孤独のクラシック ~私のおすすめ~

クラシックおすすめ曲のご紹介と、歴史探訪のブログです。クラシックに興味はあるけど、どの曲を聴いたらいいのか分からない、という方のお役に立ちたいです。(下のメニューは横にスライドしてください)

〝愛する女〟と呼ばれたソナタ。ベートーヴェン『ピアノソナタ 第4番 変ホ長調 作品7』

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〝男爵砲〟に怒ったベートーヴェン

1798年、27歳のベートーヴェンが、友人のある男爵に書いた手紙があります。

わが親愛なるスキャンダル収集人男爵様

昨日は、ズメルカル・ドマノヴェッツ流おしゃべりのおかげで、すっかり憂鬱にさせられてしまった(悪魔にさらわれろ)。あなたのお説教を聞くなんてお断りだ。力、これこそが卓越した者にとってはモラル原則なんだ。私にとってもそうだ。だから、もしあなたが今日もまた同じことをくり返すなら、私のやり方が適切で称賛さるべきものだとあなたが認めるまで、とことんあなたを悩ませてやるつもりだ。*1

手紙の宛先のズメルカル・ドマノヴェッツ男爵は、ウィーンに来て以来の、ベートーヴェンの支持者のひとりです。

ベートーヴェンより10歳ほど年上でしたが、その交友は気の置けないもので、しょっちゅうふたりで食事をしたり、ふざけ合ったりする仲でした。

どうも今回は、男爵が、ベートーヴェンの女性との付き合い方について、苦言を呈したものと思われます。

ベートーヴェンは、何人もの貴婦人たちにピアノ・レッスンを行い、親しい交遊関係をもっていました。

当時の社交界のモラルからすれば、女性とは一定のソーシャル・ディスタンスを保ち、礼儀と敬意をもって接し、親しくなり過ぎないのが道徳規範。

しかし、ベートーヴェンはそんなモラルなど関係ない!というスタンスです。

また、ピアノ教師という仕事も特殊でした。

個室でふたりきり、手と手が触れ合うほどの近さでレッスンするのですから、深窓の令嬢にとっては、あり得ない距離で接する例外的な異性です。

男性としては、醜男で変人といわれたベートーヴェンですが、その奏でる音楽の気高さ、斬新な力強さは、女性の心を鷲掴みにします。

そのため、ベートーヴェンは〇〇令嬢とは何かあるようだ、〇〇伯爵夫人とはあやしい関係らしい、といったスキャンダラスな噂がウィーン社交界の扇子の陰で度々囁かれたようです。

男爵はそんな噂を、週刊誌記者のごとく集めては、ベートーヴェンをからかったり、咎めたりしたのでしょう。

ベートーヴェンと親しい貴族女性は、いずれも教養高く、音楽の素養豊かな、芸術の理解者たちでした。

彼女らは、ベートーヴェンの芸術を高める役割を果たしたといえるように思えます。

むしろ、創作の原動力だったかもしれません。

そんな高邁な交際を、面白おかしく、興味本位でスキャンダラスに取り上げられたものだから、ベートーヴェンは怒ったのです。

彼はもう有名人でしたから、ネットで叩かれたセレブのようなものです。

自分のモラルは力だ、というのはベートーヴェンの名言のひとつですが、現代にこんな反論をしたら即炎上し、彼は芸能界から葬られてしまったかもしれません。

お気に入りの令嬢バベッテ

しかし、火のない所に煙は立たぬ。

ベートーヴェンの女性への接し方が、当時としては眉をひそめさせるようなものだったのは事実のようです。

当時の有名な弟子に、伯爵令嬢アンナ・ルイーゼ・バルバラ・ケグレヴィッツがいます。

ハンガリー貴族の生まれで、領地はスロヴァキアのブラティスラヴァにあり、ウィーンにも別邸を持っていました。

出会いはプラハ・ベルリン旅行の途上だったかもしれません。

ウィーンで、当時16歳の令嬢バルバラ(愛称はバベッテ)のレッスンを引き受けましたが、令嬢の甥の証言によると、ベートーヴェンのふるまいは破天荒だったようです。

当時、ベートーヴェンはちょうど伯爵邸の向かいに住んでいたのですが、朝、ナイトキャップをかぶり、パジャマ姿のままスリッパで伯爵家にやってきて、レッスンをしたというのです。

