孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

やっと王妃になれた!浮かれる娘と心配する母帝。~マリー・アントワネットの生涯35。グルック:オペラ『オーリードのイフィジェニー』第2幕後半

イピゲネイアに扮したマリー・アントワネット

王妃になった喜びを隠せない娘

先代のフランス王、ルイ15世が世を去り、ついに王妃となったマリー・アントワネット

義祖父の死を、オーストリアにいる母帝マリア・テレジアに知らせる手紙には、前半には悲しみが綴られているものの、後半は、晴れて王妃となった喜びが隠し切れていません。

マリー・アントワネットからマリア・テレジア

1774年5月14日

愛するお母様

私たちの不幸にまつわるもろもろの事柄につきましては、メルシーがご報告いたしたことと存じます。この恐ろしい病気は、幸いなことに最後まで陛下の理性を曇らせることはなく、ご臨終は神への帰依の心を強固にさせるものでございました。新国王は国民の心をつかんでおいでと見受けられます。祖父様が世を去る二日前に、世継ぎの王太子は20万ふらんを貧者に分け与えるよう指示なさいましたが、これがまことに良い印象をあたえました。前国王の没後は片時も休まず仕事をなさっています。みずから大臣やその他多くの者たちに書簡をしたためて、自分はなすべきことをまだよく理解しているとは言い難い、とお伝えになりました。ひとつ確かなことがございます。それは新しい国王陛下が倹約の精神をおもちであり、国民を幸せにしたいという熱烈な願望を抱いておられることです、ことあるごとに好んで進言に耳を傾けられ、またそうなさろうと努力なさっています。神が新国王の良き意志を祝福なさいますよう、心から願っております。

国民はこの時にあたって多くの変化を期待しています。しかし、今のところ陛下がなさったことは、あのふしだら女修道院に押し込め、恥ずべきその名を帯びているものを宮廷から一掃させただけです。陛下ご自身もヴェルサイユの民びとを見習わなければというお気持ちを固められ、前国王の逝去が知れ渡りますと、その愛妾のもっとも忠実な婢女となっていたマザラン夫人を激しく非難されました。この私に、罪深い誰彼のために陛下のご寛大な措置をお願いしてほしい、と懇願する者が少なくありません。

(中略)

私がこの地位につくことになりましたのは、生まれながらに神様がお定めになっておられたからですが、ヨーロッパ随一の美しい国にママの末娘の私をお選びになられた、その摂理の不思議を思わずにはいられません。私はこれまでにも増して、お母様の愛情のおかげを蒙っていることを感じています。お母様は私をこのすばらしい地位につけるために、並々ならぬ気づかいと苦労をなさったのですから。今の今ほど、お母様の足元に身を投げ出したいと思ったことはありません。そしてお母様にキスをして、この心をすっかり開いてお見せし、その心がどんなに尊敬と愛情と感謝に満ち満ちているか、ご覧になっていただくのです。*1

心配でたまらない母帝

手紙を書く喪服のマリア・テレジア

一方、ルイ15世薨去を誰よりもショックを持って受け止めていたのが、当の女帝マリア・テレジアでした。

彼女は、娘のマリー・アントワネットが、依然として幼稚で未熟、軽率なため、まだまだ王妃など務まらない、と確信していました。

こんなに早く王妃になってしまうのは、非常に危険な不幸、とまで考えていたのです。

しかし、本人は、この手紙に書かれているように、王妃になった嬉しさを隠そうともしていません。

手紙の前半では、新国王となったルイ16世の、民衆と国を思う心、特に倹約精神を讃えていますので、贅沢と浪費家の代表として歴史に名を残してしまっているマリー・アントワネットが、実はこんなまともな価値観をもっていたのか、と、後世の我々から見ると意外です。

