珍しい、ホルンのためのソナタ
1800年4月2日のベートーヴェン初のアカデミー(作曲家主催のコンサート)の16日後、4月18日に彼は再びブルク劇場の舞台に立ちます。
それは、ヨーロッパで名高いホルン奏者、ジョヴァンニ・プント(1746~1803)のアカデミーでした。
そこで演奏されたのは、珍しいピアノ伴奏つきの「ホルン・ソナタ」でした。
このような曲はハイドンにもモーツァルトにもなく、ベートーヴェンにも1曲だけです。
まさにこの機会だけのために作曲されました。
それも、作曲したのはコンサートの前日!
たまたま会ったプントから、明日アカデミーをやるんだよ、という話を聞いて、じゃあ私も1曲提供しましょう、という話になったのか、急に依頼されたのか、あるいは以前から頼まれていたのに自分のアカデミー優先でギリギリまで後回しにしていたのかは、分かりません。
いずれにしても、楽譜にできたのはプントが吹くホルンパートだけ、自らが弾くピアノパートはメモ程度で、本番では即興的に弾いたとのことです。
その後、その月の末からふたりでハンガリーのブダペストに演奏旅行に出かけ、当地でもこの曲を共演しました。
プントの名声がヨーロッパ中に知れ渡っていましたこともありますが、この曲は急ごしらえにもかかわらず、大変な人気を博したのです。
プントはボヘミアのチャースラフ近郊、ジェフシツェの出身で、本名はヤン・ヴァーツラフ・スティフといいます。
プラハ、ミュンヘン、ドレスデンで学び、1768年あたりからヨーロッパ各地をめぐり、1782年から1799年までパリで活躍します。
イタリアに行った際、チェコ語の名前ではなかなか覚えてもらえないので、イタリア語読みでジョヴァンニ・プントと名乗り、それからはその名前で知られるようになったので、そのまま芸名として使っていました。
モーツァルトがパリに行った際も、プントは当地にいました。
その演奏を聴いて、父レオポルトに『プントの演奏は格調高いです』と書き送っています。
またモーツァルトは、プントを初めとした、パリにいる名手たちのためにシンフォニア・コンチェルタンテ(協奏交響曲)を作曲したのですが、モーツァルトの人気を警戒した勢力の妨害で演奏されずじまいで、楽譜も行方不明にされてしまいました。
モーツァルトの曲に惚れ込み、それを演奏することを楽しみにしていたプントは怒ったとのことですが、そのいきさつもモーツァルトは父に書き送っています。
ところが協奏交響曲についてもひと悶着がありました。ぼくはこれは何か邪魔するものがあるんだと思っています。きっと、ここでもまたぼくには敵がいるのです。でもどこに敵がいなかったところがあったでしょう?しかし、これは善い兆しです。ぼくはこの交響曲を大急ぎで作曲しなければならず、一生懸命でした。独奏者は4人で、みんなすっかり惚れ込んでいました。ル・グロ(注:演奏会の支配人)はその写譜に4日の余裕がありました。ところが、それがいつ見ても同じ場所にあります。おとといになって、それが見当たりません。でも楽譜類の間を探してみると、それが隠してありました。何気ない顔をして、ル・グロに『ところで、協奏交響曲は写譜に出しましたか?』と尋ねると、『いや、忘れていた』と言います。もちろんぼくはル・グロに、それを写譜することも写譜に出すことも命令するわけにいかないので、黙っていました。2日たって、それが演奏されるはずの日にコンセールへ行くと、ラムとプントが真っ赤になってぼくのところへやって来て、なぜぼくの協奏交響曲がやられないのか?ときくのです。『それは知らない。そんなこと、初耳です。私は全然知りません。』ラムはカンカンに怒って、音楽室でフランス語でル・グロのことを、あの人のやり方はきれいじゃない、などと罵っていました。
1778年5月1日パリにて、ザルツブルクの父レオポルト宛*1
この協奏交響曲については、このブログを始めた頃に記事にしました。
