1783年3月23日、ブルク劇場。 オール・モーツァルト・プログラム
前回のお話。父からの命令に近い要請で、修羅場の中で突貫工事でセレナードを作曲し、出来た楽譜から故郷の父に送りつけたモーツァルト。
年明けて、自分のコンサートが開かれることになり、新しいシンフォニーが必要になって、父にセレナードを送り返してもらったところ、見てびっくり。
なんという素晴らしい出来栄えでしょう!
自分でも信じられない思いで、これをシンフォニーに改変し、コンサートに臨みました。
1783年3月23日に、皇帝ヨーゼフ2世臨席のもと、ブルク劇場で開かれたこのコンサートこそ、モーツァルトの人生でも栄光の頂点というべきものでした。
プログラムは全てモーツァルトの作品で、もちろんモーツァルト自身が出演し、指揮と、当時ヨーロッパ一といわれたピアノの腕前を存分に披露。
出演の歌手たちも、モーツァルトが失恋したアロイジア・ウェーバー(今は結婚してランゲ夫人)や、オペラ『後宮からの誘拐』の初演にも出演した当代の人気歌手たち。
成功を鼻高々に父レオポルトに報告した手紙です。
大好きなお父さん!
私の発表会の成功についてあれこれと申し上げるまでもないと思います。
たぶんもうお聞きになっていることでしょう。ともかく、劇場はこれ以上詰め込む余地がないくらいで、ボックスも全部ふさがりました。何よりもうれしかったのは、皇帝陛下がお見えになり、たいそうご満悦の様子で、大いに喝采をしてくださったことです。皇帝は劇場へお出でになる前に、会計へお金を送ってくださるのが慣わしなのですが、もしそうでなかったら、もっとたくさんいただけたものと思って間違いないでしょう。じっさい、皇帝のご満悦は際限がないくらいでしたから。25ドゥカーテンだけ届けてくださいました。(1783年3月29日 父レオポルト宛)*1
当日のコンサートのプログラムが、この手紙の後半に詳しく紹介されていますので、当時のコンサートの様子がよく分かる貴重な記録なのです。
いくつか、分かることを挙げてみましょう。
シンフォニーは前座
まず特徴的なのが、シンフォニーの立ち位置です。
このコンサートでは、4楽章あるハフナー・シンフォニーのうち、第1楽章から第3楽章までがコンサートの冒頭に演奏され、全てのプログラムが終わったあと、最後に第4楽章が演奏され、お開きとなっているのです。
シンフォニーはもともと、オペラの開幕の前に演奏される序曲が起源ですから、この時代のコンサートにおいても、開始前におしゃべりしたり、離席したりしている人々を静まらせる〝ガヤ鎮め〟の役割なのですが、分割されて、終楽章だけが最後に演奏されていたのは驚きです。
終楽章は〝フィナーレ〟と題されていますが、単にシンフォニーのフィナーレという意味ではなく、演奏会全体のフィナーレ、という意味だったのです。
シンフォニー、すなわち交響曲は、現在のコンサートでは、このような〝前菜〟ではなく〝メインディッシュ〟になっていますが、それはシンフォニーの価値を高め、近代の音楽芸術の媒体としたハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの努力の賜物なのです。
発展させた順番は、私はハイドン→モーツァルト→もう一度ハイドン→ベートーヴェン、と思っていますが。
ベートーヴェンのシンフォニーは初演時から既にコンサートの主役になっていますが、それでも、全ての楽章をぶっつづけでは演奏されず、楽章と楽章の間には小品を挟んだといわれています。
1時間に及ぶようなシンフォニーを続けて聴く集中力は当時の聴衆にはありませんでした。
ちょうど、オペラ・セリア(正歌劇)の幕間の寸劇(インテルメッツォ)のようなものが必要だったのです。
モーツァルトの晩年のコンサートの広告にも〝モーツァルト氏作曲による大シンフォニー〟と書かれていて、だんだんとシンフォニーが主役になってゆくように感じられます。
ハイドンがロンドンに行った頃には、英国人は大シンフォニーを求めていたのです。
このモーツァルトのコンサートは〝四旬節〟の時期に行われました。
四旬節とは、カトリックの教会暦で定められた期間で、イエスの受難に思いを致し、祈り、断食、慈善の行いをすべき時期とされていました。
期間は、復活祭(イースター)の46日前から始まります。イースターは「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」ですので、3月22日から4月25日の間で毎年変動します。
