皇女の輿入れ、果てしない旅路
マリー・アントワネットの輿入れ行列は、廷臣、護衛、侍女、小間使い、美容師、秘書、医師、司祭、料理人といった総勢275人、馬車57台でゆっくりと西に向かいます。
うち200人はフランスからお迎えに来たメンバーでした。
馬は376頭。
1日に4、5回交換しなければならなかったので、フランス国境までの2週間に2万頭以上の馬が必要だったことになります。
ヴェルサイユまで、24泊25日、行程1,260Km。
果てしない旅路を辿ってみます。
各地での歓迎行事に、14歳の少女はどう耐えたのでしょうか。
1日目、4月21日。
朝、家族そろっての別れの礼拝を終え、9時半に出発。
母帝マリア・テレジアも、花嫁マリー・アントワネットも永遠の別れに涙します。
二度と会えないことはふたりも分かっており、実際そうなります。
女帝は、『さようなら、愛するわが子。これから途方もない距離が私たちを隔てます。どうか、フランス国民によくしてあげて。どうか、私が天使を送ったと言われるように。』と別れの言葉を告げ、既に代理結婚式によってフランス王太子妃となった皇女に金時計を贈ります。
彼女は、後年フランス革命が起きてコンシェルジュリー監獄に幽閉されたときも、この母の形見となった金時計を握りしめていました。
マリー・アントワネットが乗る馬車は2台あり、ルイ15世が特注したもので、1台は真紅のビロード張り、もう1台はブルーのビロード張りでした。
2台あるのは、1台が故障したときのためです。
屋根にはダチョウの羽飾りがつき、総ガラス張りで、誰からも花嫁が見えるようになっていました。
過剰な装飾がゴテゴテついていましたが、スプリングがよく効き、滑らかに軽く進みます。
9時半、トランペットが嚠喨と吹き鳴らされ、スイス衛兵の祝砲を合図に、行列の先駆けがホルンを吹き鳴らして進み、行列はゆっくり宮殿を出発します。
皇女は窓から身を乗り出し、人目も憚らず家族が見えなくなるまで手を振り、泣きじゃくります。
行列はケルントナー門を出て、最初の宿泊地メルクに向かいます。
ここには有名なメルク修道院があり、兄の皇帝ヨーゼフ2世が先回りして妹を迎え、最後の別れの夕食会が開かれました。
余興に、修道僧たちが旧約聖書を題材にしたオペラ『リベカ~イサクの花嫁』を上演しました。
オーケストラは23人編成だったとのことです。
21時には花火が上がり、皇室一家が寝室に引き上げたのは22時でした。
15歳の花嫁はさぞ疲れたことでしょう。
バロック様式の壮麗な修道院は、今もザルツブルクからウィーンに向かう途中の高速道路から眺めることができます。
2日目、4月22日。
あいにくの雨。
朝9時にヨーゼフ2世は妹を馬車に乗せ、最後の別れを告げます。
しかし、兄帝とはこれが最後ではなく、ヨーゼフ2世は後に王妃となった妹をお忍びでヴェルサイユに訪ねます。
2日目の宿泊地は、丘の上の古い町、エンス。
町に入る橋の上で、州知事、市長、地元の貴族たちに出迎えられ、市民の歓呼を受けます。
宿舎はエンスエッグ城で、ここでも歓迎の宴が開かれ、バレエと演劇『ディ・ファミリーエ』が上演されたということです。
3日目、4月23日。
ウェルス市を経由してランバッハに向かいます。
ウェルスの町では、中心の皇帝ヨーゼフ2世広場に朝から市民が集まり、色とりどりの旗で飾り付けをして、皇女の到着を待っていました。
午後2時に行列が到着すると、男子生徒たちがパレードを披露し、マリー・アントワネットはこれにご褒美を与えます。
ランバッハに着くと、宿舎である僧院の部屋の窓の下で、民族衣装をつけた若い農民60組がダンスを披露。
その後、この祝祭のためにわざわざ建てられた劇場で、喜劇『楽しい結婚の契り』が上演されました。
この劇はこれまでの堅苦しい儀礼的な内容とは異なり、くつろいだ喜劇だったので、15歳の皇女は初めて心から楽しみ、思わず大笑いをして周囲を驚かせました。
