ブランデンブルク・コンチェルト第3番は、管楽器が無く、弦楽器のみで、独奏楽器と合奏楽器の区別もありません。ヴァイオリン3、ヴィオラ3、チェロ3と通奏低音という異色の組み合わせです。チェロがヴァイオリンと対等の数、というのも、ふつうのオーケストラでは無いバランスです。
しかし、音色は渋くても、色彩はめくるめくように豊かなのはバッハのすごいところです。
Brandenburg Concerto no.3 in G major , BWV1048
演奏:トレヴァー・ピノック指揮イングリッシュ・コンサート
Trevor Pinnock & The English Concert </p
第1楽章 (速度表記なし)
ブランデンブルク・コンチェルトの中でも有名な曲のひとつです。リズミカルなテンポは本当に愉快で、宮廷で演奏したときは、奏者が演奏しながら思わず踊り出してしまった、というエピソードが残っているほどです。
楽章といっても、2つの和音が書いてあるだけで、演奏者の即興に任されています。そんな手抜きな・・・といっても、即興こそが本来バロックの神髄なのです。当時、名演奏家としてもてはやされたのは、いずれも即興の名手でした。むしろ、わざわざ楽譜に書き残している方が少なく、まして出版されたものなどは本当にレアでした。バッハも即興の名手であり、当時の証言では、バッハのオルガンの即興演奏は、楽譜になっているどんな曲よりも素晴らしかった、ということです。その場限りで、永遠に天上に昇ってしまった音楽。バッハと時代をともに出来なかった我々としては、残された曲から偲ぶしかないのです。
ですので、この楽章は演奏によって全く違う曲になっていますが、たいがいあっという間に終わって第3楽章に進みます。やはり、バッハの両楽章に匹敵する内容を演奏するのは現代のどんな名手でもきついのでしょう。でも、その場限りの演奏だったら、ぜひ挑戦していただきたいものです。
第1楽章より、いくぶんの緊張感をはらんで進んでいきます。少ない楽器が、それぞれの役割を果たしているのがよくわかります。時々、ヴァイオリンが抜きんでて奏でるメロディには、全くシビれます。勝手なイメージですが、男どもが豪快に笑いあっているようです。
ドイツとオーストリアが別の国であるわけ
バッハがこの曲を捧げたブランデンブルク辺境伯。ドイツの成り立ちに大きく関わっているので、少しドイツの歴史をひもとこうと思います。
バッハやヘンデル、モーツァルトたち、ドイツの作曲家が雇われようと渡り歩いた〝諸侯〟とは何者か、ということにつながります。
今のヨーロッパ地域にあった西ローマ帝国が、ゲルマン人の大移動で5世紀に滅び、そのあとゲルマン民族の国々が割拠しますが、9世紀にフランク王国のカール大帝によって統一されます。
しかし、フランク王国は分割相続のしきたりがあったので、カール大帝の死後、帝国は西フランク、中部フランク、東フランクの3つに分割され、東フランクが後のドイツになっていますが、王権は弱く、地方に割拠した領主がほとんど独立していました。
10世紀に、オットー大帝が、あやふやになっていた帝位を教皇から認められ、神聖ローマ皇帝として即位しますが、帝位も選挙制が建前で、不安定なものでした。
また、一応名前が〝ローマ皇帝〟ですから、皇帝として認められるにはローマに行って教皇に戴冠してもらわねばならず、イタリアでの勢力拡大に力を入れることになって、その分自国のドイツ統治がおろそかになり、ますますドイツ諸侯の力は強まりました。
皇帝を〝みんなで選ぶ〟制度もあいまいで争いの元だったので、14世紀にカール4世が金印勅書で、皇帝を選ぶ権利のある諸侯を7人に決めました。
これが選帝侯たちです。
そのメンツは、マインツ大司教、ケルン大司教、トリール大司教、ボヘミア王、ザクセン公、プファルツ宮中伯、そしてブランデンブルク辺境伯でした。
辺境伯、というのは、その名の通り、帝国の東側国境を守る、という役目の貴族でしたが、それだけ勢力拡大の余地があり、どんどん強くなっていきます。
そして、17世紀には帝国の外側にあったプロイセン公の地位を手に入れ、18世紀初めには、戦争で皇帝の味方をした見返りに〝プロイセン王〟の王号を手に入れたのです。
本拠地はブランデンブルクですが、帝国内ではさすがに王号はもらえません。
また、帝国外の国の王になるということで、皇帝の直属の配下ではない、という微妙に有利な立場も手に入れたのです。
本家がプロイセン王になったので、これまでの伝統あるブランデンブルク辺境伯の称号は、名誉職のようになって、王族の誰かに与えられました。
そうして、プロイセン王家のホーエンツォレルン家は、その頃には事実上の皇帝位世襲に成功していたハプスブルク家と対立していきます。
そんなわけで、長らくほぼ独立国家の集まりであったドイツは、絶対君主の統治する中央集権国家作りに成功していたイギリス、フランスに比べ、大航海時代の植民地獲得競争、続く帝国主義時代の世界分割競争に大きく遅れを取ることになりました。
さすがに19世紀後半には統一しよう、という動きになり、プロイセン王を中心としたドイツにするという〝小ドイツ主義〟と、ハプスブルク家のオーストリアを中心とした〝大ドイツ主義〟が対立しましたが、結果、軍事力が圧倒的に強いプロイセンがドイツ統一を主導し、オーストリアを排除したドイツ帝国ができました。
1871年のことです。
同じく、ローマ教皇領が真ん中にどっかとあり、南北が分断され、またドイツの皇帝に干渉されて分裂が続いていたイタリアは、これに先立つ1861年に統一に成功していました。
長く鎖国しており、藩に細かく分かれた日本も、1868年に明治維新に成功し、一気に三段飛ばしで中世から近代に時代を進ませるという、世界史上例をみない奇跡を起こしました。
しかし、早くから中央集権化に成功していた先進国によって世界の分割はすでに終わろうとしていました。
そこで、遅れて国ができたドイツ、イタリア、日本は無理して追いつこうとし、大戦を起こすことになるわけですね。
というわけで、オーストリアはドイツと別の国のような顔をしていますが、ハプスブルク家の所領だったところ、というだけですので、ドイツ人の国なわけです。
そして、そのような半独立の小国家が分立していたおかげで、ドイツ諸侯たちは文化の高さでライバルに勝とうとし、宮廷音楽の充実を競ったために、ドイツから優れた音楽家が輩出した、とも考えられるのです。
そんな対立と争いの歴史のおかげで、このような素晴らしい音楽が生まれたとすれば、何とも皮肉なことですね。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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