この気持ちを忘れなければ、悲劇には至らなかったかも、とさえ思います。

ただ、後半は、王妃となったことへの浮かれた言葉が綴られており、母帝も、これを読んで頭を抱えたのです。

彼女は、地位の高さだけ見ていて、その責任の重さをまるで感じていないのです。

マリア・テレジアは、自分の敵であった前王の愛妾、デュ・バリー夫人が追放になったことに浮かれ、〝ふしだら女〟と呼んでいることも、危険極まりない、と危ぶみます。

愛妾の存在は、風紀や倫理に厳しいマリア・テレジアも受け入れがたいものでしたが、政治がからむと、より慎重さが求められます。

確かに失脚した旧勢力ですが、これをやっつけすぎると、どんな仕返しを陰でされるか分かりません。

王妃たるもの、全てに寛容と平等なスタンスを取るべきです。

このことひとつとっても、母帝からみた娘の王妃の将来には、暗雲しか見えませんでした。

この手紙への返信には、娘を戒める厳しい言葉が連なり、同時にメルシー大使に書き送った手紙には、有名な言葉が記されていました。

『この子の美しい日々は終わった、と私は思っています。』

マリア・テレジアは、これから亡くなるまでの6年間、娘の現状と将来に対する、心配と苦悩の日々を送ることになるのです。

 

それでは、マリー・アントワネット肝いりのオペラ、グルック作曲『オーリードのイフィジェニー』全3幕、今回は第2幕後半です。

『オーリードのイフィジェニー』登場人物

アガメムノン:ミケーネ王、ギリシャ軍総大将

クリュタイムネストラ(クリテムネストル)アガメムノンの妻、ミケーネ王妃

イピゲネイア(イフィジェニー)アガメムノンの娘、ミケーネ王女

アキレウス(アキレス、アシール)ギリシャ軍の英雄、プティア王ペーレウスと海の女神テティスの子

カルカスギリシャの祭司長

アルテミス(ディアーヌ):狩りと月の女神

パトロクロス(パトロコル)ギリシャの将、アキレウスの親友

アルカスアガメムノンの衛兵隊長

グルック:オペラ『オーリードのイフィジェニー』第2幕後半

Christoph Willibald Gluck:Iphigénie en Aulide, Wq.40, Act 2

演奏:ジョン・エリオット・ガーディナー(指揮)アンネ・ゾフィー・フォン・オッター(メゾ・ソプラノ:クリュタイムネストラ)、リン・ドーソン(ソプラノ:イピゲネイア)、ジョゼ・ヴァン・ダムアガメムノン:バス・バリトン)、ジョン・エイラーアキレウステノール)、モンテヴェルディ合唱団、リヨン国立歌劇場管弦楽団【1987年録音】

注)音楽はハイライトのみの抜粋です。

第30曲 レシタティフと合唱

アキレウス

王女よ、私の焦りを許してください

アガメムノンは祭壇で私たちを待っています

来てください、

そして最も幸福な人間の願いを叶えてください

アルカス

もう罪深い沈黙を維持することはできない

不幸な恋人たちよ、どこへ行くのか?

ああ、天よ!

否、否、

この祭壇に近づいてはなりません

アキレウス

アルカスよ、何を言うのか?

クリュタイムネストラ

あなたの言葉に私はおののきます

アルカス

あなたの夫君は、天の怒りの対象です

王は祭壇で娘を待っており

王女様を生けにえに捧げるつもりなのです

クリュタイムネストラ

彼が!?

私の夫が!?

イピゲネイア

父上が!?

アキレウス

あなたの父上が!?

クリュタイムネストラ

ああ、絶望だ!

ああ、これは犯罪だ!

全員

こんな恐ろしいことがこの世にあろうか!!

アルカス

そうだ、イピゲニア様なのです

女神が望んでいる犠牲は

テッサリア人たち(騒然として駆け寄る)

私たちはこの理不尽な犠牲を認めることはできません

彼女は私たちの王女であり、

アキレウスは彼女の夫です。

我々は皆滅びるだろう

イピゲニア様を守るために

クリュタイムネストラアキレウスにひざまずいて)

あなたの足に接吻する私を見るがよい!

この不幸な女を憐れんでくれ

私は娘をこの不幸な場所に連れてきたのだ

あなたと結びつけることを願って

結婚式に向けて、幸せいっぱいの一同。その祝福ムードについに耐えきれなくなってしまった、アガメムノン王の側近、衛兵隊長のアルカスがやってきて、恐ろしい秘密を暴露してしまいます。王は神の怒りを買っており、王女様を生けにえにするよう、女神様に強いられているのです、と。生けにえになる本人、その母と婚約者、そして祝うために集まっていた群衆。それぞれの衝撃が、グルックの迫力あるレシタティフによってドラマチックに表現されます。観衆も、ついにこの時が来てしまったか、という絶望感にとらわれます。

第31曲 エール

クリュタイムネストラ

残酷な父親によって死刑を宣告され、

神々にも見捨てられた

彼女にはあなたしかいない

そしてあなたはここにいる

彼女の夫であり、父であり、保護者であり、そして神だ

あなたは私の願いを叶えてくれるだろう?

