孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

気宇壮大なるコンチェルトのエンペラー。ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調《皇帝》

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ベートーヴェンの後援者にして弟子、ルドルフ大公(1788-1831)

数あるピアノ・コンチェルトの〝皇帝〟

前回のピアノ・コンチェルト 第4番 ト長調 作品58を作曲した3年後、ベートーヴェンはさらなる挑戦として、『ピアノ・コンチェルト 第5番 変ホ長調 作品73』を作曲します。

この曲こそ、ベートーヴェン最後にして最大のピアノ・コンチェルトであり、その気宇壮大、華麗にして豪華なことは、古今の人々を圧倒してきました。

情緒纏綿たる第4番とは、『田園』と「運命」のごとく、好対照を成しています。

その威風堂々とした偉容から、〝皇帝〟と呼ばれていますが、それはベートーヴェンが自分で題したり、ちなむエピソードがあったりするわけではなく、出版者のJ.B.クラマーが出版にあたって名付けたものです。

いわば、販促用のキャッチコピーであって、神聖ローマ皇帝や、フランス皇帝ナポレオンなどとは全く無関係です。

まさに数あるピアノ・コンチェルトの〝皇帝〟として冠された愛称なのです。

でも、その気高さ、雄大さは、まさにピッタリのネーミングと言わねばなりません。

私は幼少の頃、母に『英雄』のレコードが欲しい、とねだったところ、母は間違って『皇帝』を買ってきました。

確かに似たような感じの名前なので無理もないのですが、がっかりして仕方なく聴き始めたところ、すっかり夢中になってしまいました。アルトゥール・ルービンシュタインの華麗なピアノにはただただ圧倒されるばかりでした。

ナポレオンの弟からの招き

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ジェロームボナパルト(1784-1860)

さて、ベートーヴェンは、大失敗だった1808年の第4番の初演のあと、ほどなく次作としてこの曲にとりかかるのですが、完成、そして初演にこぎつけるまでには色々なことがありました。

まずは、演奏会の失敗ですっかりウィーンが嫌になってしまったベートーヴェンに、悪魔の誘いがあったのです。

それは、ヨーロッパを侵略していたナポレオンが、プロイセンの一部領土やその他のドイツ領邦、英国王の出身地ハノーヴァーなどを奪って作ったヴェストファーレン王国の宮廷楽長になってほしい、という招聘でした。

その国王には、ナポレオンの末弟ジェロームボナパルトが即位していました。

まさにフランスの傀儡国家に過ぎません。

前年の1807年にできたてホヤホヤの王国だったので、カッセルにおかれた宮廷を、一刻も早く権威あるものにしなければなりません。

そこで、名声高いベートーヴェンを、宮廷楽長に招いて箔をつけよう、という目論見でした。

よく知られているように、ベートーヴェンは、フランス革命の理念に共感し、人民のために危険を顧みず戦うナポレオンを尊敬し、敵国の指導者ながら、彼に捧げるために『英雄』を書きましたが、彼が自ら皇帝に即位した報に激怒し、献呈を取り消しました。

ヴェストファーレン王国などは、人民の解放者から、侵略者になったナポレオンの〝変節〟ぶりの見本のような国なのですが、なんとベートーヴェンはこの話に乗る気になったのです。

自分をあまり評価してくれていると思えないウィーンへの失望と、また生活を安定させ、創作に打ち込める環境の魅力とで、食指が動くのも理解はできますが…。

大金を出してベートーヴェンを引き留めた貴族たち

ただ、本人もさすがに迷いに迷い、友人たちに相談しています。

特に、話をきいたエルデーディ伯爵夫人は驚き、ベートーヴェンをウィーンから去らしてはいけないと、数々の貴族たちに働きかけました。

その結果、ルドルフ大公が1,500フローリン、ロプコヴィッツ侯爵が700フローリン、キンスキー侯爵が1,800フローリンを毎年出し合うことになり、年4,000フローリンの年金をベートーヴェンは受給できることになったのです。

