本気で戦争するつもりのない両軍
皇帝ヨーゼフ2世の野心を打ち砕くべく、オーストリア領のボヘミアに攻め込んだプロイセン王フリードリヒ2世(大王)。
バイエルン継承戦争の勃発です。
しかし、戦争勃発の直後に、女帝マリア・テレジアが恥を忍んでフリードリヒ大王に和睦を求める使者を送ったため、本格的に戦火を交える前に、戦線は膠着してしまいました。
マリア・テレジアは、息子ヨーゼフ2世の統治能力が心配でならず、共同統治権を手放していませんでしたが、まさにそうしておいてよかった、という事態です。
フリードリヒ大王としても、今回はオーストリアへの牽制が目的であり、国運を賭けて戦争をするつもりはありませんでした。
戦況を有利にしつつ、外交交渉で自国にプラスになる内容で講和することを狙っていたのです。
そこに、宿敵マリア・テレジアの方から頭を下げてきたのですから、まさに思うつぼ。
諸外国も味方につけて、できる限りのものをふんだくってやろう、とほくそ笑んでいました。
ヨーゼフ2世も大好きな軍隊を実際に指揮できると、勇躍ボヘミアの戦場に赴きましたが、現実は違いました。
百戦錬磨のプロイセン軍に囲まれて、手も足も出せません。
そんなわけで、両軍は睨み合うまま、季節は秋から冬へとうつろっていきます。
〝じゃがいも戦争〟と揶揄されたわけ
ほとんど戦闘が行われなかったこの戦争は、〝ポテト戦争(じゃがいも戦争)〟とか〝すもも戦争〟などと呼ばれています。
カ〇ビー vs 湖〇屋のシェア競争ではありません。
これから、戦火に見舞われたウクライナの冬が心配ですが、東欧の冬は厳しい寒さに襲われます。
両軍あわせて40万の軍勢が対陣していますから、食糧難に陥ります。
兵士たちは、畑のじゃがいもを掘って食べたり、木に登ってスモモの実を食べたりして空腹をしのいたので、こんな名で揶揄されたのです。
それにしても、1年にもわたって両軍に居座られたボヘミア人民はたまったものではありません。
他国同士の戦場になった地は悲惨です。
日清戦争のときの朝鮮、日露戦争のときの中国も同様です。
なぜ?権力者はじゃがいも推し
ちなみにじゃがいもは、当時ヨーロッパに普及しつつあった作物です。
もともとは南米ペルーのチチカカ湖畔が原産で、トウモロコシと並んでインカ帝国の繁栄を支えた主食です。
インカ帝国がスペインに征服されたことでヨーロッパに伝わりました。
ただ、一般に広がるのには時間がかかりました。
芽や緑色になった部分を食べると食中毒になる場合もあり、毒草と思われたのです。
しかし、寒冷地に強く、年に複数回の栽培が可能で、栄養価も高いため、飢饉の際には人々の命を救いました。
また、地中に作られることから、戦争の頻発するヨーロッパにあっては、軍隊に踏み荒らされると収穫できなくなる主食の小麦に比べて、地中にできるため、国土が戦場になってもダメージを抑えられます。
特に、三十年戦争をはじめ、戦場になることが多いドイツでは、栽培が領主によって推奨され、プロイセンでは作付けを強制する勅令まで出ました。
フリードリヒ大王もじゃがいもの普及には力を入れ、わざとじゃがいも畑を軍隊に守らせることまでしました。
民衆に、そこまで価値のあるものだ、と分からせるためです。
ドイツ料理にはじゃがいもが欠かせませんが、それは大王のおかげ、ということで、今もお墓にはじゃがいもがお供えされています。
フランスでも国策としてじゃがいもを普及させようと、ファッションリーダーだった王妃マリー・アントワネットが帽子にじゃがいもの花を飾りましたが、これはあまり受けなかったようです。
ただ、そこまで権力者がじゃがいもを農民に推奨したのは、税としてもっと小麦を収奪するためでした。
〝パンがないならじゃがいもを食べればいいじゃない〟というのが、当時の権力者の本音です。
アイルランド農民は、小麦はほとんどイングランドの領主、地主に取られてしまうため、自分たちの主食をじゃがいもに依存していましたが、1840年代にヨーロッパのじゃがいもを疫病が襲ったとき、大飢饉となり、100万人といわれる餓死者を出しました。
多くの難民がアメリカに逃れましたが、その子孫のひとりがケネディ大統領です。