ベートーヴェンの複数の友人が、ふたりは恋仲だったと証言していますが、こんな話が噂になれば、そりゃあスキャンダルにもなるでしょう。

ソナタ〝愛する女〟

ベートーヴェンの新作ピアノソナタ 第4番 変ホ長調 作品7』は、出版に際して彼女に献呈されました。

友人たちは、このソナタ〝Die Verliebte(愛する女)〟と呼びました。

一般的には、それはベートーヴェンの恋愛には関係なく、この曲のロマンティックな雰囲気からつけられた、とされています。

しかし、ベートーヴェンソナタに女性への憧れを感じるのは私だけではないでしょう。

愛弟子バベッテに贈られたこのソナタに、彼女への気持ちが込められていない、と考える方が難しいように思います。

バベッテのピアノ演奏の才能は数ある弟子の中でも卓越していたようで、『ピアノ協奏曲 第1番』『ピアノ変奏曲 作品34』も彼女に献呈されています。

彼女は1801年にオデスカルキ侯爵と結婚し、侯爵夫人になりますが、それからもベートーヴェンとの交際は続いています。

ふたりの関係は芸術を介して昇華されたものであって、俗物たちの憶測の及ぶところではありません。

新境地を拓いたソナタ

さて、このピアノソナタ 第4番 変ホ長調 作品7』ですが、前作で、ハイドンに捧げた作品2(第1番~第3番)から、驚くべき発展を遂げています。

自ら〝Grande Sonate(大ソナタ)〟と銘打ち、新たな境地を切り拓いた記念碑的な作品です。

弟子チェルニーは後年このソナタについて、当時聴いた人々は〝アパッショナータ(熱情)〟と呼んだと証言し、『ベートーヴェンはこのソナタで激情を表している』と語りました。

あの〝熱情ソナタ〟の元はこの曲にあったのです。

このあとの作品群を知ってしまっている我々には実感しにくいですが、このソナタが当時どれほど画期的で、世に衝撃を与えたかがうかがえます。

出版が3曲セットではなく、1曲だけ単独、というのもベートーヴェンの気合いの入れようが伝わりますし、変ホ長調という〝英雄〟の調性からも、中期名作群へ大きく舵を切った作品といえます。

この曲は、後期のソナタ 第29番〝ハンマークラヴィーア〟に次ぐ長さをもっているのです。

ベートーヴェンピアノソナタ 第4番 変ホ長調 Op.7

Ludwig Van Beethoven:Piano Sonata no.4 in E flat major, Op.7

演奏:ロナルド・ブラウティハム(フォルテピアノ

Ronald Brautigam (Fortepiano) 

第1楽章 アレグロモルト・エ・コン・ブリオ

第1主題は、はじめにリズムが左手で刻まれる上に右手が和音を充当し、後に右手が8分音符の流れるようなモチーフを奏します。音階を昇り下る様は揺れ動く心のようです。強弱のコントラストが激しいですが、落ち着かないようでいて、不安はほとんど感じないのが不思議です。第2主題は変ロ長調でコラール風の気品あふれるもので、胸がいっぱいになります。このあたりが〝愛する女〟への思いに感じられたのでしょうか。変奏的に展開する華麗なアルペジオは、聴くほどに夢見心地になってしまいます。提示部の結尾は、ジャズのように洒脱です。展開部は第1主題とその結尾部を元に作られていますが、比較的短く、あっさりと再現部に入り、第2主題が変ホ長調で帰ってきます。コーダは大規模で、両主題が力強く重なって盛り上げていきます。これまでのベートーヴェンの作品にはないスケールと大きさです。

第2楽章 ラルゴ・コン・グラン・エスプレッシオーネ

つぶやくように途切れ途切れのフレーズが、気高くも深い情緒をたたえます。中間部はだんだんと歩き出すように変奏され、盛り上がったかと思うと、突然闇に放り出されたような孤独感にとらわれます。気を取り直すかのように、再び冒頭のテーマが再現されますが、これも完全な再現ではなく、凝った変化がつけられ、心に沁みる音楽に仕立てられています。最後は静謐な雰囲気の中で楽章が閉じられます。

第3楽章 アレグロ

アレグロ〟とだけ表示されていますが、実質は定石通りメヌエットスケルツォです。しかし、両者のどちらとも確定はできないため、ベートーヴェン自身もあえて形式は限定しなかったのかもしれません。まさしく、最初の歌い出しは甘く、わざわざ「ドルチェ」と記されていて、メヌエットの性格ですが、展開の諧謔的なところはスケルツォのようです。中間部は、短調の悲劇的な世界になり、3連符の起伏の無い分散和音の連続が印象的です。中間部のあとは、第1部がダ・カーポします。

第4楽章 ロンド:ポーコ・アレグレット・エ・グラツィオーソ

A-B-A-C-A-B-A-コーダの構成のロンドです。Aはどこまでも優しく、恋人に語りかけるようなフレーズです。Bは、恋人の会話に割って入る無粋な大人のようなバスがソプラノと対峙します。Cは、ハ短調の嵐で、これまでの優雅な気分と対比されていますが、いくぶん激しさは抑制されているように感じます。戻ってきたロンド主題はきらびやかに装飾されていますが、大胆な転調も行われ、最後まで緊張感が抜けることはありません。最後は幸福感に包まれながら静かに幕となります。

 

 

今回もお読みいただき、ありがとうございました。

 

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*1:青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』平凡社