イスラム教におけるラマダン(断食月)に似ていますが、それほど厳格には行われていません。
それでも祝祭的なものは控えられ、オペラの上演は禁止されていました。
しかし、日曜日は除外とされていたので、オペラの代わりの娯楽として、コンサートが開かれていたのです。
そのため、四旬節といえば、むしろ演奏会の繁忙期で、モーツァルトは大忙しの稼ぎ時でした。
ちなみに〝四旬〟とは〝40日〟のことで、46日から日曜日を抜くと40日になります。
「40」というのはキリスト教では特別な意味のある数字で、モーセが約束の地を求めて荒野をさまよったのが40日、預言者ヨナがニネヴェの町に改心の期限を切ったのが40日、イエスが荒野で断食したのが40日でした。
四旬節に入ると断食で肉を食べられなくなるので、その前に思いっきり肉を食べておこう、というのが謝肉祭、すなわちカーニバルです。
本来、カーニバルもイースターも、辛いことを我慢することと引き換えのお祭りなのに、日本ではお祭りならなんでもやりたい!ということで、いいとこどりをしてテーマパークなどで楽しんでいるわけです。
ウィーンの劇場事情
モーツァルトのコンサートの行われたブルク劇場は、ヨーゼフ2世肝いりの宮廷劇場で、モーツァルトのオペラのうち『後宮からの誘拐』『フィガロの結婚』『コジ・ファン・トゥッテ』がこの劇場で初演されています。
ブルク劇場は、客席約1,350名でした。
当時、ヨーロッパで最大級の劇場は、ミラノのスカラ座と、ロンドンのキングス劇場でしたが、いずれも収容数は約3,300名。
音楽の都ウィーンの劇場にしてはこじんまりとしていますが、宮廷劇場ですので、こんなものでしょう。
むしろ、今のグランドピアノよりはるかに音量の小さいフォルテピアノでの、モーツァルトの繊細な演奏を堪能するには、このくらいの規模でなければなりません。
ヨーゼフ2世は、この劇場を皇族、貴族だけでなく、一般人にも開放しましたが、まだまだ敷居は高かったようです。
観客席も身分で隔てられていました。
まず、舞台の正面前列は、「パルテル・ノブル」という皇族、貴族の特等席。映画『アマデウス』でも、皇帝は指揮者の真後ろに陣取っていますし、マリア・テレジアとその家族がオペラ鑑賞をしている絵でも、最前列に皇室一家が並んでいます。
2階と3階のボックス席は、貴族や各国大使のためのもので、これは今の野球場の指定席や競馬場の貴賓席のように年間契約で、1席700~1000グルデン。
モーツァルトが後年、死去したグルックの後任としてようやく宮廷作曲家の職を得たとき、年棒は800グルデンで、つまり公務員の年棒に匹敵する額でした。
そして、パルテル・ノブルの後ろの第2パルテル、4階ボックス、上のギャラリー席(いわゆる天井桟敷)が、チケットを払えば誰でも入れる席でした。
しかし、チケット代も、ヨーゼフ2世によって値下げされたとはいえ、石工の日給くらいの額で、手に入れられるのは、やはり一般人でも裕福な人に限られました。
ちなみに、オペラシーズン以外では、作曲家がチケット収入目当てでコンサートを催そうとするとき、宮廷劇場は貸してもらうことができました。
モーツァルトはこうした演奏会はコンサートと呼ばず、「アカデミー」と呼んでいます。3月23日のコンサートもそれでした。
このコンサートの聴衆は、そんな人々だったのです。
やはり主役は歌手
まるでやTVドラマやアニメ番組のように、シンフォニーは〝始めの歌〟〝終わりの歌〟の役目を果たしているわけですが、プログラムのメインは、やはり歌手の歌でした。それは現代音楽のコンサートと一緒で、フュージョンなど一部のジャンルは別として、ヴォーカルのいないコンサートなど考えられません。
また、モーツァルトのピアノ・コンチェルトが2曲もありますが、これは、作曲家でありながらヨーロッパ一のピアノの腕前をもっていたモーツァルトならではの趣向です。
モーツァルトの作ったピアノ・コンチェルトは、さながらオペラの歌の代わりをピアノが務めるもので、モーツァルトが自分の妙技を存分に見せるために創ったジャンルと言っても過言ではありません。
バッハはブランデンブルク・コンチェルト 第5番で、チェンバロを初めて伴奏楽器から合奏の主役に引き上げましたが、モーツァルトはまさにそれを自分のアピールのために使ったのです。
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さらに、モーツァルトはピアノの独奏も何曲も行っていますが、さながらリサイタルの趣きです。
