年末に第九、のわけ
大晦日です。年末、大晦日のクラシックといえば、やはりベートーヴェンの『第九』ですね。
そう言われるほどには、この時期にみなが聴いているとは思えないのですが、日本人の誰もが歳末の風物詩だと思っているのは間違いないでしょう。
それは日本だけだ、とよく言われますが、ルーツは本場のドイツにあります。
バッハゆかりの街の名門オーケストラ、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が、第一次世界大戦が終わった1918年に、もう戦争がごめんだということで、人類皆兄弟、がテーマのこの曲を、毎年の大晦日に演奏するようになったのがはじまりと言われています。
でもまた第二次世界大戦が起こってしまったのですが、その戦後の1947年、日本交響楽団(現在のN響)が12月に演奏するようになり、定着したようです。
戦後の混乱期、楽団員に年を越すための臨時収入を、という目的もあったようですが。
今では、『サントリー1万人の第九』以来、聴くよりも自分で歌う、という方が定番になってきた感もあります。
確かに、その方がベートーヴェンの意図に合致していますので、天国から見て喜んでくれていることでしょう。
私は、一緒に歌いましょうと誘われたことはあるのですが、音痴とレッスンの面倒臭さゆえに、丁重に辞退してしまいました。さぞ、ふがいない奴、と蔑まれていることでしょう。苦笑
ロンドンからの注文制作だった第九
さて、『第九』は言うまでもなく、ベートーヴェンの9曲のシンフォニー、〝不滅の9曲〟の最後の曲です。
作曲は1822年から1824年にかけてで、初演は1824年5月7日。亡くなる3年前、ということになります。
ベートーヴェンの生涯を区分するのは色々なやり方、諸説がありますが、前期、中期、後期という分け方がポピュラーです。
前期は、ハイドンやモーツァルトなど先輩の作品を学びつつ、前衛的ピアニストとして世間を驚かしながら、独自の音楽を模索して大胆な実験を繰り返した頃。(1782年から1802年くらい)
中期は、音楽家として致命的な耳の病と闘い、また失恋を繰り返すなど、人生の苦難に悩みながらも、充実した名作群を次々に生み出した円熟期。(1802年から1813年くらい)
後期は、ほとんど耳が聞こえなくなった中で、芸術家として自分の世界を追求していった、深遠なる孤高のとき。(1814年から1826年)
第九は、もちろん後期に属し、ロンドンのフィルハーモニー協会の依頼で作曲しました。
ロンドンという街は、産業革命が始まり、世界の工場となっていく英国の中心地であり、貴族よりも近代社会の担い手ブルジョワが力を持つ、先進的な場所であり、王侯貴族とは違った、たくさんの聴衆がいました。
そんな社会状況から、『メサイア』をはじめとする、壮麗な大合唱を伴ったヘンデルのオラトリオが大ウケした街であり、ハイドンも、前回取り上げた主君ニコラウス侯が1790年に亡くなり、30年仕えたハンガリーのエステルハージ家を退職してフリーになると、各国から招きが殺到したのですが、応じたのはロンドンでした。
ハイドンは、1791年から1792年、1794年から1795年の2回にわたってロンドンを訪問し、計12曲のシンフォニーをはじめとする名曲を演奏して大喝采を受け、大儲けしました。ウィーンに戻ってからも、ロンドンでのヘンデルのオラトリオ人気に刺激を受け、オラトリオ『天地創造』『四季』を生み出したのです。
ベートーヴェンにも、ロンドンから度々お誘いがあったのですが、訪問は実現しませんでした。その代わり、2曲のシンフォニーの注文があったのです。
ハイドンが受けた注文は、6曲ずつのセットだったのですが、ベートーヴェンはこの頃シンフォニーを2曲並行して作曲していました。第5番〝運命〟と第6番『田園』、のだめカンタービレで有名になった第7番と第8番が兄弟関係にあります。
かねて温めていた構想に基づき、当初2曲作り始めたようですが、1曲は通常通りの器楽オンリーのシンフォニーで、もう1曲は合唱付きのシンフォニーでした。
シンフォニーに合唱を入れる試みは斬新で、全く初めてのことであり、マーラーなど、後世の作曲家に大きな影響を与えた、といわれていますが、合唱好きのロンドンの聴衆を念頭にしたのであれば、ヘンデルやハイドンの成功を意識して、もう1曲は〝シンフォニー形式のオラトリオ〟を作曲しようとしたのではないか?と私には思えます。
最終的には、純器楽のシンフォニー(第1~第3楽章)と、合唱つき音楽(第4楽章)を合体させて、1曲のシンフォニーになりました。
そして、その合体にこそ、この曲の大きな意味が生まれることになったのです。
社会への抵抗? シラーの詩
ベートーヴェンはもともと、フリードリヒ・フォン・シラー(1759-1805)の詩に曲をつけたいと、若い頃(1790年代)から構想を持っていた、と言われますが、それをようやく実現させることができました。