これからのかけがえのない日々を守るだろう

あなたの瞳に燃えている怒りが

私に希望を与えてくれる

母である王妃クリュタイムネストラは、アキレウスに膝まずき、娘を救ってほしい、と頼みます。一番娘を守るべき父親が殺そうとしているのですから、頼みの綱は花婿しかいません。ロ短調アレグロモデラートで、母の悲痛な感情を表したエール(アリア)は、このオペラの中でも最も優れた歌のひとつに数えられています。オーボエオブリガートが悲しみの色を濃くしてます。

第32曲 レシタティフ

アキレウス

王妃よ、ご安心ください

そして心配しないでください

彼女の父親とギリシャ人を、

あなたの腕から引きはがしてあげましょう

私はここで彼を待ちます

イピゲネイア

私はあなたを離れるつもりはありません

私の主よ、落ち着いて私の話を聞いてください

アキレウス

残酷な者が私の名の下にあなたに死を与えました!

私の正義の怒りを取り除くことはできません

イピゲネイア

私の主よ、

神々の名において、

彼が私の父であることを忘れないでください

アキレウス

あなたの父上は、非道そのものだ!

アキレウスとイピゲネイアの劇的な対話です。アキレウスは愛する花嫁の命を守り抜き、父王と戦うつもりですが、王女は、自分よりも父をかばう気持ちでいっぱいなのです。

第33曲 三重唱

イピゲネイア

あの方は私の父なのです、あなた

私が愛する父親なのです

クリュタイムネストラ

確かにあなたの父だ!

そしてあなたの胸に刀を突き刺そうとしているのだ!

酷いことに

イピゲネイア

不幸な父上、

でもやはり私を大切に思っているはず

アキレウス

もう彼の中には、

邪悪な殺人者以外の何物も見えません

クリュタイムネストラ

天よ、私の勇気を支えてください

私はあなたにだけ願っています!

イピゲネイア

天よ、嵐を遠ざけ、

私の恐怖を払いのけてください!

アキレウス

天よ、私の怒りに捧げよ

心のない非道な人を

イピゲネイア、クリュタイムネストラアキレウス

おお天よ、聞いてください!

娘を生けにえにしようとしているアガメムノン王に対し、アキレウスクリュタイムネストラは怒りが募ります。しかし、イピゲネイアは、優しい父の愛を疑うことができません。3人のそれぞれの思いが交錯する、見事な三重唱です。モーツァルトは、この葛藤の三重唱に触発され、オペラ『クレタの王イドメネオ』でさらに素晴らしい四重唱を書くことになります。ハ長調アレグロ・ノン・タントで始まり、中間部でさまざまに転調し、最後は3人の声が重なり合い、天にも届けと絶叫します。

第34曲 レシタティフとエール

アキレウス

私についてきてくれ

パトロクロス

わかった

で、何がのぞみなのだ

何をやろうというのだ?

神託を聞いて、

神々や父親と同じくらい残酷に

あなた自身が彼を殺すのか?

アキレウス

誰が?

自分が?

(エール)

走って行って、彼に伝えてほしい

何も恐れることはないと

腹は煮えくり返り、

激しい怒りに震えているが、

私は愛に満たされている

どんなに怒りに我を失っても、

私は自分を抑えることを知っている

彼女を生んでくれた人に感謝している

アキレウスは、親友パトロクロスに声をかけ、一緒に来てほしい、と頼みます。パトロクロスは応じるものの、何をする気だ?王を殺すのか?と尋ねます。これに対し、アキレウスは、愛するひとの父が愛するひとを殺そうとしている、という状況に対する複雑な思いを、エールで歌います。テンポはアレグロモデラート、アダージョアレグロ、レント、アレグロ、と目まぐるしく変わり、怒りのやり場のない彼の混乱ぶりを表現しています。

第35曲 レシタティフ

アキレウス

ああ、天よ!

彼が私の中に引き起こす怒りを抑えたまえ

わが願いを聞き入れたまえ!