さて、そんなじゃがいもまで軍隊に掘り取られたボヘミア人民は怒り心頭です。
ヨーゼフ2世治下、モーツァルトの作ったオペラ『フィガロの結婚』は、平民が貴族をギャフンと言わせる過激な内容で、ウィーンでは受けませんでしたが、ボヘミアの都プラハでは空前の大ヒットとなりました。
永年ハプスブルク家の圧政に苦しんできた、ボヘミアの人々の心に響いたのです。
プラハの人々がモーツァルトに新作を注文してできた第二弾オペラ『ドン・ジョヴァンニ』では、第1幕のフィナーレで高らかにみんなで『Viva la libertà! (自由万歳!)』と歌われますが、これはボヘミアの人々が自由を求める気持ちに応えたものです。
観衆も一緒になって歌ったのです。
19世紀半ばになってついに、ハプスブルク家に対する革命が起こり、『モルダウ』で有名な『わが祖国』を作曲したスメタナも参加しますが、これも弾圧され、「チェコスロバキア」として独立するのは第一次世界大戦後となります。
しかしその後も、この国は苦難の歴史をたどるのです。
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Joseph Haydn:Symphony no.65 in A major, Hob.I:65
演奏:トレヴァー・ピノック指揮 イングリッシュ・コンサート(古楽器使用)
第1楽章 ヴィヴァーチェ・エ・コン・スピリート
実に魅力的なシンフォニーです。
ハイドンはこの曲を1772年に、ほかのいくつかの曲と一緒にカタログに記入しているので、それ以前の作ということになり、他の60番台のシンフォニーより古い、ということになります。この曲は、H.C.ロビンス・ランドンが「劇場的」「野外的」と評していますが、私は全体としては劇場から派生した感じはせず、室内的な趣きを感じます。
冒頭の3つの打撃和音。私は若い頃、旅行中にいきなりこれが頭に鳴り響き、聴きたくてたまらなくなって急いで帰宅し、CDをかけた覚えがあります。ここではそのピノックの演奏を取り上げています。イ長調の主音→4度→3度という動きで、主和音からすぐ離れるような感じで、なんだか虜になってしまうのです。このあと、愛らしい楽器同士の掛け合いが続き、楽しい気分が続きます。展開部は冒頭の和音は外され、得意の偽再現がイ長調で出て盛り上げます。
第2楽章 アンダンテ
ヴァイオリンによってさりげなく始まりますが、実にクセの強い楽章です。オーボエとホルンによるファンファーレ風の楽句を奏し、それをもって「劇場的」「野外的」といった評が出てくるのですが、基調は静謐で室内的に感じます。同音連打が延々続き、どこまでいくの?と不安に思ううち、それがペダルポイントになっていきます。静かなうちに鮮やかにコントラストが描かれているのです。
ふつうの3拍子のメヌエットですが、続くフレーズではアクセントが4拍目に置かれ、実質的に4拍子に変わり、驚愕します。弦だけで奏されるトリオでも、異なるリズムが同時に鳴る「ポリリズム」の一種「ヘミオラ」が多用されて、3拍子に聞こえなくなります。ハイドンのやんちゃな遊びの一例といえます。
第4楽章 フィナーレ:プレスト
8分の12拍子という、ここでも複雑なリズムをとっています。このシンフォニーで試みられたのはリズムの実験のようです。冒頭、ホルンの狩りの信号音で始まります。これも「野外的」な特徴とされています。この信号に弦が呼応する形で曲は進んでいきますが、第1楽章冒頭の和音打撃の要素も含まれています。展開部でもホルンは強くリードし、オーケストラがそれに応えて盛り上げを見せます。最後は、冒頭の信号が回想的に浮かびつつ、簡潔にトゥッティで締めます。
動画は、ジョヴァンニ・アントニーニ指揮、バーゼル室内管弦楽団の演奏です。コンミスは笠井友紀さんです。
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今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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