貴婦人がこのような場で声を上げて笑うなどとは、マナー違反だったからです。
でもマリー・アントワネットは気にせず、この調子でフランスでも大いに顰蹙を買ってしまいます。
最後には中世以来の伝統的な剣の舞が披露され、夜10時半に花火が夜空に〝アントニア様万歳〟と文字を描き、お開きとなりました。
ちなみにランバッハ僧院には、モーツァルト父子によるシンフォニーの楽譜が残っており、どちらがどちらの作品か長く分かっていませんでしたが、優れている「新ランバッハ」が11歳のモーツァルト作、やや平凡な「旧ランバッハ」が父レオポルト作ではないか、と長くされてきました。
しかし、戦後の研究で逆であることが判明し、父の面目が保たれることになったのです。
ランバッハ僧院は、オーストリアとバイエルンの国境にあり、旅人を無償でもてなしていました。
ここを通ったモーツァルト父子は、謝礼として曲を寄贈しました。
飾らないおもてなし文化が、異国の地に向かう幼い皇女の心を慰めたのです。
4日目、4月24日。
一行は、ハウシュルックの峠を、地元の牛馬の助けを借りて登ります。
峠は国境であり、マリー・アントワネットはここで永遠に故国オーストリアから去ることになります。
村の教会の鐘が一斉に鳴らされ、別れを告げました。
バイエルン最初の休憩地リードには、地元の竜騎兵のパレードに先導されて入城。
午後6時に、礼砲に迎えられ宿泊地ブラウナウに到着。
花嫁の夕食は24人前の食事が提供されたということです。
5日目、4月25日。
朝9時にブラウナウを出発、昼過ぎにカトリックの聖地アルトエッティングに到着。
二度聖母マリアが出現したという奇蹟を記念したグナーデンカペレ礼拝堂で祈りを捧げ、聖遺物を拝観し、この地に宿泊しますが、この日は自由時間もあり、久しぶりにゆっくりできたようです。
6日目、4月26日。
余裕のあった前日の行程と真逆で、もっとも移動距離の長かった日。
10時間かけて、バイエルン選帝侯国の都、ミュンヘンに入城します。
離宮であるニンフェンブルク宮殿に至り、選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフの出迎えを受けます。
選帝侯の母は神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の皇女マリア・アマーリエであり、マリー・アントワネットとも血がつながっています。
7年後、この選帝侯が後嗣なく亡くなった際、兄ヨーゼフ2世はバイエルン併合を企て、バイエルン継承戦争を引き起こします。
「ヘラクレスの間」で、バイエルンの重臣、貴族たちに紹介され、午後7時半より「皇帝の間」で奏楽と余興、その後「白鳥の間」で160人の賓客を招いて歓迎の宴が盛大に催されました。
7日目、4月27日。
この日は終日ミュンヘンに滞在。
「皇帝の間」で90人を招いた大昼食会、そして晩餐会の開かれた新築の「緑のさじき」は煌煌としたシャンデリアで昼間のように明るかったといいます。
8日目、4月28日。
朝9時15分にミュンヘンを出発し、アウクスブルクへ。
行程にして73Km、所要7時間。
アウクスブルクは銀の産地で、かつて銀鉱山経営の銀行家フッガー家が繁栄した地でした。
フッガー家は神聖ローマ皇帝、ローマ教皇、スペイン王をはじめ、各諸侯に貸付を行い、返済に困ったブランデンブルク選帝侯がローマ教皇に泣きつき、贖宥状(免罪符)の発行権をフッガー家に与えてもらい、これがルターの宗教改革を引き起こすのです。
その後、大航海時代に新大陸から大量の銀が流入すると、フッガー家は没落しますが、銀の生産は続いており、市の当局は純金メッキを施した銀の旅行用食器セットをマリー・アントワネットに献上したということです。