契約内容は次の通りでした。

第1条 生活の高い当地の現状を鑑み、年額4,000フローリンの年金を貴族が分担して支給することで、ベートーヴェンが作曲に専念できる環境を整える。

第2条 演奏旅行の自由は常に保証するものとし、個人の収益活動を妨げない。

第3条 将来において宮廷作曲家となり、その俸給が前記の額を満たすならば、年金を全額辞退したいと願望する。ウィーン宮廷楽長の称号こそ当人の最高の幸福である。

第4条 毎年復活祭前の日曜日にアン・デア・ウィーン劇場を当人の受益のための自作品による演奏会に使うことを保証する。ただし、これに対し、年1回の慈善演奏会を指揮するか、新作1作を提供する義務を負うこととする。

1809年3月1日*1

これは素晴らしい条件です。現代、芸術家個人にこれほどの援助ができる企業や資産家はいるのでしょうか。

以前、モーツァルトが宮廷作曲家に任じられたときの俸給は800フローリンで、前任のグルックでも2,000フローリンだったのです。

もっとも、この後の戦争で、通貨の切り下げや支援貴族の破産などもあり、この年金は必ずしも順調に支給されたわけではありませんが、ルドルフ大公だけは最後まで援助を絶やさなかったとのことです。

このコンチェルトは、まさに、生活への不安が払拭された時期に書かれたのです。

希望と自信に満ち溢れた曲調に仕上がっているのもうなづけます。

ちなみにヴェストファーレン王国は6年しかもたず、1813年には消滅してしまっていますから、つくづくベートーヴェンは行かなくてよかったですね。転職は慎重に…。

風雲急を告げる中での作曲

しかし、その後すぐに戦争が始まり、ナポレオンが攻めてきて、1809年4月11日にウィーンはナポレオン軍に占領されました。

後援者たちもこぞって疎開してしまい、音楽会どころではありません。

そしてその混乱の中、ハイドンがその偉大なる生涯を閉じています。

そんなこんなで、風雲急を告げる中で完成されたこの曲が最初に演奏されたのは、ウィーンではなく、1811年になってから、ライプツィヒゲヴァントハウスにおいてでした。

ピアノ独奏は、オラトリオ作曲家として高名だったフリードリヒ・シュナイダーです。

しかし、評判はおもわしくなく、音楽新聞『タリア』には、この曲がなぜ拍手喝采を得られなかったのか、について、『ベートーヴェンは大多数の人々のために書いているのではない』と評し、彼の創作意図は専門家にしか分からず、一般大衆から遊離している、と指摘しています。

ウィーン初演は1812年2月15日で、ピアノ独奏は、難聴が進んで任に堪えられなくなった師に代わり、愛弟子のカール・チェルニーが務めました。

しかし、この曲が絶対的な名曲として不動の評価を得るのは、ベートーヴェンの死後、1830年代になってからでした。

チェルニーも、この曲はピアノがよく響かないので、その後は演奏を渋ったといわれています。

ピアノとオーケストラが対等に対決するこのコンチェルトにおいては、だいぶ改良されたとはいえ、当時のピアノでは音量でオケに負けてしまうのです。

現代のグランドピアノなら、ベートーヴェンの意図が遺憾なく発揮されます。

日々進化するピアノの未来を見越して作曲されたといってもよい曲でしょう。

そんなわけで、今回もアーサー・スクーンダーエルド(アルテュール・スホーンデルヴルト)のフォルテピアノによる演奏で聴きます。

少人数の古楽器オーケストラなので、フォルテピアノの音量とぴったりなのです。特に第3楽章のロンドは最高です。

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調 Op.73

Ludwig Van Beethoven:Konzert für Klavier und Orchester Nr.5 Es-dur Op.73 "Kaiser"

