは母帝マリア・テレジアのように政治権力を握ることにはまったく興味はありませんでした。
欲しかったのは自由。
同年代の女子のように、娯楽やファッションで、自分のやりたいことをやれさえすればよかったのです。
しかし、王族というものは、私生活でさえ自由に振る舞うと、現代にあってもとんだ非難を受けてしまいかねません。
しかも、ヴェルサイユ、そしてフランス王国においては、私生活のすべてが公のものであったのが、彼女の不幸でした。
内面勝負の国王と、外見勝負の王妃
それでも、新王即位と新しい御代の幕開けに、国中は沸き立ちました。
街中には、花輪で盛大に縁どられた新国王夫妻の肖像が飾られ、記念の彫刻、銅版画、メダルがあふれました。
しかし、新王ルイ16世は背が高すぎ、肥満しているし、どう美化しても風采は上がらず、国王の威厳を盛るのに、画家、彫刻家たちは苦労しました。
一方、新王妃マリー・アントワネットは、絶世の美女とはいえないにしても、名門ハプスブルク家の血としかいいようのない気高い気品が身についていて、夫王とは逆に、芸術家たちはその魅力を写しとるのに骨を折りました。
当時の証言には、透き通った卵のような肌、赤みと灰色の混じった豊かなブロンドの髪色、曲線美の極致というべきスタイル、洗練された立ち居振る舞い、と、彼女のルックスに対して最大限の賛辞が残っていますが、それをうまく表現できたと思える肖像画はないのです。
外見的には不釣り合いなカップルではありますが、内面の誠実な王と、外見の優れた王妃は、互いの欠点を補完しあい、国民の絶大な人気を得たのです。
一世を風靡した『イフィジェニー風髪型』
ルイ15世薨去直前の、『オーリードのイフィジェニー』初演には、マリー・アントワネットはお抱え髪結い師レオナールが結い上げた髪に、同じくお抱えファッションデザイナー、ローズ・ベルタン嬢の考案した、『イフィジェニー風髪型』で臨席しました。
それは、この物語のキーとなる女神アルテミスを表す月を頭頂にあしらい、尊い犠牲となるイフィジェニーをイメージした黒い花に黒いベールを垂らしたものでした。
国王崩御となり、オペラ公演はいったん打ち切りとなりましたが、この髪形はセンセーションを巻き起こし、貴婦人たちはこぞってこの『イフィジェニー風髪型』で喪に服したのです。
悲劇にちなんだ髪形が、偶然にも、本物の弔事を悼むのに使われたのです。
劇場中が『王妃ばんざい!』と大合唱!
明けて1775年1月10日。
先王の喪が明け、『オーリードのイフィジェニー』が再演されました。
マリー・アントワネットは1月13日の上演に臨席しましたが、その時の劇場の様子を、オーストリア大使メルシー伯爵が、女帝マリア・テレジアに次のように書き送って報告しています。
王妃は金曜日の13日に、オペラ座にお見えになりました。沿道には多くの人が繰り出し、王妃を歓呼して迎え、考えうる限りの大きな愛を示しました。王妃が劇場にお入りになると、同じことが起こりました。グルックの『イフィジェニー』を上演していましたが、第2幕に合唱があり、そこでアキレウスが自分に従う者たちに向かって『褒めたたえよ、われらが王妃を祝福せよ』と初めて歌う場面があります。その場面になり、アキレウス役の歌手は舞台の前に進み出ると、こう歌ったのです。『さあ、王妃を褒めたたえよう。われらが王妃を祝福しよう。結婚の神ヒュメナイオスが王妃を祝福し、すべての者が幸せになりますように』。*1
この場面はもともと、劇中の王妃クリュタイムネストラにかこつけて、グルックがマリー・アントワネットを持ち上げるために書いた音楽ですが、さらにセリフをアレンジして、新王妃を讃えたのです。
観客も熱狂し、アキレウス役に続いて『われらが王妃さま(ラ・レーヌ)、ばんざい!』と劇場中が大合唱しました。
マリー・アントワネットは感激のあまり涙ぐんだといいます。
王妃がこの感激を忘れず、国民のために尽くしていたら、歴史は変わっていたかもしれません。
この場面の音楽は今回取り上げますので、当時に思いを馳せて聴いていただければと思います。
『オーリードのイフィジェニー』登場人物
アガメムノン:ミケーネ王、ギリシャ軍総大将
クリュタイムネストラ(クリテムネストル):アガメムノンの妻、ミケーネ王妃
イピゲネイア(イフィジェニー):アガメムノンの娘、ミケーネ王女
アキレウス(アキレス、アシール):ギリシャ軍の英雄、プティア王ペーレウスと海の女神テティスの子
カルカス:ギリシャの祭司長
アルテミス(ディアーヌ):狩りと月の女神
パトロクロス(パトロコル):ギリシャの将、アキレウスの親友
アルカス:アガメムノンの衛兵隊長
グルック:オペラ『オーリードのイフィジェニー』第2幕前半
Christoph Willibald Gluck:Iphigénie en Aulide, Wq.40, Act 2
演奏:ジョン・エリオット・ガーディナー(指揮)アンネ・ゾフィー・フォン・オッター(メゾ・ソプラノ:クリュタイムネストラ)、リン・ドーソン(ソプラノ:イピゲネイア)、ジョゼ・ヴァン・ダム(アガメムノン:バス・バリトン)、ジョン・エイラー(アキレウス:テノール)、モンテヴェルディ合唱団、リヨン国立歌劇場管弦楽団【1987年録音】
注)音楽はハイライトのみの抜粋です。
第18曲 合唱
侍女たち
安心してください、美しいお姫さま、
まもなく、アキレウスはあなたの夫になります
アガメムノン、優しさに満ちた君主
英雄はギリシャでただ一人ですが、
あなたにふさわしい人は誰でしょう
何という魅力、何という威厳でしょう!
