〝田園スケッチブック〟に書かれたもの
ベートーヴェンは、『シンフォニア・パストラーレ(田園交響曲)』を、単なる自然の模倣ではなく、感情の表現である、としつこいまでに強調しました。
このコンセプトが一番明確に現わされているのが、第2楽章です。
ベートーヴェンは、田舎の自然をこよなく愛しました。
夏には、避暑と療養をかねて、ウィーン郊外ハイリゲンシュタットの大きな農家の部屋を借りて、作曲の構想を練っていました。
ポケットに、浮かんだ楽想を書き留める楽譜帳(スケッチブック)を突っ込み、物思いに耽りながらひとり森を散策するベートーヴェンの姿は、多くの人の心にあるイメージでしょう。
そこは今でも「ベートーヴェンの散歩道」として残っています。
ベートーヴェンのスケッチブックには、音符だけでなく、次のような言葉も記されています。
『森の中で 自分は幸福だ 木々は語る お前を通して おお神よ なんと素晴らしい』
『どの樹もみな私に語るではないか。聖なるかな、聖なるかな、森の中は恍惚たり』
その想いを曲にしたのがこのシンフォニーです。
集中して作曲したのは1807年夏から翌年にかけてですが、この時期のスケッチブックのひとつは118ページで、英国図書館にあり「Add Ms 31 766」の管理番号が付され、専門家からは「田園スケッチブック Pastrale Skizzenbuch」と呼ばれています。
もうひとつ、「ランツベルク10」という56ページの楽譜帳がベルリンの国立図書館にあり、あとボンやウィーンにある脱落ページを合わせた研究によって、全5楽章が作られる過程がだいぶ明らかにされています。
作曲家が示した〝曲のトリセツ〟
そこには、さらにこのシンフォニーのコンセプトが書きつけられています。
『どんな場面を思い浮かべるかは、聴くものの自由にまかせる。性格交響曲(Sinfonia caracterislica)、あるいは田園生活の思い出。あらゆる光景は器楽曲であまり忠実に再現しようとすると失われてしまう。パストラル交響曲。田園生活の思い出(イデー)をもっている人は、だれでも、たくさんの注釈をつけなくとも、作者が意図するところは自然にわかる。描写がなくとも、音の絵というより感覚というにふさわしい全体はわかる。』
また、初演の際にも異例なことに次のような注釈をつけました。
『シンフォニア・パストラーレは絵画ではない。田園での喜びが人の心に呼び起こすいろいろな感じが現わされており、それに伴って田園生活のいくつかの感情が描かれている。』
第2楽章は『小川のほとりの情景』と題され、夏の小川の清澄なせせらぎ、木々をわたるさわやかな風、小鳥たちのさえずりがありありと音楽から浮かびます。
同じシチュエーションは、ハイドン『四季』「夏」の涼しい森の場面にあり、ハンネが『さあ、暗い森にきました』と歌い、小川の流れや、ぶんぶんいう虫などがリアルに音で描写されています。
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『田園』は、それとは一線を画し、自然の描写ではなく、自然に接したときの自分の気持ちを表現した、というところがベートーヴェンの強いこだわりなのです。
音楽は抽象的なものですが、それだけに、人の繊細な感情、心の中の襞を表すことにかけては他の芸術より優れています。
しかし、どんな気持ちを表現しているのかは、オラトリオやオペラなど歌詞がある歌であれば分かりやすいですが、器楽曲ではそうはいきません。
バッハのコンチェルトに恋愛感情を表したものだとしか考えられないような甘美な旋律があっても、バッハは〝これは恋を表現したものだ〟とは教えてくれないので、想像するしかありません。
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それが器楽曲の良さでもありますが、ベートーヴェンはここではその中間というべき、微妙な線をいきます。
ある程度のヒントはあげるけど、あとはそれぞれが自分の感情に照らして味わってほしい、という〝トリセツ〟つきの曲というわけです。
まさに画期的な試みというべきでしょう。
この第2楽章では、小鳥のリアルなさえずりが聞こえてきますが、それは自分の心の中に響く音なのです。
この頃のベートーヴェンは、音楽家として致命的な、進みゆく難聴の耳疾に対して、一度は墜ちた絶望の淵から這い上がり、受け入れていく覚悟ができたように感じられます。
彼が愛した自然界の音は、耳からではなく、だんだんと心の中に響くようになっていったのです。
『田園交響楽』は、聴く人の心の中の田園風景として広がっていきます。
Ludwig Van Beethoven:Symphony no.6 in F major, Op.68 "Pastoral"
演奏:ホルディ・サヴァール指揮 ル・コンセール・ナシオン
Jordi Savall & Le Consert des Nations
第2楽章 『小川のほとりの情景』アンダンテ・モルト・モッソ
ホルンが田園風景の基礎というべき主音を持続させる中、弦が小川のせせらぎを表します。リズムは単純ではなく、表情豊かに揺れ動きます。第1ヴァイオリンが各小節の終わりに奏でるモチーフは、水の流れ、風の動き、小鳥のさえずりなど、さまざまな自然の音を心に思い浮かばせます。
弦のせせらぎはだんだん細かくなりますが、冒頭の音型を8分音符から16分音符に変奏させることによって表現しています。
やがてファゴットに現れる歌は、クラリネットやフルートが和し、広がっていきます。
展開部に入ると、フルートが素早いアルペッジョを奏するなど、自然の動きが活発になり、にわかに風が強くなったり、鳥の群れがやってきたり、といった情景が浮かびます。ここでの木管楽器の活躍は、モーツァルトのピアノ・コンチェルトの緩徐楽章を発展させたように感じられます。
再現部では風は収まり、ヴァイオリンのトリルが小鳥のさえずりを思わせます。
そして、終わり近くに、フルートがナイチンゲール(夜鶯)の声をリアルに吹き、それにオーボエによる鋭いうずらの鳴き声が加わると、ほぼ同時にクラリネットがカッコウがうずらにつられて呼応します。まるで時が止まったかのような静謐な瞬間です。
ハイドンの真似のようにも思われますが、この描写は変ロ長調の主和音の範囲で行われており、音楽としての文脈の中に組み込まれるよう絶妙に処理されています。
2回目の小鳥の重唱のあと、これまでの主なテーマを振り返って、弦のピチカートで実に穏やかに曲を閉じます。
動画は、前回の続きでパーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンの演奏です。
第2楽章
Beethoven's Symphony No. 6 "Pastoral", 2nd movement | conducted by Paavo Järvi
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
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