演奏:アーサー・スクーンダーエルド(アルテュール・スホーンデルヴルト)(フォルテピアノ)、クリストフォリ

Arthur Schoonderwoerd (fortepiano)& Cristofori

第1楽章 アレグロ 

第4番と同様、最初からピアノ・ソロが登場しますが、まずオーケストラが変ホ長調の主和音を力強く鳴らしてからです。しかし、ピアノが弾くのはメインテーマではなく、華麗なカデンツァです。カデンツァは曲の終わりに、独奏者の名人技を即興的に披露して締めくくるものですが、この曲ではそれを最初にもってきていることと、演奏者の即興を許さず、作曲者が作曲していることが画期的です。もはや、ソリストのためのコンチェルトではなく、ピアノ・ソロつきのシンフォニーといってよいでしょう。

ピアノの華麗な響きは目もくらむばかりです。

やがて弦が颯爽とした第1テーマを奏で、管が受け継いで展開していきます。ティンパニの轟きは砲声のよう。第2テーマをヴァイオリンがスタッカートで刻むうち、ピアノが再登場し、緊張感に満ちた力強さでオーケストラと対峙します。

この曲の楽想が書かれたスケッチ帳の余白には、『戦闘へ、歓喜の歌』『攻撃』『勝利』といった言葉が書き込まれているので、戦争に高揚した気分が反映しているのかもしれません。リズムは行進曲を思わせます。

それでいて、時々哀愁が漂ったり、つかの間の平和なひとときを思わせる部分もあります。第1楽章だけで20分間にわたり、展開部の果てしない長さと複雑さには、確かに当時の人々が容易についていけなかったのもむべなるかなです。

第497小節にはフェルマータが置かれ、ふつうはそこからカデンツァに入りますが、ベートーヴェンはしっかり書き込み、『カデンツァは不必要で、そのまま続ける』と指示しています。ふつうのコンチェルトはカデンツァのあと、後奏はひとしきりで、カデンツァの興奮冷めやらぬうちに終わりますが、この曲では、カデンツァ風の部分のあとも、オーケストラはピアノと一緒にクライマックスを形作っていくのです。

第2楽章 アダージョ・ウン・ポコ・モッソ

ベートーヴェンは、中間楽章を主調の近似調ではなく、あえて離れた調を選ぶことにこだわる傾向がありますが、ここでも、変ホ長調から離れたロ長調という、きわめて異例な選択になっています。

この楽章は、第4番の世界を思わせる、憧れに満ちた夢のような楽章です。即興的な自由な変奏スタイルで、変幻自在、抒情的に語りかけてきます。

テーマは弱音器をつけたヴァイオリンで奏でられ、ピアノが雨だれのように絶妙にからんでいきます。

終わりの部分では、引き伸ばされたロ音が変ロ音が変わるなか、ピアノが第3楽章のロンドのテーマをもったいぶったように探り出し、予告します。そしてそのままアタッカで第3楽章へと突入しますが、これは「運命」『田園』での試みをコンチェルトの世界にも導入したということで、もはやベートーヴェンお家芸といっていいでしょう。当時の聴衆も席を立つひまはなく、音楽に集中せざるを得なかったわけです。

第3楽章 ロンド:アレグロ

ピアノが高らかに奏でるロンドのテーマは、華麗にして豪壮。リストやショパンに大いに影響を与えたと思われます。私はこの部分を聴くと、ベートーヴェンの大好きだったトカイワインで乾杯したくなります。分散和音のよるテーマは、第1楽章の冒頭のテーマを思わせ、曲全体の有機的な統一がこの曲でも図られています。

ピアノはどこまでも名人芸を繰り広げますが、オーケストラの書法には第1楽章のような複雑さはなく、明快な印象です。

途中ではヘ長調の新しいフレーズも繰り出し、ロンドのテーマも主調の変ホ長調からハ長調変イ長調ホ長調と転調しながら繰り返し登場し、めくるめく歓喜の世界を現出します。

最後は、華やかなトランペットのファンファーレに続き、ティンパニとピアノの掛け合いといった不思議な時間を経て、ピウ・アレグロにテンポを速めて豪快に曲を締めくくります。

この曲も、皇帝の弟ルドルフ大公に献呈されました。

 

今回もお読みいただき、ありがとうございました。

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