アガメムノン

アキレウスよ!

もう知っているのか?

アキレウス

私はあなたの非道な計画を知っている

慈悲と信義を無視して

私へ侮辱と恥辱を与えんがために

驚愕と恐怖以外の何ものでもない行為を

決心したことを

またあなたがそれをできないことも分かっている

私の怒りの腕が

復讐のために振り下ろされないのは

ひとえに愛のためだ

アガメムノン

傲慢な若者よ

そなたの大胆さは私を呆れさせ、憤慨させる

そなたは忘れている

私が全ギリシャを支配していることを

自分の計画は神にのみ説明する義務があるのだ

そなたは忘れている

20人の王が私の権力に服従していることを

不平など漏らさずに

そなたも敬意を持って

私の命令を待つべきなのだ

アキレウス

神々よ!

この思い上がった言葉をどう思うのか?

あなたの娘は私のものだ

私の権利はあなたの誓いだ

あなたの言葉は私の幸せの保証だ

あなたは約束を守るべきなのだ

アガメムノン

私をこれ以上侮辱するのはやめよ

今日彼女にどんな運命が訪れるとしても

静かに受け入れるのだ

父と神々が定めたことなのだ

アキレウス

あなたは私に向かって何を言っているのか

まったく信じられない

名誉と愛を踏みにじって、

きょう、あなたの娘を犠牲にするという、

残忍な行為を私が見過ごすとでも?

アガメムノン

そなたは私が自分の地位も名誉も忘れて

なおも不埒な言葉に耐え続けると思うのか?

王の登場を表すマエストーソの前奏に乗って、ついにアガメムノン王が現れます。さっそくに王に食ってかかるアキレウスに対し、アガメムノンは、誰に向かってそんな不遜な口を聞いているのか?と、王の威厳を保とうとします。アキレウスはかまわず、王を責め続けます。

アガメムノンアキレウスの諍いは、トロイア戦争神話の中でも基軸となるテーマで、このイピゲネイアの1件が終わったあとも、戦争中に何度も衝突します。ホメロス叙事詩イリアスを、アキレウスの怒りから歌い起こしています。

怒りを歌え、女神よ、ペレウスの子アキレウスの、アカイア勢に数知れぬ苦難をもたらし、あまた勇士らの猛き魂を冥府の王に投げ与え、その亡骸は群がる野犬野鳥の喰らうにまかせたかの呪うべき怒りを。かくてゼウスの神慮は遂げられていったが、はじめアトレウスの子、民を統べる王アガメムノンと勇将アキレウスとが、仲違いして袂を分かつ時より語り起こして、歌い給えよ。

ホメロスイリアス』第一歌冒頭)*2

イピゲネイアをめぐって争うアガメムノンアキレウス(ジャック=ルイ・ダヴィッド『アキレスの怒り』)
第36曲 二重唱

アガメムノン

そなたがいかに大胆な無礼を働いても

私はそなたをおさえつけてやる

アキレウス

あなたの血に飢えた怒りから

私は彼女を救ってみせる

アガメムノン

何という向こう見ず!

アキレウス

非道な父親よ!

アガメムノン

おののけ、私の怒りを恐れよ

私の恨みが何をもたらすかを!

私が黙って侮辱を受け入れるかどうか

思い知らせてやる!

アキレウス

おののけ、私の怒りを恐れよ

私の恨みが何をもたらすかを! 

私が黙って侮辱を受け入れるかどうか

思い知らせてやる!

レシタティフに引き続いて、ふたりの言い争いの二重唱ですが、ふつうは合わせて1曲とされるところ、レシタティフが「第35曲」と独立したナンバーとされていることから、前曲が重要視されていることが分かります。ヘ長調のプレストで、それぞれの誇りと立場を一歩も譲らない両者の対立が描かれます。

第37曲 レシタティフとエール

アキレウス

あなたに言いたいことはあと一つだけだ

この一言で十分だ

私が愛するものを犠牲にするという

あなたの極度の非道は

私の心を鬼とする

アガメムノン

彼女の運命を決めたのはそなただ

そなたの向こう見ずな大胆さが、

彼女の死を早めてしまう

彼女は死を迎えるだろう

兵士たちよ、来るのだ!

おお神よ!

私は何をするのだ?

それは義務だ!