シラーはゲーテとともに、ハイドンの項で触れた文芸運動『疾風怒濤(シュトゥルム・ウント・ドランク)』の旗手で、その詩は革命の嵐が吹き荒れたヨーロッパの若者たちの心に火をつけました。
日本で言えば、安保闘争やベトナム反戦運動に若者が燃えた1960年代が似ているのかもしれません。文芸でいえば、石原慎太郎の『太陽の季節』あたりでしょうか。
ベートーヴェンが取り上げたシラーの頌詩『歓喜に寄す(喜びの歌)』は、当初『自由に寄す』でしたが、官憲の検閲を逃れるために〝自由〟を〝歓喜〟に差し替えたといわれています。
もともとは、王侯貴族の専制を排し、自由を求めた革命的な詩で、それにベートーヴェンも共感したと思われます。
ベートーヴェンは貴族を相手に生きましたが、彼らには敬意は払わず、むしろ自分たち芸術家を保護するのが当然の義務だと考えていました。
フランス革命の理念をヨーロッパに広めた英雄ナポレオンを支持し、敵国ながら彼に捧げるシンフォニーを作曲したけれど、初演前に、ナポレオンが自ら皇帝の座に着いたと聞いて激怒し、楽譜の献辞を破いた、という『エロイカ・シンフォニー(第3番〝英雄〟)』のエピソードはあまりにも有名です。
モーツァルトも、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』の中に〝自由万歳(Viva la liberta !)〟と皆で叫ぶ場面を挿入しています。劇の流れとしては、主人が宴会に〝誰でも自由にご参加ください〟と誘う場面なのですが、このオペラを初演したプラハのあるボヘミア(現チェコ)は、ハプスブルク家の支配への抵抗が強かった場所なので、聴衆もこのウラの意味をよく分かっていて、劇場中が〝自由万歳〟と唱和したということです。
芸術は、今も昔も、既存社会への反抗、既存秩序への抵抗、という性格を帯びることがままあるのです。
ベートーヴェンがこの曲を書いた頃は、人民の自由を求めたフランス革命がナポレオンとともにつぶされ、オーストリアでは宰相メッテルニヒの保守反動政治が自由を抑圧した時期でした。
ベートーヴェンはカフェや酒場で、反体制的な言動をまくし立てていたということです。
第九は、苦悩の末に来る歓喜、がテーマであることが間違いないですが、こういった裏の意味もあると、私は受け取っています。
初演を再現!〝RE SOUND〟プロジェクト
さていよいよ、曲を聴いていきたいと思います。
演奏は、古来あまたの巨匠がたくさんの名盤を遺しており、私も小学校の頃涙した原体験はカラヤン&ベルリンフィルですが、ここではやはり古楽器を取り上げます。
特に、この演奏はこだわっていて、楽器や奏法をベートーヴェン当時のものに近づけるのはもちろんのこと、初演当時の会場の音響まで研究し、できる限りの再現を試みる〝RE SOUND〟というプロジェクトの一環です。
1824年5月7日の初演は、ウィーンのケルントナートーア宮廷劇場で行われました。
オーケストラも合唱も通常よりかなり大きな編成で、諸説はあるものの、オーケストラは80~90名、合唱団は最大80名だったと言われていますが、当時は度重なる戦争中で、プロの楽団員が不足し、半分はアマチュアだったということです。
これまでの常識を覆すような難曲で、歌手たちはとても歌えない、と楽譜の変更を求めてベートーヴェンに詰め寄り(もちろん拒否されました)、リハーサルも2回しか行われませんでした。
そのため、演奏のレベルは、現代のオケが血のにじむような練習の末に完成させたものに比べたら、かなり低かったのではないかと思われます。当時の演奏家は楽譜を初見で演奏するのはよくあることで、慣れていたともいわれますが。
もちろん、この演奏は練れていて、そんなアマチュア的なたどたどしさまで再現しているわけではありませんが、〝巨匠〟の演奏を聴きなれた耳には物足りないかもしれません。
でも、この人類の至宝といわれる曲が、初めてこの世で鳴った瞬間を想像しながら聴くには、とても有意義な演奏と思います。
Beethoven : Symphony no.9 in D minor , op.125 〝Choral〟
演奏:マルティン・ハーゼルベック指揮ウィーン・アカデミー管弦楽団
Martin Haselbock & Orchester Wiener Akademie
第1楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ、ウン・ポコ・マエストーソ
何かを探るような、神秘的なホルンと弦楽器のトレモロで始まり、断定的な力強い総奏が続きます。ふと、優しい響きが流れてホッとしたかと思うと、天から何かが落ちてくるような、いや、こちらが奈落の底に落ちていくような音型が度重なり、聴いていくうちに意識が遠のくような感覚に陥ります。この恐ろしい音楽は、ベートーヴェン自身の生涯の苦悩を表したものなのか、閉塞した社会状況を表したものなのか分かりませんが、第5番以上に〝運命〟を感じさせる音楽です。特にゾッとするのが終わり方です。世界の破滅が忍び寄ってくるかのような・・・