(第19曲 レシタティフとエール)
イピゲネイア
あなた方は私の不安を消し去ることはできません
アキレウスは王から、
私を軽んじているのではないかと疑われました
それによって信頼は失われました
彼の栄光は疑いによって傷つけられたのです
この疑惑は彼にとってこの上ない屈辱でした
私は、彼の目に大いなる怒りを見ました
父上の誇りもご存知でしょう
彼らはもう和解はできないのです
合唱
激しく、怒りに満ちた不屈のライオンは、
愛のためにそれを乗り越えて、
従順なため息をついて、
傲慢な頭を下げるでしょう
そして彼を傷つけた手が撫でるでしょう
イピゲネイア
あなた方は私の不安を消し去ることはできません
愛には弱い武器しかありません
名誉を傷つけられた英雄には
第2幕の舞台は、アウリス(オーリード)に駐屯するギリシャ軍総大将、アガメムノン王の仮宮殿。心変わりの噂があった英雄アキレウスと和解した王女イピゲネイアが婚礼の準備をしています。彼女の身支度をいそいそとする侍女たちは、英雄を父にもち、さらに英雄を夫とする王女をうらやましがり、祝福します。
しかし、イピゲネイアは不安でなりません。〝両雄並び立たず〟と言いますが、父と花婿とがギクシャクしていることに嫌な予感がしてならないのです。
第20曲 エール
イピゲネイア
恐怖と希望で、ああ!
私の弱い心は今にも張り裂けそうです!
怒りに勝つことができましょうか
彼は混乱して興奮しています
愛の神よ、あなたの力におすがりします
アガメムノン王の不屈の誇りを制し、
激高した恋人の怒りを和らげ、
彼らの間に幸せな和解を再びもたらせたまえ
私の幸福はそれにかかっています
恐怖と希望で、ああ!
私の弱い心は今にも張り裂けそうです!
暴力に勝てるものがありましょうか
彼は混乱して興奮しています
ああ! 私の心はどれほど苦しんでいるのでしょう!
怒りに勝つことができましょうか
彼は混乱して興奮しています
そもそも、花婿が浮気をしている、と母に告げたのは父王の部下。父が決めた結婚ながら、何かが起こっているのではないか…?疑われた花婿アキレウスの、父王アガメムノンに対する不信感は収まっていません。直情的なアキレウスが、怒りを直接父王にぶつけてしまったら、全ギリシャのリーダーとして誇り高い父王のプライドを皆の面前で傷つけてしまったら、どんな破局が待っていることやら。自分の不安をぬぐいたまえ、と一心に愛の神に祈る花嫁の歌です。途中でモデラートからアンダンテにテンポが上がり、不安で脈打つイピゲネイアの動悸を表しています。ヘ長調ではじまり、中間部のニ短調を経て、ふたたび前半が繰り返されるダ・カーポ・アリアです。
第21曲 レシタティフ
クリュタイムネストラ
娘よ、婚儀の神ヒュメナイオスは準備ができています
王自身が神殿で祝宴を準備しています
あなたにとって何という幸運、
私にとって何という名誉でしょう!
まもなくあの女神の息子が、
すべてのギリシャ人の目に映ることでしょう
イピゲネイア
ああ、偉大な神々よ!