ウィーンに来たモーツァルトは開口一番、『当地はまさにピアノの国です』と、ピアノ・ブームを実感し、自分の新天地はここしかない、と定住を決めました。
モーツァルトはヴァイオリンも得意でした。
ヴァイオリンの権威であり、教本まで著した父レオポルトに『お前は自分がどんなにヴァイオリンが上手いか分かっていないのだ!』と言われながらも、父の楽器ヴァイオリンではなく、ピアノを自分の楽器として選んだのも、父への反抗だったかもしれません。
このコンサートの観客は、ひいきの歌手の歌と、モーツァルトのピアノを目当てに劇場に殺到したのです。
開幕!モーツァルト・コンサート 23 March 1783
それでは、モーツァルトが手紙で報告している通りに、この日のコンサートを再現してみましょう。
下は、この日のコンサートを再現したCDで、面白い企画ですが、全ての曲を網羅しているわけではないので、他のおすすめ演奏も交えながらご紹介していきます。
曲名の前の題は、モーツァルトの手紙に書いてある、曲の紹介文です。
第1曲 ハフナーのための新しいシンフォニー
W.A.Mozart : Symphony no.35 in D maior, K.385〝Haffner〟
レオナルド・グラシア・アラルコン指揮 ミレニアム・オーケストラ
Leonardo García Alarcón & Millenium Orchestra
第1楽章 アレグロ・コン・スピーリト
父のために書いたセレナードをシンフォニーに改変した第2版です。セレナードとシンフォニーの区別は、用途だけの話で、音楽の形式上はあいまいなものでした。モーツァルトは第1楽章と第4楽章にフルートとクラリネットをそれぞれ2本追加して、ハーモニーを充実させています。編成としては〝パリ・シンフォニー〟以来の大編成です。この演奏はティンパニの生々しい轟きが実に新鮮です。前回も触れた冒頭の跳躍に、がやがや騒いでいた聴衆はびっくりして一気に舞台に向かって居ずまいを正したことでしょう。
第2楽章 アンダンテ
フルートとクラリネットは入っていませんが、最初から入っていたらもっと違う曲になっていたことでしょう。しかしそれでも、抒情はたっぷりです。
このメヌエットで序曲としてのシンフォニーは、終楽章を残したままいったんおしまいになり、いよいよメイン・プログラムがスタートです。
第2曲 ランゲ夫人の歌で、私のミュンヘン時代のオペラの中のアリア『もし父をなくしていたら』を4つの楽器の伴奏で
モーツァルト:オペラ『クレタの王イドメネオ』K.366よりイリアのアリア『もし父をなくしていたら』
レオナルド・グラシア・アラルコン指揮 ミレニアム・オーケストラ
ソプラノ:ジョディ・デヴォス Jodie Devos
オペラ『クレタの王イドメネオ』K.366は、モーツァルトがウィーンに来る直前、1781年にバイエルン選帝侯カール・テオドールの依頼で、ミュンヘンで上演した本格的なオペラ・セリアです。モーツァルトの7大オペラの最初の作品でしたが、ギリシア神話を題材とした古臭いオペラと思われ、ほんの数十年前まではほとんど上演されない歴史上の作品でした。しかし、メトロポリタン・オペラハウスがパバロッティなど当代一流の歌手をそろえて上演したところ、その素晴らしさにみな息を呑み、今ではモーツァルトの一流の作品という評価を得ています。しかし、モーツァルトにとっては願ってもないチャンスを得て、飛躍のために精魂を込めて書いた自信作であり、ぜひウィーン人たちに知ってほしいと、プログラムの冒頭に持ってきたのです。歌うのは、妻コンスタンツェの姉であり、モーツァルトが求愛して失恋したアロイジアです。今では俳優ランゲの妻となり、ランゲ夫人と呼ばれています。
オペラの筋は、ギリシア神話のトロイア戦争の後日譚で、〝トロイの木馬〟作戦でギリシア軍に滅ぼされたトロイアの王女イリアと、その身を預けられたギリシア軍の武将、クレタ王イドメネオ、そしてその王子イダマンテの数奇な運命を描いたものです。
王子イダマンテは敵の王女イリアに恋しますが、イダマンテは神の怒りをかってしまい、海神ネプチューン(ポセイドン)は、父イドメネオに息子を殺すように迫ります。
このアリアは、悩むイドメネオにイリアが、本当の父を亡くした今、あなたを父と慕います、と優しく歌い、イドメネオの苦悩をさらに深める歌です。
モーツァルトが書いているように、4つの管楽器のオブリガートが、イリアの恋人の父親に対する心情を豊かに歌い上げます。
