孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

今、ベートーヴェンを聴く意味とは。交響曲 第5番〝運命〟より第2~4楽章

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第1楽章冒頭の自筆譜

自由・平等・博愛を追求した作曲家

ベートーヴェンの、あまりにも有名な交響曲 第5番 ハ短調〝運命〟。今回は、第2楽章から最後まで聴きます。

ベートーヴェンの音楽は、ハイドンモーツァルトの影響を大きく受け、その基盤の上に成り立っていますが、音楽の個性はかなり違っています。

一番の違いは、彼自身の感情や思いというものが、かなり強く反映されているということです。

また、そこには社会性、特に、貴族社会から市民社会へという世界史の転換期にあった時代精神も大きく盛り込まれています。

先輩であるモーツァルトは、時代の転換に直面した最初の作曲家で、身分差別に反発し、宮廷を飛び出して自由な音楽家としての生活を志向しました。

そして、広がる啓蒙思想自由、平等、博愛という理念を、『フィガロの結婚』や『魔笛』といった作品に盛り込みましたが、フランス革命の進展を見ることなく、世を去りました。

〝危険分子〟だったベートーヴェン

これに対し、ドイツの中でもフランスに近いボンに生まれ育ったベートーヴェンは、青年期をフランス革命の進行の中で過ごし、さらに強く、自由主義、共和主義思想に共鳴していました。

彼は運よく、ロンドンに行く途中にボンに立ち寄ったハイドンの目に留まり、その推薦でケルン選帝侯の援助を得てウィーンに留学し、ハイドンの門下に入ってそのキャリアをスタートさせますが、ほどなく、ボンのケルン選帝侯の宮廷はフランス革命を受け継いだナポレオン軍により吹っ飛ばされてしまいます。

そのせいでベートーヴェンは選帝侯からもらっていた給付奨学金もなくなり、自活せざるを得なくなりますが、仇敵であるはずのナポレオンが、人民の権利のために戦っている姿に共感し、第3交響曲エロイカ(英雄)』を作曲し、彼に献呈しようとします。

しかし、ナポレオンが自ら皇帝に戴冠した報に激怒し、楽譜の表紙に書かれたボナパルトの文字を抹消したのは有名なエピソードです。

その後、ナポレオンが敗北し、ヨーロッパはオーストリア首相メッテルニヒが主導するウィーン反動体制下に置かれ、革命の芽は摘まれ、自由主義思想は弾圧されますが、ベートーヴェンの自由への思いは募る一方でした。

ウィーンのカフェでは、ベートーヴェンは大声で政府や貴族階級への批判を繰り広げ、自らの共和主義的信条を吐露していたので、心配した友人のひとりが『会話帳』にこう書き込んでいます。

そんなに大声を出さないでください、あなたの人相は知られすぎているのですよ。

では、またにしましょう、いまはあいにくスパイのヘンゼルがここにいますから…*1

実際、1820年には、警視総監セドルニツキー伯爵が、ベートーヴェンを逮捕、収監すべきか、皇帝フランツ2世にお伺いを立てています。

それは見送られましたが、ベートーヴェンの名声は全ヨーロッパに轟いていましたから、そんなことをすれば革命の火種にもなりかねなかったでしょう。

また、皇帝の異母弟ルドルフ大公は、ベートーヴェンの唯一の作曲の弟子でもありました。皇弟の師匠を逮捕するわけにもいかなかったのです。

今、ベートーヴェンを聴く意味とは

ベートーヴェンが音楽の中に盛り込んだと考えられる〝感情〟は、人生の苦悩との闘い女性への憧れや恋愛感情自然への愛、などが受け取れますが、自由、平等、博愛、特に人類愛コスモポリタニズムへの熱い思いは、中でも重要な位置を占めているのです。

ベートーヴェンの人生の後半は、フランス革命の理想が頓挫し、時代が逆戻りした時期でしたが、今も同じような状況ではないか、と思われてなりません。

1989年のベルリンの壁崩壊に始まる、ソ連の解体、冷戦の終結には、いよいよ世界史が次の段階に移った、新しい時代が来た、ということを強く感じさせられました。

ベートーヴェンの『第9』が流れる中、大国がいがみ合っていた時代が終わり、世界が一体となり、戦争がなくなっていくのが世界史の大きな流れなのだ、と思いました。

特に、これまでも世界史をリードしてきたヨーロッパでは、EUの出入国の緩和、通貨統合と、どんどん結束が進んでいきました。

国境が実線から点線になり、そして未来にはなくなってゆくのではないか、そうすれば戦争がなくなるのも夢物語ではないように思えたのです。

ところが、このほんの数年の間に、国際社会では大国がエゴを押し通し、偏狭なナショナリズムが勃興し、覇権主義がぶつかり合うようになってしまいました。

さらに、独裁的な体制、指導者が増え、人権抑圧や民主化運動の厳しい弾圧、人種差別や特定民族への迫害など、冷戦期どころか、大戦前、いや啓蒙思想が広がる前の中世まで歴史が逆戻りしてしまったのではないか、とまで思うきょうこの頃です。