残酷なことに、私がお前たちに引き渡そうとしているのは私の娘だ

私の娘、

長い間愛情を注いできた娘

私の心は引き裂かれている

いや、彼女が死んではならない!

ああ!

私の心は何と弱いことか!

神が禁じた彼女の生命を守るために、

行動しなければならない

しかし、ギリシャの利益を犠牲にするのか?

アキレウスの裏切りに耐えなければならないのか?

いや!

そんなことはできない

むしろ娘を祭壇に引き出して、殺すべきか

私の娘!

身震いが止まらない!

イピゲニア、おお天よ!

花で飾られ、人殺しの刃に清らかな胸を向ける、

あの娘が目に浮かぶ

血まみれになった姿を見られるのか?

私はひどい父親だ!

聞こえぬか?

すでにエウメニデスの叫びが

彼女があやつる毒蛇の、

シューシューという恐ろしい音が響く

もはやわが娘の死に仇なすという災いをはじめている

野蛮人よ!

止めるのだ!

神々は私に罪を犯させた

彼らが私の手を導いたのだ

彼らが犠牲を出させたのだ

どうなのだ!

あなたの怒りを抑えることはできないのか?

あまりにも残酷だ

私は焦る

私を圧迫し、責めさいなむ良心の苦しみは、

あなたよりもなお強いのだ!

(アルカスに)

忠実なアルカスよ、

妃に同行してくれ

彼女と一緒にすぐにミケーネに向かってくれ

娘をこの場所から逃がすのだ

彼女をみなの目から隠すのだ

行け!

(アルカスと衛兵退場)

アガメムノンは、王である自分を責めたてるアキレウスに対しては毅然とした態度で退け、威嚇しますが、娘を死なせたくない気持ちは、肉親としてアキレウス以上です。アキレウスは激しく反抗して去ってゆきますが、アガメムノンの心中は千々に乱れます。国王、また全ギリシャ軍の総帥として、私情は挟めない立場。しかし、愛娘を犠牲にしたくない気持ちもまた、それ以上に彼を苦しめます。オーケストラは激しい下行音型を何度も繰り返し、彼の葛藤をなぞります。そして、オーボエが、半音階的な下降句を数回繰り返した末、彼は、やっぱり娘を救おう、という決意に至ります。側近である衛兵隊長アルカスを呼び、王女と王妃を本国ミケーネにこっそり連れ帰ってくれ、と命じます。もちろん、そんなことでギリシャ軍の将兵や神をごまかせるはずはないのですが、肉親の情は彼の公的な立場を越えたのです。

(エール)

アガメムノン

おお、わが最愛の娘よ、

無垢で純真によって聖化されたものよ

罪を犯した父親を許してくれ

この心は後悔にさいなまれているのだから

ああ!

お前をはじめて見たとき、

まわらぬ舌で私のことをはじめて父と呼んだ

そして今、

私は血まみれの手で

お前を生けにえにする準備をしていたのだ!

無慈悲な怒りの女神よ、

あなたが必要とする殺人には私自身を提供しよう

あなたの執拗な怒りをそれで晴らすがよい

血が欲しいのなら、私の血を流してくれ!

続くアガメムノンのエールは、心に沁みます。イ短調モデラートで、娘への愛を切々と歌います。父王の心に浮かぶのは、まだ幼い頃の娘の姿。たどたどしく〝パパ〟と初めて呼んでくれたときの感動を思い起こします。そんなかけがえのない娘を、神は奪おうというのか?後半、音楽はイ長調アレグロに変わり、女神アルテミスに、娘を殺せというなら自分が死のう、それでご満足だろう!と叫びます。グルックの改革オペラ、フランス古典主義の真骨頂というべき、人間の心のうちを見事に描いたドラマチックな場面です。

この父の叫びで、第2幕の幕が下ります。

次回は最終幕、第3幕です。

 

動画は引き続き、ジュリアン・ショーヴァン指揮、ル・コンセール・ド・ラ・ロージュによる、コンサート形式の上演です。

動画プレイヤーは下の▶️です☟

今回もお読みいただき、ありがとうございました。

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クラシックランキン

 

*1:パウル・クリストフ編・藤川芳朗訳『マリー・アントワネットマリア・テレジア 秘密の往復書簡』岩波書店

*2:ホメロスイリアス(上)』松平千秋訳・岩波文庫