第3曲 私の予約協奏曲の中の第3番を私の演奏で
モーツァルト『ピアノ協奏曲 第13番 ハ長調 K.415』
Mozart:Concerto for Piano and Orchestra no.13 in D major , K.415
ゴットフリート・フォン・デア・ゴルツ指揮 フライブルク・バロック・オーケストラ
フォルテピアノ:クリスティアン・ベズイデンホウト
Gottfried von der Golts & Freiburger Barockorchester
Fortepiano : Kristian Bezuidenhout
ウィーンに来たモーツァルトは、旧作のピアノ・コンチェルトを弾いていましたが、ウィーンのピアノ人気から、満を持して3曲の新曲を作り、楽譜の予約を受ける広告を新聞に掲載します。これが、ピアノ・コンチェルト第11番 へ長調 K.413、第12番 イ長調 K.414、第13番 ハ長調 K.415の3曲で、モーツァルトが〝予約協奏曲〟と呼んでいるのはこの3曲です。この第13番は、3曲セットの中の第3番、ということになります。モーツァルトはこれらの曲について、父に次のように書いています。
できた協奏曲は、難しいのと易しいのとのちょうど中間のもので、非常に華やかで、耳に快く響きます。もちろん空虚なものに堕してはいません。あちこちに音楽通だけが満足を覚える箇所もありながら、それでいて、通でない人も、なぜか知らないながらも、きっと満足するようなものです。切符は現金6ドゥカーテンで頒けています。(1782年12月28日 父レオポルト宛)
このくだりも有名です。自分の曲は、音楽通を満足させ、通でない人も、なんだか理由が分からないまま満足してしまう、というのです。私なども後者ですが、全くモーツァルトが自分で言う通りです。
演奏会も予約制で、貴族や有力者の間に名簿を回し、これも予約演奏会と呼ばれ、モーツァルトの大きな収入源となりました。
この時期の名簿はあっという間にいっぱいになりましたが、晩年、演奏会をやろうとして名簿を回したところ、予約はヴァン・スヴィーテン男爵ひとり、という寒い結果になっていました。
まさに、父やアルコ伯爵の言う通り、ウィーン人は流行に流されやすく、熱しやすく冷めやすかったのです。
ともあれ、この曲を書いた頃は、人気絶頂でした。
これも弦が小さく奏でるマーチ風のリズムがカノン風に始まり、やがてトランペットとティンパニが加わって華やかに盛り上げます。格調高く、礼服を着てかしこまったモーツァルトです。独奏ピアノは華麗の極致で、モーツァルトの技を心行くまで堪能できます。
第2楽章 アンダンテ
モーツァルトは最初この楽章をハ短調で書こうとして、途中でやめて、平明なヘ長調に変えています。後のモーツァルトは、短調の劇的でシリアスが楽章をたくさん書くようになり、結果、人気を失っていくのですが、この時期はまだ聴衆の好みに極力合わせようとしたのでしょう。聴衆はここで、一息つき、ホッと癒されたに違いありません。
第3楽章 ロンド:アレグロ
このコンチェルトで一番充実した楽章です。独奏ピアノのロンドでリードし、オーケストラが追いかける展開です。心に沁みる第2テーマはオーケストラから提示されますが、これを受ける独奏ピアノはいきなりしんみりとしたハ短調で、意表をつきます。おそらく第2楽章でやろうとしたことを、第3楽章の中で軽く試してみよう、ということにしたのでしょう。このあとは、しんみりと、華やかな名人芸の披露が交代で展開し、聴く人を引き付けてやみませんに戻っていきます。注目すべきは曲の終わり方です。ドカン、と大きな音で締めるのではなく、だんだんとデクレッシェンドしていき、消え入るように終わるのです。その粋なこと!派手好きなウィーン人の心を逆手にとってくすぐった、小憎らしいほどの細工です。
モーツァルトはその後もウィーンで珠玉のようなピアノ・コンチェルトを書き続けますが、それは以前こちらから16番以降を取り上げました。
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コンサートはまだまだ続きます。次回、後半をお届けします。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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