頼みのEUも、英国が離脱するなど、結束に緩みが出て嘆かわしい有り様です。

とはいえ、人類の歩みは、三歩進んで二歩戻る、ということを繰り返してきましたから、今はちょっと戻っているけれども、再び進んでいくのだ、ということを信ずるしかありません。

今年は、ベートーヴェン生誕250周年ですが、思ったほどに盛り上がっていないように感じます。

新型コロナウイルスの影響で多くのコンサートや行事が中止になってしまったことも大きいですが、ベートーヴェンの不屈で闘争的な音楽が、あまり人の心に響かない時代的雰囲気があるのかもしれません。

自分も含めて、どこかで、仕方がない、と諦めてしまっているとしたら、今こそ、ベートーヴェンの音楽に耳を傾け、彼の理想を胸に受け止め、人類のこれからを考え、行動していかなければならないと思います。

〝運命〟は、長調短調コントラスト、そして音の強弱のコントラストが、すさまじいまでに強調された音楽です。

特に、第3楽章から第4楽章の推移は、単なるクレッシェンドではなく、長々と焦らすようなピアニッシモが続き、緊張と期待と興奮を極限まで高まらせてから爆発させるという、後にも先にもない手法を採っています。

苦悩を乗り越えての歓喜

それが表わすものは、ベートーヴェン自身の内面なのか、それとも世界人類の未来なのか。

作曲家のメッセージをどう受け止めるかは、聴衆ひとりひとりなのです。

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初版の表紙。ロプコヴィッツ侯爵とラズモフスキー伯爵に献呈。

ベートーヴェン交響曲 第5番 ハ短調 Op.67〝運命〟

演奏:ホルディ・サヴァル指揮 ル・コンセール・ナシオン(古楽器使用)

Jordi Savall & Le Consert des Nations

第2楽章 アンダンテ・コン・モート

ベートーヴェンは、短調の曲の緩徐楽章を、たいがい下属調の平行長調に設定しますが、この曲のような、ハ短調のときの変イ長調は、とても心に沁みる、抒情的な曲になります。〝悲愴ソナタの第2楽章が先行する例です。

この楽章は、ふたつのテーマをもつ変奏曲形式になっています。第1テーマは、コントラバスがピチカートを鳴らす上に、ヴィオラとチェロのユニゾンで歌い出されます。低弦を新しい活用が目立つのもこのシンフォニーの特徴のひとつです。テーマの歌い出しにはdolce(甘く)の指示がありますが、子供心には、激烈な第1楽章のあとのこの優しさには、底知れぬ不気味さを感じたものです。続いて木管が和す変奏は天国的な雰囲気に包まれています。

第2テーマは、行進曲調のもので、クラリネットファゴットで同じく優しく歌われますが、不安な陰が差したと思ったら、ティンパニとトランペットを伴って高らかに、まるでファンファーレのように強く激しく奏されます。その後、めくるめくように、夢のような変奏が続く中、この強奏が繰り返し奏されるたび、甘い天国の夢から、時々現実に引き戻されるような気がします。モーツァルトハイドンの緩徐楽章のように、ずっと甘さの中にひたらせてくれないのです。その対比は、繰り返される戦争と平和を表しているのか、現実の厳しさとつかの間の幸せな時間の対比なのか。

『運命動機』とはテンポは異なっていますが、4音目のフェルマータや同音連打が随所に見られ、第1楽章との関連性の強さを感じさせます。

変奏は、時にはどこまでも高貴であり、時には皮肉で俗っぽい響きにもなります。聴くほどに、心を乱してやまない音楽です。

第3楽章 アレグロ

形式的にはハイドン以来の3部形式のメヌエットですが、実質的にはこの奔放な内容はベートーヴェン独自のスケルツォといってよいでしょう。

スケルツォの開始は、チェロとコントラバスにより、地獄の底から響いてくるように不気味に奏されますが、その音型は、モーツァルトト短調シンフォニー(第40番)の第4楽章のテーマとの相似が指摘されています。調性も拍子も違うので、言われなければ気づきませんが、コード進行と音程の動きがほぼ同じなのです。意識して素材として使ったかどうかは分かりませんが。この音をよく聞こうと思ってボリュームを上げると痛い目に遭います。メインテーマが、続いてホルンで高らかに奏されるからです。このテーマこそ、戻ってきた「運命動機」で、第1楽章と密接に結びつけられています。しかし、第1楽章のような切迫感はなく、毅然として前に進んでいくような感じを受けます。

