
市民に開放されたプラーター(1783年)
母帝マリア・テレジアの改革は、前回見たように地に足のついた現実的なものでしたが、息子の皇帝ヨーゼフ2世は、急進的で無茶な改革をどんどん進めました。
特に、貴族や教会の特権を廃し、市民に自由を与えようという啓蒙思想に基づいた政策はあちこちで混乱や破綻を招きました。
しかしもちろん、市民からは歓迎され、〝民衆皇帝〟〝農民皇帝〟と喝采を浴びた人気施策もありました。
そのひとつが、「プラーター」の一般開放です。
ウィーン市北部にはドナウ川が流れていますが、かつてはその流れは大きく蛇行していて、氾濫原、沼地、入り江、森林地帯となっていて、人は住めないエリアでした。
その代わり、動植物の宝庫だったため、歴代のハプスブルク家の君主たちは、ここで狩りを楽しんでいました。
そして、獲物を確保するため、16世紀後半、皇帝ルドルフ2世によって、皇室専用の禁猟区として一般市民の立ち入りは禁止とされました。
以降、歴代皇帝たちのストレス解消と娯楽の場となっていました。
マリア・テレジアの父、カール6世もここでの狩りに、ロレーヌの若き貴公子、フランツ・シュテファンを毎回伴い、彼とマリア・テレジアは縁づくことになったのです。
彼女は、父と婚約者が、鹿やらウサギやらキジやら、たくさんの獲物を得意げに持ち帰ってくるのはあまり好きではありませんでしたが、当時の王侯貴族の最大の愉しみだったのです。
しかし、狩場の管理人たちは大変です。
皇帝がたくさん獲物を捕れるように、あらかじめ動物を捕まえておき、狩りの際にわざわざ放したりしなければなりませんでした。
また、このあたりの住民には、動物の捕獲や射殺は厳禁されていました。
イノシシや鹿が畑を荒らしても、泣き寝入りするしかなかったのです。
〝民衆皇帝〟のご英断

プラーターで憩う市民たち
マリア・テレジアは狩りが好きではなかったので、即位後、人々の生活を守るためにも、害獣に限っては射殺を認めました。
ウィーンの街には、そのお陰で安い肉が出回ったのです。
ヨーゼフ2世はさらに踏み込み、即位の翌年、1766年にプラーターと、同じくドナウ河畔の狩場だったアウガルテンを、一般に開放しました。
これは、貴族と市民の垣根を取り払い、融和させるための政策だったのです。
もちろんこれは大好評で、プラーターは市民の憩いの場となりました。
モーツァルトも『プラーターに行こう』K.558というカノンを作曲しています。
19世紀になってからは、広大な公園として整備され、19世紀末には観覧車で有名な遊園地となり、ウィーンを象徴する名所となったのです。
ヨーゼフ2世の共同統治者であったマリア・テレジアは、この施策には反対はしませんでしたが、彼女は貴族と市民の間には厳然たる違いがなければ秩序は保たれない、という考えでした。
彼女も、皇室一家の生活や行動をできる限り市民に公開していました。
市民たちは、一家がどこで何をしているか、よく知っていました。
一家が行列を作って教会に詣でたり、行楽に出かけたりする光景はよく目にしていましたし、慶事にはみんなで祝い、凶事にはみんなで喪に服し、悲しみました。
現在の日本の皇室のような、市民に親しまれ、敬愛される皇室を目指したのです。
しかし、彼女にとって君主制は絶対であり、あくまでもハプスブルク家あってのオーストリア、というスタンスでした。
息子は、市民の幸福を実現するのだ、という理想に燃えていますが、その言行には行きすぎがあり、いずれは君主制さえ揺るがしかねず、危なかしさ極まりないものでした。
若き〝民衆皇帝〟は、母の心配をよそに、さらに暴走していくのです。

現在のプラーター遊園地
日本はじめての万博公式参加

ウィーン万博会場
さて、プラーター公園では、1873年にウィーン万国博覧会が開かれました。
この万博には、日本が初めて公式参加し、「日本館」が建設されたことで有名です。
5年前、1868年に明治維新を成し遂げ、富国強兵に向かって走り出した頃です。
プラーターの会場には、神社と日本庭園を造り、白木の鳥居、神社、神楽堂、反り橋を配置したほか、産業館にも浮世絵や工芸品を展示しました。
目玉展示としては、名古屋城の金鯱、鎌倉大仏の模型、約4mの高さの谷中の天王寺五重塔の模型、直径2mの大太鼓、直径4mの提灯などが展示されました。
開国されたばかりの神秘の国、日本の展示は大いに好評を博し、観覧者が押し寄せました。
ちょうど、「ジャポニスム」が流行っており、このあと、クリムトをはじめとする1890年代のウィーン分離派の芸術活動に影響を与えたのです。

日本館の展示
Joseph Haydn:Symphony no.56 in C major, Hob.I:56
演奏:クリストファー・ホグウッド指揮 アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック(古楽器使用)
1774年に作曲されたこのシンフォニーは、トランペットが最初から組み込まれた珍しい曲です。当時トランペットは基本的にオーケストラの常設の楽器ではなく、特別な機会だけに加えられていました。加わる場合には、ホルンのパートを分け合い、トランペットは高音部、低音はホルンが担当することが多いのですが、この曲ではハ調管のホルンと別にトランペットのパートがあります。
冒頭、トランペットがオーボエとファゴットを伴って、輝かしい下行分散和音を吹き鳴らし、弦が含蓄深い旋律でこれを受けます。やがて弦はさらに魅力的な第2主題を掻き鳴らし、まるで天上の音楽のようです。
輝かしく無骨な管と、柔らかく繊細な弦。このふたつの対比の妙がこの楽章の聴きどころです。展開部では、その対比が転調によって、変幻自在に表情を変えていきます。一見軽そうに聞こえるシンフォニーですが、のっぴきならない深みをはらんでいるといえます。
第54番と同様、長大で感動的な、ひとつの物語というべき第2楽章です。この曲の特徴はなんといっても、管楽器たちによる独奏に彩られていることです。オーボエ、ファゴットは独立パートを与えられていますし、ホルンもしばしば独立した動きをします。まるで、シンフォニア・コンチェルタンテ(協奏交響曲)のようです。短調に振れる箇所では、まるでロマン派の音楽を聴いているかと思うほど幻想的です。
この楽章もかなり大規模な構成です。メヌエット部は、小さなソナタ形式になっていて、提示部、展開部、再現部という構成といえます。メヌエットだけに、小休止が小気味よいアクセントになっています。
トリオは弦楽の伴奏によって独奏オーボエが務めます。
第4楽章 フィナーレ:プレスティッシモ
無窮動的な、3連符による楽しいフレーズがソナタ形式で展開していきます。最初はまるではしゃいでいるかのように無邪気ですが、だんだんと緊張感を深めていき、引き込まれています。途中、フレーズとフレーズを区切るかのように休符が織り込まれ、ハッとさせられます。再現部に入る前には、当時としては仰天的な減七和音まで登場します。ハイドンのユーモアと斬新な〝改革〟が炸裂する音楽です。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。


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