あなた方を讃えます
クリュタイムネストラ
ほら、優しさに満ちたアキレウスが来ます
アキレウス
今日の主役、ヒュメナイオスが
私を愛するものと結びつけるでしょう
私の最高の幸福に至る道を、
王女よ、
妨げるものは何もありません
母の王妃クリュタイムネストラと花婿アキレウスが、喜びに満ちて花嫁を迎えに来ます。イピゲネイアも、ふたりの姿を見て、少し不安が和らぎます。
第22曲 行進曲
結婚行進曲です。舞台裏で演奏され、婚儀の準備が整ったことを知らしめます。
第23曲 レシタティフ
アキレウス
私の勇気の競争相手にして、
私の栄光の親友
私が天から受け取った素晴らしいもののうち、
パトロクロスはあなたの次に、
私にとって最も大切な人です
友情はその神聖な枝で私たちに冠を与えます
彼は私の幸せに満足し、
私は彼の願いを叶えます
私があなたにも友人を与えましょう
これ以上に貴重な贈り物はありません
アキレウスが、新たな登場人物、パトロクロスを花嫁に紹介します。パトロクロスといえば、アキレウスの有名な親友で、その友情はホメロスの叙事詩『イリアス』で歌われています。イピゲネイアをめぐって対立するアキレウスとアガメムノンですが、トロイアに出征後も諍いを起こし、アキレウスはアガメムノンには従っていられない、と戦線離脱します。アキレウスが抜けたギリシャ軍は苦戦に陥り、パトロクロスはアキレウスからその鎧兜を借りて、アキレウスが来た、とギリシャ軍を鼓舞しますが、戦死してしまいます。アキレウスは親友の死に激昂し、再び復帰してトロイアに立ち向かうのです。この物語ではそこまでの役割はありませんが、アキレウスといえば常に彼が横にいるため、ここで脇役として登場するわけです。パトロクロスは、アキレウスの故郷、テッサリア地方のリーダーなので、「テッサリアの人々」はギリシャの中でもアキレウスの率いてきた人々を指します。
アキレウス
歌おう、
王妃を祝福しよう
ヒュメナイオスは私を絆で結び
永遠に幸せにしてくれる
テッサリアの人々
歌いましょう、
私たちの王妃を祝福しましょう
ヒュメナイオスは彼女を絆で結び
私たちを永遠に幸せにしてくれる
記事本文で取り上げた、新王妃マリー・アントワネットを讃えるためのアキレウスの歌です。劇の筋からすると、王妃クリュタイムネストラが、この場面で祝福される脈絡はないので、まったく唐突ではありますが、当時の観衆は、臨席の王妃(ラ・レーヌ)に対するオマージュだと分かっているのです。直接的にマリー・アントワネットのために作られた音楽は、歴史的にもこの曲だけといっていいでしょう。
モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』でも、ハプスブルク家の圧政に苦しんでいたボヘミアの人々に対して、劇の筋とはあまり関係なく、主人公が『自由万歳!』と呼びかける場面があり、劇場中がこれに呼応して大合唱した、というエピソードがあります。こちらは、王妃万歳!とは正反対ですが、フランス革命前年のことです。
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第25曲 パッサカイユ
王妃へのオマージュに続き、劇の筋はいったん中断され、ディヴェルティスマンとなります。ディヴェルティスマンとは、フランス・オペラ特有の幕中劇で、ここでは結婚式をテーマとした祝祭空間となり、華麗なバレエと演出で観衆を楽しませました。中間にガヴォットを挟んだ本格的なものです。
第28曲 独唱、合唱
囚われたレスボス島人
レスボス島の乙女たちが
あなたに話をするためにやって来ます
勝者の命令に対し、
彼女たちの嘆願の声が響きます
ひとりの奴隷
彼女たちはあなたの最初の功績
私の祖国は灰燼に帰しました
奴隷たち
私たちに慈悲を与えてくだされば、
あなたは私たちの涙を乾かしてくれるでしょう
イピゲネイア
私はあなた方に不幸をもたらしました
私はこの祝祭によって
あなた方の酷い被害を慰め
あなたの受けた傷を癒します
来なさい、
あなた方は私の忠実な仲間になるでしょう
ディヴェルティスマンはさらに続き、歌が加わります。トロイア戦争の前哨戦として、アキレウスは、トロイア領のレスボス島に、テッサリア人を率いて攻め入り、これを滅ぼします。レスボス島は神話ではオルフェウスの首と竪琴が流れ着いた島とされ、以後芸術家を輩出しますが、その代表格である女流詩人サッフォーは、同性愛の尊さを謳ったため、「レスボス島人」の英語名「レズビアン」は同性愛者の意味となりました。のちに、国民の人気を失ったマリー・アントワネットが、レズビアンであるとゴシップ誌に書き立てられたのも歴史の皮肉です。
ここでは、アキレウスによって捕虜となったレスボス島人が、イピゲネイアの嘆願によって解放され、両国人が和解し、その徳を褒めたたえる内容となっています。
第28曲 奴隷たちの踊り
奴隷から解放されたレスボス島人が、自由と平和を喜んで踊ります。
第29曲 四重唱と合唱
イピゲネイア、クリュタイムネストラ、アキレウス、パトロクロスとギリシャ人たち
祭壇で最も神聖な誓いを立てよう
幸福な結婚生活、
もう厳しい運命は終わった
幸せな配偶者、
優しい恋人
ディヴェルティスマンが終わると、4人の登場人物が、婚礼の誓いを厳かに歌い、人々がこれに和します。
しかし、この幸せは砂上の楼閣でした。
次回、暗転します。
動画は引き続き、ジュリアン・ショーヴァン指揮、ル・コンセール・ド・ラ・ロージュによる、コンサート形式の上演です。
マリー・アントワネットを讃える場面では、幕の途中ではありますが、素晴らしさに「ブラヴォー」の掛け声と拍手が上がっています。
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今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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