当地は、モーツァルトの父レオポルトの出身地でもあります。
司教館で歓迎の昼食会を終えると、王太子妃は科学芸術アカデミーを訪れて、そこで名誉会員証書が贈られました。
夕刻には学生たちによってヴォルテール作の戯曲『3人のスルタンの娘』が上演。
夜22時には、地元の銀行家で銀貿易商リーベンホーフェン氏主催の舞踏会に参加。
行程中、民間人主催の舞踏会に参加したのはこの機会だけでしたが、マリー・アントワネットはメヌエットを3曲踊ったとのことです。
9日目、4月29日。
朝、ハイリゲンクロイツ教会のミサに参列したあと、ギュンツブルクへ。
当地では容姿端麗な連隊歩兵と竜騎兵たちが整列して出迎えます。
突貫工事で改装されたギュンツブルク城では、父方の叔母、ロレーヌのシャルロッテ公女に出迎えられます。
夜は新築の劇場でオペラ・ブッファの上演。
当地はコイン製造の町で、マリア・テレジア銀貨を鋳造していましたが、この機会にマリー・アントワネット成婚記念の金貨、銀貨が作られ、来賓や市民に配られました。
10日目、4月30日。
この日はギュンツブルクに滞在。
叔母とマリアケーニヒヴィルト巡礼教会に遠出して参詣しますが、この教会は、ロレーヌ(ロートリンゲン)公だった父カール1世の曾祖母が旅の途中で妊娠を知り、神に感謝して建てたというゆかりの教会でした。
12人の少女がマリー・アントワネットに野花のブーケを贈り、彼女は教会に自分の兄弟姉妹の描かれたランプを寄進しました。
アウクスブルク滞在中、歓迎に集まった市民の雑踏の中で、人波に押し倒された少女が足を折ったという話を聞いた花嫁は、100グルデンの見舞金を贈ったということです。
11日目、5月1日。
叔母と別れ、沿道の市民の喝采を浴びながらウルムに向けて出発。
ライブハイムで村の猟銃隊に護衛され、ゲライトシュタインでエルザー男爵の護衛隊に引き継ぎ。
美しいユニフォームに身を包んだ騎兵中隊が後衛についてウルムに入城。
外門は5月の新緑で飾られ、「不滅」の額をもった女神像が作られ、ハプスブルク家とブルボン家の紋章が飾られていました。
内門の上には、5月の女神に扮した美しい女性が、素敵なバスケットから花を撒いて祝福。
修道院長が歓迎の辞を述べます。
突貫工事で作られた花嫁の宿舎は、今でも残り「マリー・アントワネット塔」と呼ばれています。
その美しい暖炉のある間で夕食を摂ったあと、当地の神父が作曲した祝祭カンタータが上演されましたが、あえてご当地色を出すため方言を使った劇で、マリー・アントワネットはまったく理解できず、内容も陳腐で退屈してしまったようです。
マリー・アントワネットのフランスへの旅は、まだ続きます。
それでは、パリの古楽器オーケストラ、ジュリアン・ショーヴァン指揮、ル・コンセール・ド・ラ・ロージュの演奏で、ハイドンの『パリ・セット』の2曲目を聴いていきましょう。
Joseph Haydn:Symphony no.83 in G minor, Hob.I:83 "La Poule"
演奏:ジュリアン・ショーヴァン指揮 ル・コンセール・ド・ラ・ロージュ(古楽器使用)
第1楽章 アレグロ・スピリトーソ
「パリ・セット」6曲のうち、唯一の短調のシンフォニーです。1786年に書かれた、前回の第82番 ハ長調《熊》と、この第83番 ト短調《めんどり》、そして第84番 変ホ長調の3曲は、6曲セットに先立って出版され、大ヒットします。それを知ったモーツァルトは、いよいよ大シンフォニーの時代が来た、と確信し、1788年に、ハイドンと同じ調性を使って、第39番 変ホ長調、第40番 ト短調、第41番 ハ長調《ジュピター》の〝3大シンフォニー〟を作曲したと考えられます。モーツァルトがこれだけの大作を、誰からの注文も受けず、1ヵ月半の間に突然書いたのは謎とされていますが、ハイドンの成功に触発されて書いたとすれば何の不思議もありません。実際、モーツァルトはハイドンの弦楽四重奏曲集『ロシア四重奏曲』に、啓示に近い感銘を受け、『ハイドン・セット』を作曲してリスペクトのこもった献辞を添えてハイドンに献呈していますから、シンフォニーでも同じことを行ったのです。