トリオは、低弦から始まり、フガートとなって他の楽器に広がり、盛り上がっていきますが、ベルリオーズによって〝象のダンス〟と評されました。

やがてスケルツォに戻りますが、それが終わったあと、反復するかどうか、の論争があります。元の楽譜には反復(ダ・カーポ)の指示はないのですが、反復すべき、という説があり、指揮者の方針によって異なります。それは、初版のパート譜に誤りがあって、チェロとコントラバスのパートが解決しない和音で終わっており、繰り返す(厳密にはダ・カーポではなく、第3小節へのダル・セーニョ)ということなら解決できるからです。しかし、ベートーヴェンが初演後、反復の削除を指示した書簡が残っており、初版後に筆写された楽譜にも反復指示はないため、初演では繰り返され、その後ベートーヴェンが反復なしに修正した、ということのようです。初版はそのせいで混乱して、誤りを生じたと考えられます。初演の忠実な再現をしようとするなら繰り返し、ベートーヴェンの最終的な判断に従うなら繰り返さない、ということになろうかと思います。ダ・カーポするとかなり長大な楽章になり、曲の性格にもかかわってきます。古楽器演奏もまっぷたつに分かれており、アーノンクールノリントン、ホグウッド、ガーディナー、ハーゼルベックはダ・カーポし、サヴァル、クルレンツィスはダ・カーポしていません。

そして、いよいよアタッカにつながるコーダです。50小節の間、ティンパニが運命動機を打ち続け、チェロとコントラバスの持続音が途中まで続きます。何かが近づいてくる、いったい何が…?不気味な沈黙があたりを支配します。

シューマンは1817年、7歳の時に、父に連れられてドレスデンに行き、ウェーバーが指揮するこのシンフォニーを聴きます。幼いシューマンはこの箇所で、『こわい…』と父親の腕にしがみついたということです。

最後、ティンパニがロールに移り、一気に壮大にクレッシェンドして、天が開きます。

第4楽章 アレグロ

一気に爆発する、有名な歓喜の楽章です。誰でもピアノで弾ける、童謡のように単純な音型ですが、これこそが、広く普遍的に伝わることを狙ったメッセージであり、市民のための音楽だったのです。

史上初めて、シンフォニーにトロンボーン、ピッコロ、コントラファゴットが加わり、圧倒的な迫力で苦悩の末に勝ち取った勝利を謳います。まるで、古代ローマ凱旋式を見ているかのようです。

やがて、オーボエクラリネットファゴットとホルンが、天空を翔けるかのような、英雄的な心情を感じさせる第2主題を奏でますが、実はこの音型も、モーツァルトの最後のシンフォニー、〝ジュピター〟(第41番)の第2楽章のメインテーマにそっくりなのです。その瞑想的な調べとは似つかないほど勇壮な調子に変えられていますが、メロディラインをたどると、まさにそのままです。第3楽章と合わせて、ベートーヴェンがあえてモーツァルトの最後のシンフォニー群から引用したということは、先輩へのオマージュからか、先輩を乗り越えようとしてのことなのか、意図は分かりませんが、単なる偶然の一致とは思われません。

続くフレーズは運命動機に基づくもので、沸き立つように楽しく、興奮させられます。

従来の演奏では、提示部の繰り返しはないのですが、楽譜には明確にダ・カーポの指示があるので、オーセンティックな古楽器演奏では、ここはほとんど繰り返しています。第3楽章のあのアタッカから達した頂点が、再び普通の顔で戻ってくるのに違和感を感じる人は多いかもしれませんが、この曲が、革命的ではありながらも、基本はハイドン以来の古典派シンフォニーだということを思い出させてくれます。

しかし、展開部に入って、第3楽章の終結部が回帰し、アタッカの部分を再現するのは、全く型破りです。楽章同士のここまでの干渉はこれまでの曲では見られませんでした。それは、勝利の幸福に満たされた中でも苦悩の時代を忘れるな、という教訓なのでしょうか。全楽章が有機的に関連し、何かのメッセージを強烈に伝えるという、シンフォニーの新しい形がここで示されたのです。

最後のコーダは、テンポがプレストに速められ、『エロイカ』のコーダのように、めくるめくような盛り上がりの、壮大なスケールをもちます。

終わりそうで終わらない、手に汗握るような展開の中で、全曲が締めくくられます。

この曲の新しさは、200年経ってもまだ褪せることがないばかりか、我々後世の人間に、ずっとメッセージを送り続けているのです。

 

モーツァルトのシンフォニーの記事はこちらです。

www.classic-suganne.com

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今回もお読みいただき、ありがとうございました。

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*1:青木やよひ著『ベートーヴェンの生涯』平凡社