通常は第3楽章にもってこられるスケルツォ楽章です。ティンパニの使い方が斬新で、その活躍が目覚ましく〝ティンパニ協奏曲〟とも言われます。絶望的な第1楽章とは違い、元気が湧いてくるような力強い楽章です。私のように運命に立ち向かえ、とベートーヴェンに励まされているようです。初演時に最も聴衆が熱狂し、異例の大拍手を送ったのがこの楽章でした。2回もアンコールされ、さすがに3回目は警備の兵士に制止されたといわれています。
数あるベートーヴェンの、うっとりとするような緩徐楽章の中でも白眉です。お気に入りの保養地バーデンで、美しくのどかな自然に囲まれてこの曲を書いたと言われています。自由な変奏が続き、心のうちに憧れが満ちていきます。
第4楽章 プレストーアレグロ・アッサイ
いよいよ、合唱付きの最終楽章です。これまでの音楽とは全く違い、何が始まるのか??と思わせる総奏のあと、低弦が不思議な音型を奏しますが、それは、声の無いレチタティーヴォなのです。つまり、声は無いのですが、何か言葉をしゃべっているわけです。その言葉は、あとで明らかにされます。
そして、オーケストラは、これまでの3つの楽章のハイライトを順番に奏でますが、低弦のレチタティーヴォはいちいちそれを否定します。第1楽章はかなり頭ごなしで否否定。第2楽章にも、それも違うんだな・・・と。美しい第3楽章には、さすがに引きずられますが、最後には、いやいや・・・やっぱり違うのだ、という感じです。
ではこれ・・・?と管楽器が〝喜びの歌〟のさわりを奏でると、低弦は何ごとか言いつつも、納得し、自ら主旋律を歌いはじめ、オーケストラ全体で和していきます。
それは、これまでの音楽のように複雑なものではなく、誰もが口ずさめ、みなで心を合わせ、共感できる旋律なのです。
いったんオーケストラで盛り上がったところで、また冒頭の乱奏があり、続きておもむろにバリトンが初めて声を上げます。
曰く、『おお友よ、これらの音ではなくて、もっと快いものに声を合わせよう。もっと喜ばしいものに。』
この句はシラー作ではなく、ベートーヴェンの作詞です。先ほどの低弦のレチタティーヴォは、まさしくこのセリフを言っていたのです。
喜びの歌は独唱から合唱に受け継がれ、みなでの唱和が始まります。
続いて、唐突にトルコ風の行進曲が始まり、テノールがさらなる歓喜を訴え、それが終わるとオーケストラが颯爽とした演奏を繰り広げます。さらに、合唱とオーケストラが一体となって喜びの歌を全世界に響かせます。
次に、一転、ミサ曲のように厳粛な雰囲気となり、大自然への感謝が歌われ、壮大な二重フーガで、全人類を同胞として、平和を求める声を高めていきます。
抱き合おう、何百万の人々よ!
全世界に接吻を! 兄弟たちよ!!
そして、造物主の偉業を讃え、感謝を捧げつつ、歓喜よ、神の閃光、と高らかに歌って全曲を締めくくります。
初演では、ベートーヴェンも舞台に立ちましたが、ほとんど耳は聞こえないため、実際の指揮は宮廷楽長のウムラウフが行いました。
曲が終わり、呆然としているベートーヴェンを、アルト歌手のカロリーネ・ウンガーが客席の方を向かせ、大喝采に気づかせた、というのは有名なエピソードです。
初演は成功だったと伝わっているものの、この曲のもつ意味がどこまで伝わったかは疑問で、ベートーヴェン崇拝者たちだけが熱狂して騒いでいた、という証言もあります。
しかし、ベートーヴェンの崇高な意図は、時が経つほどに理解され、共感されていきます。
苦悩を乗り越えて訪れる歓喜。人類の団結。自由の尊さ。
『喜びの歌』はEU欧州評議会によって「欧州の歌」とされ、自筆譜はユネスコの『世界の記憶(世界記憶遺産)』とされました。
しかし、EUからは英国が離脱し、ユネスコからは米国が離脱を表明するなど、全人類が手を取り合うことで平和を、というベートーヴェンの呼びかけに反するような昨今の情勢は残念な限りです。
もうすぐ2017年が終わり、2018年がやってきます。
国際情勢にまで思いを馳せずとも、1年を振り返り、いい年だったとしても、嫌なことばかりの1年だったとしても、来年はいい年になるように、と、年越しを機会に、自分をリセットするには絶好の曲といえます。そういった意味でも、大晦日は第九ですね!
今年始めたばかりの当ブログをお読みいただき、ありがとうございました。
来年もよろしくお願いします。
皆様にとって良い年となりますように!
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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