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このような事件にかかわらず、その後も、プントが自分の曲を大いに評価してくれたことが記されています。
モーツァルトに惚れ込んだプントが、晩年になってウィーンにやってきて、今度は若きベートーヴェンと組んだ、というわけです。
演奏至難のナチュラルホルン
プントは18世紀後半を代表するホルン奏者であり、この楽器の発達、表現力の拡大に大いに貢献しています。
ホルンのバルブが発明されるのは1814年ですから、それ以前のホルンはナチュラルホルンでした。
演奏できるのは自然倍音のみなので、半音階は演奏できません。
もともと角笛が起源で、主に狩猟での合図のために使われていたホルンをオーケストラに入れたのは、17世紀フランスのリュリでした。
18世紀に入ってからはオーケストラの常連となりましたが、演奏できる調性や音階は限られています。
それを何とかしたい、というのはホルン奏者の念願でした。
ナチュラルホルンは右手を朝顔に入れて音程を調整しますが、さらに深く入れて開口部にかぶせたり塞いだりして音をくぐもらせると、半音が出せるようになります。
その分、音は濁ってしまうのですが、それをうまくやれば表現の幅がぐっと広がります。
これをストップ奏法、ドイツ語ではゲシュトップト奏法といいますが、この奏法の重要な担い手のひとりがプントなのです。
モーツァルトやベートーヴェンは、彼の技にホルンという楽器のさらなる可能性を見出して、曲を提供したのです。
ストップ奏法ができるホルン奏者は貴族と同じテーブルで晩餐にあずかり、普通の奏者は召使いと同じ食卓だった、という話もあります。
ホルンが大好きすぎて…
特にベートーヴェンのホルンに対するこだわりは凄まじいものがありました。
もともと音程にハンディがある楽器なのに、これでもか、というくらいに無理を要求しています。
酷使、といった方がいいかもしれません。
第3シンフォニー『エロイカ(英雄)』の目玉は3本のホルンで、第3楽章のトリオは衝撃的ともいえるものです。
第5シンフォニー〝運命〟の第1楽章第2主題のソロ、第6シンフォニー『田園』第5楽章冒頭の牧歌は実に印象的。
そして第9の第3楽章後半に出てくる、第4ホルンのソロは〝ホルン奏者殺し〟と恐れられるパートです。
ナチュラルホルンでは、ストップ奏法をよほどうまく駆使しないと絶対吹けないパッセージで、しかも失敗の許されない緊張感MAXの場面。
ベートーヴェンの革新的な表現には、ホルンに対するムチャぶりが大きな役割を果たしているわけです。
19世紀以降、バルブが出来て、また2つや3つの調性の管を備え、自由自在に安定した音が出せるようになった現代のホルンなら、ベートーヴェンの要求をうまくこなせるようになったかというと、必ずしもそうとも言い切れません。
ベートーヴェンを古楽器ナチュラルホルンで聴くと、濁った音が出てきても、そのくぐもった味わいと音色は、彼がその効果を狙ったものではないか、と感じられるのです。
古楽器の中でも、特に現代楽器にはない魅力がある楽器といえます。
また、演奏至難だからこそ、聴く感動は格別なものなのです。
ホルン・ソナタに感動したテレーゼ
ベートーヴェンがプントとハンガリーに演奏旅行に行った際、当地の貴族ブルンスヴィック伯爵家にも滞在しました。
ブルンスヴィック家の次女、ダイム伯爵夫人ヨゼフィーネはベートーヴェンの〝永遠の恋人〟の有力候補であり、恋愛関係にあったのはほぼ間違いないということで以前の記事にも書きました。
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ブルンスヴィック家は、当主が亡くなったあと、未亡人アンナ・バーバラがふたりの娘の良縁を求めて1799年にウィーンに出てきたときに、ベートーヴェンと知り合い、ピアノを教えてもらうようになりました。
それ以降、この姉妹との交際は、ベートーヴェンの生涯で最も重要な関係でした。