ただ、終始悲哀のこもったモーツァルトのト短調シンフォニーに比べて、ハイドンのこのト短調は悲哀と明るさが交錯し、最終的には明るさが勝つように作られているので、モーツァルトの作品より軽く見られてしまい、ハイドンはモーツァルトより劣る、という評につながってしまっています。しかし、ハイドンは短調を明るさを引き立てるエッセンスとして使っており、そもそも作品のコンセプトが異なっていますから、比較の意味はありません。
愛称の《めんどり》は、前回の《熊》に続いて、動物シリーズ?となっていますが、もちろんハイドンが意図したタイトルではありません。第2主題がめんどりの鳴き声に似ているということで、18世紀末か19世紀初頭につけられたようです。
冒頭、ト短調の主和音をたどる鋭いテーマが、全楽器のトゥッティでいきなりナイフのように突きつけられます。ドーミ、と移ったあとに嬰ハ音がくることによって尋常ではない緊張感を醸し出しており、ハイドンの非凡なところです。この第1主題に含まれる付点リズムは全楽章を特徴づけ、テーマはだんだんと立体的に展開し、スケールを拡げます。やがて、意表を突く唐突感で、変ロ長調の第2主題が第2ヴァイオリンの伴奏に乗って第1ヴァイオリンによって登場してきます。これがコッコッコッ、というめんどりの鳴き声に似ているというわけです。
展開部は第1主題がさらに深刻な趣で緊張感たっぷりで展開しますが、最後に独奏チェロがため息のように引き取るのが絶妙です。
再現部も第1主題が強調されますが、やがてト長調に転調し、第2主題と和します。ついに、光が闇に打ち勝つ、というストーリーになっているのです。
第2楽章 アンダンテ
変ホ長調の穏やかな調べで悠然と始まります。ゆったりとしているといきなりフォルテになって驚かされ、続いて、同じ音が長く刻まれ、いつまで続くの?と思っていると、また突然のフォルテで二度びっくり。後年の〝驚愕シンフォニー〟につながっていくハイドンのユーモアです。その後第2主題が出て来て、再び平穏な世界が展開されていきます。展開部では、刻む音と流れる旋律が絶妙に絡み合い、和やかな雰囲気を醸し出します。フルートと弦の上昇音型は、朝空に向かって深呼吸をするように爽やかな気分にしてくれます。
第3楽章 メヌエット:アレグレット&トリオ
弱拍から始まる優美なメヌエットです。マリー・アントワネットが祝宴で踊ったメヌエットもこのようなものだったのでしょうか。トリオはフルートとヴァイオリンによって奏でられるロココ調の優しい旋律です。
第4楽章 フィナーレ:ヴィヴァーチェ
ト長調の明るいフィナーレで、もはやこのシンフォニーは短調色は全く無くなります。8分の12拍子の浮き立つようなリズムは、バロックの舞曲ジーグとも、狩猟音楽ともいえます。第2主題も第1主題の変形で、統一感が取れています。展開部はたたみかけるように緊張しますが、やがて何もなかったかのように元の屈託のなさに戻り、時々立ち止まり、終わる?終わらない?と人を惑わしつつ、最後にはすっきりとまとめます。ここでも、パリ人たちは拍手を惜しまなかったでしょう。
動画はアルス・リリカ・ヒューストンの演奏です。
www.youtube.com
ラモーの『めんどり』という曲もあります。
www.classic-suganne.com
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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