姉のテレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(1775~1861)は、妹ヨゼフィーネとベートーヴェンの恋文書簡が発見されるまでは、彼の恋人の有力候補でしたが、今ではその関係はお互いの敬愛で結ばれており、恋愛ではなかったと考えられています。
テレーゼは生涯を独身で過ごし、教育、福祉活動に一生を捧げました。
ふたりはベートーヴェンの芸術を真に理解していましたので、ベートーヴェンにとってもその存在は精神的な支えでした。
テレーゼは86歳まで長生きしましたが、彼を〝神のごときベートーヴェン〟と呼び、その交友を一生の宝としていました。
1801年3月24日、テレーゼがブダペストから妹ヨゼフィーネに宛てた手紙に、出版されたばかりの『ホルン・ソナタ 作品17』『管楽器とピアノのための五重奏曲 作品16』『ピアノ協奏曲 第1番 作品15』について感想を書き記しています。
テレーゼは、ピアノ協奏曲の第2楽章で、コン・ソルディーノ(弱音器をつけて)とセンツァ・ソルディーノ(弱音器を外して)が交互にある箇所を〝斬新〟と評価し、その見識の深さを示しています。
そして、『なかでも(ホルン)ソナタは完全にわたしを幸福にしてくれ、わたしたちに歓喜を与えてくれる。』と、このソナタを激賞しています。*2
ホルン奏者にとってもかけがえのないこの曲の、貴重な最初の感想であり、まったく同感、というほかありません。
Ludwig Van Beethoven:Sonata for Horn & Piano in F manor, Op.17
演奏:ダニエル・ブランデル(ナチュラル・ホルン)、不明(フォルテピアノ)
Daniel Brandell (natural horn)
冒頭、ホルンが奏するのは、狩りの合図に使われたいわゆる「ホルン信号」の音型で、これが第1主題になります。この勇壮で無骨な〝アウトドア〟の音色を、優雅なピアノが縦横に装飾していき、奇跡のように見事な〝インドア〟の室内楽に仕立てています。第2主題は第1主題を変形させたものですが、無骨さをうまく抜いて、柔らかで優しい、ホルンならではの温かい音色になっています。ホルンが上行すればピアノは下行し、目まぐるしいばかりの展開に引き込まれていきます。展開部ではピアノがさらに華麗な技巧を披露し、ベートーヴェンの即興演奏を彷彿とさせます。コーダに近くなるとホルンにも難技が要求され、不自然な低音まで求められていて、初演はまさにふたりの曲芸のような舞台だったことでしょう。
第2楽章 ポコ・アダージョ・クアジ・アンダンテ
わずか17小節の、短いゆっくりした楽章です。葬送行進曲のようにしめやかで、ふたつの楽器が弱音で対話します。次の楽章に切れ目なく続くアタッカになっていますので、独立した楽章ではなく、序奏ととらえた方が妥当かもしれません。
(音楽のデータは前楽章の続きです)
切れ目なくロンドに入っていきます。ロンドのテーマは音が大きく上下する、ナチュラルホルンとしては演奏の難しい音型ですが、屈託のない朗らかな調べです。時々ホルンはかなりの低音にいきますが、プントは低音を特に得意としたようです。終わりの5小節はアレグロ・モルトとなり、ホルンの名技が披露されて曲を閉じます。ちゃんと拍手はプントにいくように配慮されているのでしょう。テレーゼが感じたように、聴くほどに幸福感に包まれる音楽です。
動画もナチュラルホルンとフォルテピアノの演奏です。
www.youtube.com
チェロ・ソナタへの編曲版
なお、ベートーヴェンはこの曲の出版にあたり、これを演奏できるホルン奏者が少ないため、楽譜が売れないのを心配して、チェロ・ソナタに編曲し、付録としてつけています。
チェロ版もぜひ聴いてみてください。
第2楽章 ポコ・アダージョ・クアジ・アンダンテ
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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